ヘーゲル――自己意識は他者に認められて成り立つ(承認・主と奴) — Epoché
近代 ドイツ観念論 約 17 分 本文 約 7,200 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 欲望・承認・労働の 3 つ 欲望 自己意識は、まず物を食べ、使い、打ち消して自分を確かめようとする。だが満足は物と一緒に消え、また次の物が要る。自己意識が満たされるのは、もう一つの自己意識においてだけである(第 4 章の導入)。 承認 自己意識は、他の自己意識に認められたものとしてだけある。だが、自分がただの命ではないと示そうとする二人は命を賭けて争い、死を恐れて退いた側が奴に、賭け通した側が主になる(第 4 章 A)。 労働 主は奴に認められるが、自分が認めていない者からの認めは一方的で、主は満たされない。かえって奴は、死への恐れと主のための労働を通して、物に残る形のうちに自分を見る。これを歴史を動かす物語と読むのは解釈の一つで、読み方は分かれる。 はじめに 前の課では、ヘーゲルの『精神現象学』(1807 年)の前半を読みました。意識は感覚的確信・知覚・悟性と形を変え、最後に、物の背後に見ていたものが自分の働きでもあると気づいて、自己意識へ移りました [1] 。この課は、その続きの第 4 章です。 認められたい、という思いは、私たちにも身近です。ヘーゲルはこれを気分の問題としてではなく、自己意識が成り立つ仕組みの問題として考えました。 第 4 章は、『精神現象学』でいちばんよく知られた部分とされます。ここでヘーゲルは、どんな意識にも欠かせない、人と人のあいだの条件を調べます。その中心が、承認をめぐる争いと、主と奴の物語です [1] 。 この場面を有名にしたのは、20 世紀のコジェーヴの講義でした。講義は 1933〜1939 年に行われ、1947 年に本になりました。その後、ホネットやピピンらが、コジェーヴとは違う仕方でこの場面を読み直し、ヘーゲルの精神の考えを新しく説明しようとしています [1] 。 はじめに、自己意識がまず欲望として現れ、物を打ち消しても満たされない理由を見ます。次に、承認の考えと命を賭けた争いを見ます。最後に、勝ったはずの主が行き詰まり、負けた奴が労働を通して自分自身に至る逆転を読みます。 この課の問い 「自分は自分だ」という確信は、自分ひとりで確かめられるのでしょうか。それとも、誰か別の人に認められて、はじめて確かになるのでしょうか。認められたいという思いが争いになるとき、何が起きるのでしょうか。 この課のことば 自己意識 自分が自分であることを知っている意識。前の課の終わりで、意識が物の背後に自分の働きを見て、ここへ移りました。 欲望({de:Begierde}) 自己意識の最初の姿。目の前の物を食べたり使ったりして打ち消し、それで自分を確かめようとする動きです。悪い欲という意味ではありません。 承認({de:Anerkennung}) 相手を、自分と同じく自分を知る者として認め、相手からも同じように認められること。「認め合い」と言いかえられます。 生死を賭けた闘争 二つの自己意識が、自分がただ生きているだけの物ではないことを示すために、互いに命を賭ける争いです。 主({de:Herr})と奴({de:Knecht}) 闘争で死を恐れて退いた側が奴、命を賭け通した側が主になります。「主人と奴隷」「主と僕」とも訳されