マキァヴェッリ――政治は道徳と別の論理で動く(ヴィルトゥとフォルトゥナ) — Epoché
近代 ルネサンスと科学革命 約 18 分 本文 約 7,500 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 生涯・現実・力量と運の 3 つ 生涯 共和国フィレンツェの第二書記局の書記官として 14 年働いたが、1512 年にメディチ家が戻って職を失い、投獄の後、郊外の農地で 1513 年末に『君主論』を書いた。共和政を論じる『ディスコルシ』も書いた。 現実 あるべき姿でなく、実際にある姿を見よ、と言う(『君主論』第 15 章)。愛されかつ恐れられるのが望ましいが、両方が無理なら恐れられる方が安全で、ただし憎まれてはならない(第 17 章)。これを道徳の否定と読むか、政治に別の論理を見る読みか、解釈は分かれる。 力量と運 運は人の行いの半分を裁くが、残りの半分は人に任されている。運は荒れる川に似ていて、穏やかなときに堤を築いておけば害を抑えられる(『君主論』第 25 章)。その備える力がヴィルトゥである。 はじめに 「マキァヴェリズム」という言葉は、目的のためなら手段を選ばないやり方を指して使われます。その名のもとになったのが、16 世紀初めのフィレンツェの人、ニッコロ・マキァヴェッリです。16 世紀には早くも悪魔の使徒と非難され、一方で国の利益を何より先に立てる「国家理性」を説く人々には、共感をもって読まれました [1] 。 けれども、その主著『君主論』を書いたのは、権力の座にいる人ではありませんでした。共和国に 14 年仕え、政変で職を失い、投獄されたあと、郊外の農地に退いた元の役人です。しかも同じ人が、共和政の原理を論じる『ディスコルシ』も書いています [1] 。 マキァヴェッリが問うたのは、政治の世界で国を保つのは何か、ということでした。それまでの助言の書は、君主が善い人柄を保てば支配はうまくいく、と教えてきました。彼はこれに、実際にある姿を見よ、と言って異を唱えます。善い人柄だけでは国は守れない、というのです [1] 。 この課では、まず生涯と『君主論』の成り立ちを、次に、ある姿を見る政治論と、それが道徳の否定かどうかをめぐる読みの対立を見ます。最後に、力量と運の関係を、第 25 章の原文で読みます。 この課の問い 前の課のピコは、人は自分のあり方を選べる、と説きました。同じフィレンツェで、その後、共和国に仕えて職を失った一人の役人は、別のことを問いました。政治の世界で国を保つのは、善い人柄なのでしょうか。それとも、善悪とは別の決まりがあるのでしょうか。そして、人の力は運にどこまで逆らえるのでしょうか。 この課のことば ヴィルトゥ({it:virtù}) ふつうは「徳」と訳すイタリア語です。マキァヴェッリは、国を保ち大きなことを成しとげるために君主が身につける力量・才覚の全体を指して使います。善い人柄と同じではありません。 フォルトゥナ({it:fortuna}) 運・運命のことです。古くは、善いものも悪いものも気まぐれにもたらす女神として描かれました。マキァヴェッリは、国の秩序をおびやかす荒々しい力として描きます。 君主の鑑 中世・ルネサンスに多く書かれた、君主への助言の書の型です。君主が諸徳と信心を保てば、長く平和に治められる、と説きました。 国家理性 国そのものの善を、道徳や市民の善よりも先に立てる考え方です。16 世紀以後、マキァヴェッリの名とともに論じられました。 政治の現実――善い人柄で国は保てるか マキァヴェッリの名は「手段を選ばない」の代名詞になりました。けれども、彼が何を言い、なぜそう言ったのかを読むと、話はもっと込み入っています。この章では、生涯と『君主論』の成り立ち、あるべき姿でなくある姿を見る政治論、力量と運の関係の順に読みます。 書記官から山荘へ――『君主論』が書かれたわけ マキァヴェッリは 1469 年 5 月 3 日、フィレンツェに生まれました。若いころにラテン語の名高い教師に学び、すぐれた人文主義の教育を受けています [1] 。フィレンツェでは 1494 年にメディチ家が追われ、共和国の政治が始まっていました。サヴォナローラの指導と失脚を経た 1498 年、マキァヴェッリは共和国の第二書記局の書記官に任じられます [1] 。 それから 14 年、彼はイタリア各地の都市や、フランス王の宮廷、皇帝マクシミリアンのもとへ使節として赴き、各地の出来事を報告書に書き送りました。1502 年に終身の正義の旗手(共和国の長)となったソデリーニに重く用いられ、市民からなる軍の組織にも携わります [1] (図 1) 。 1469 年 フィレンツェに生まれる 1494 年 メディチ家が追われ共和国に 1498 年 第二書記局の書記官に 1502 年 ソデリーニが終身の旗手に 1512 年 メディチ家が戻り、職を失う 1513 年初め 投獄・拷問の後、郊外の農地へ 1513 年末 『君主論』を書く 1514〜19 年ごろ 『ディスコルシ』を書き継ぐ 1521 年 『戦術論』刊 1525 年 『フィレンツェ史』を教皇に 献じる 1527 年 没する 1531・32 年 『ディスコルシ』『君主論』刊 (没後) 図 1 マキァヴェッリの生涯と著作です(年は SEP によります [1] )。強調した 1512 年に共和国が倒れ、彼は職を失いました。『君主論』も『ディスコルシ』も、出版は没後です。 1512 年、スペインと教皇の軍の助けでメディチ家が戻り、共和国は倒れました。マキァヴェッリは職を解かれ、1513 年初めには陰謀の疑いをかけられて、数週間投獄され、拷問を受けます。その後、フィレンツェ郊外の家の農地に退きました [1] 。 『君主論』は、この農地で 1513 年末(1514 年初めまでかかったかもしれません)に、急いで書かれました。メディチ家に認められて、政治の場に戻りたいという望みもありました。前の政府の同僚の多くは、すでにメディチ家のもとで職に戻っていたのです [1] 。献呈の相手は初めジュリアーノで、その死後はロレンツォ(小)に替えられましたが、1516 年に手渡されたロレンツォは、まず読まなかったと考えられています。出版は没後の 1532 年です [1] 。 友人ヴェットーリに宛てた 1513 年 12 月 10 日の手紙で、彼はこの日々を書いています。昼は農地や宿屋で村人と過ごし、夕方に家に戻ると、泥にまみれた服を脱いで宮廷の礼服に着替えます。そして書斎で古の人々と語り合い、『君主について』という小さな書物を書いた、というのです。 同じころから、彼は『ディスコルシ』を書き継ぎました。ローマの歴史家リウィウスの注釈の形をとって、共和政の原理を論じる本です。1514 年か 1515 年に始め、1518 年か 1519 年に仕上げ、これも没後の 1531 年に出版されました [1] 。 ここで間違えやすい 『君主論』を、権力の座にいる人が自分の支配のために書いた手引きだと思わないようにしましょう。書いたのは、共和国に仕えて職を失った元の役人で、本は生前には出版されませんでした。同じ著者が『ディスコルシ』では共和政の原理を論じています [1] 。 あるべき姿でなく、ある姿――狐と獅子 中世・ルネサンスの「君主の鑑」は、君主が諸徳と信心を保てば、長く平和に治められると説きました。善く行えばうまくいく、という考えです [1] 。 マキァヴェッリはこれに真っ向から反対します。『君主論』第 15 章で、人がどう生きるべきかと、実際にどう生きているかはかけ離れている、と言います。だから君主は、善くない者でいられることを学び、必要に応じてそれを使い分けねばならないのです [2] 。第 12 章では、良い法は良い軍なしにありえないので、法でなく軍を論じる、とも言います [1] [2] 。 第 17 章は、愛されることと恐れられることを比べます。両方がそろうのが望ましいものの、両立は難しく、どちらかを欠くなら恐れられる方がはるかに安全だ、というのです [2] 。人は恩知らずで移り気で、利に聡いと彼は見ます。愛の絆は都合しだいで断ち切られますが、恐れは罰への怖れで人をつなぎとめます [1] 。ただし同じ章で、憎まれることは避けよ、とも言っています [2] 。 第 18 章では、戦い方には法による人のやり方と、力による獣のやり方があり、君主は両方を使えねばならない、と言います。獣のうちでは狐と獅子を選ぶべきだとされます。獅子は罠から身を守れず、狐は狼から身を守れないからです (図 2) 。諸徳を全部持つ必要はないが、持っているように見せることは要る、とも言います [2] 。 狐:罠を見抜く 君主は狐でもあり 獅子は罠から身を守れない 輪なわ 枝で覆った落とし穴 獅子:狼を脅す 獅子でもある 狐は狼から身を守れない 狼は後ずさる 場面に応じて両方を使い分ける 図 2 『君主論』第 18 章の狐と獅子を絵にしたものです(本教材の絵)。一つ目の絵では、狐は罠を見抜きますが、獅子は罠にかかります。二つ目の絵では、獅子は狼を追い払いますが、狐は狼に囲まれます。どちらか一方だけでは足りないので、君主は両方を使い分けよ、というのです。狐・獅子・罠・狼は原典の言葉で、君主の姿と配置は本教材の描き方です。 これは道徳の否定なのでしょうか。読み方は 16 世紀から分かれています (表 1) 。シュトラウスは残酷と欺きを勧める「悪の教師」と読み、クローチェは政治では日常の倫理が停止されるとする現実主義者と読みました。スキナーは、できるなら善から離れず、必要なら悪に入ることを知れ、という第 18 章の言葉から、条件が同じなら彼は徳を選ぶ、と読みます。ルソーは、君主の真実を民衆に暴いた書と読みました [1] 。本教材は、どれか一つに決めずに読み進めます。 この表で分かること: マキァヴェッリが道徳をどう扱ったかは、16 世紀から今まで読み方が大きく分かれています。 読み方 主な読み手 読みの要点 よりどころ 悪の教師 シュトラウス(1958) 正義や慈悲より残酷と欺きを勧める 恐れと欺きの勧め 政治の現実主義 クローチェ(1925) 政治では日常の倫理が停止される ある姿を見よ(第 15 章) やむをえぬ悪 スキナー(1978) 条件が同じなら徳を選ぶ できれば善、必要なら悪(第 18 章) 暴露・風刺 ルソー、マッティングリー 君主の不徳を民衆に暴く 喜劇作家の筆 表 1 道徳をめぐる主な読み方。読み手と年は SEP の整理によります [1] 。 ここで間違えやすい 「目的は手段を正当化する」を、本人の言葉だと思わないようにしましょう。この形の一文は『君主論』にそのままは無いとされ、第 18 章の、人は結果を見て判断するという趣旨の箇所が言い換えられたものと考えられています。残酷さや欺きを勧めたのか、やむをえぬ手段として論じたのかは、表1の読みの対立そのものです。 ヴィルトゥとフォルトゥナ――氾濫する川と堤 国を保つために君主に要るものを、マキァヴェッリはヴィルトゥ( virtù )と呼びます。ふつうなら「徳」と訳す語ですが、ここでは国を保ち、大きなことを成しとげるために要る性質の全体を指します。その核は、運と状況が求めるままに、善から悪へ、また善へと、ふるまいを変えられる「柔軟な気質」だ、と SEP の著者は整理します [1] 。 その相手がフォルトゥナ(運)です。昔の描き方では、運は善いものも悪いものももたらす、気まぐれな女神でした。マキァヴェッリの運は、人に災いをもたらす容赦のない力で、国の秩序の敵です [1] 。『君主論』第 25 章は、世の中は運と神が治めていて人の思慮では正せない、と考える人が多いことから話を始めます。自分もときにそう傾く、と認めたうえで、彼は、運は行いの半分を裁くが、残りの半分か、それに近いものは人に任されている、と判断します [2] 。この「半分」は、測った割合ではなく、人の働く余地を言うための言い方です。 運は荒れ狂う川に似ている、と彼は言います。川は怒れば平野を水に沈め、木も建物も倒します。それでも、穏やかなときに堤と土手を築いておけば、水は水路を流れるか、勢いが弱まります。運が力を振るうのは、それに逆らう力量が備えられていない所だ、というのです (図 3) 。そして、イタリアこそ堤の無い平野だ、と当時の政治を診断します [2] 。 穏やかなとき:堤を築く 水路 川 堤と土手を築き、杭を打ち、水路を掘る 川は細く静かに流れている 増水したとき 堤の無い側:運が力を振るう 水路へ 堤と水路が、害を抑える 図 3 『君主論』第 25 章の川と堤を絵にしたものです(本教材の絵)。一つ目の絵は穏やかなときで、人々が堤と土手を築き、水路を掘っています。二つ目の絵は増水したときで、堤のある手前の側では水が水路へ流れて害が抑えられ、堤の無い奥の側では水があふれています。マキァヴェッリは、イタリアを堤の無い平野にたとえました。川・堤・土手・水路は原典の言葉で、人の数と配置は本教材の描き方です。 続けて彼は、慎重な人も勢いのある人も、時代のありさまに合えば成功し、合わなければ滅ぶ、と言います。教皇ユリウス 2 世は何事も勢いで押し、時代が合ったので成功し続けました。けれども、人は生まれつきの傾きを変えられず、うまくいった道からも離れられません。性質を時代に合わせて変えられるなら、運は変わらないのだが、と彼は書きます [2] 。SEP の著者は、『君主論』に、時代に合わせて性質を変えた君主の実例が一人も挙がっていないことに目を留めます。そして、彼自身もそうした柔軟さが人に可能かを強く疑っていたようだ、と読みます [1] 。 章の最後で、彼は、慎重より勢いの方がよい、運は女だから、押さえつけるには叩かねばならない、と言います [2] 。SEP は、運を暴力の源として描き、それに勝つには極端な応答の備えが要る、という考えをここに読みます [1] 。ただし、これは当時の女性観をそのまま映した、今日では受け入れがたい言い方でもあります。 ここで間違えやすい 「ヴィルトゥ」を「徳」と訳して、善い人柄のことだと思わないようにしましょう。マキァヴェッリのヴィルトゥは、状況に応じて善にも悪にもふるまいを変えられる力量で、ふつうの諸徳とは同じではありません [1] 。また、彼は運に必ず勝て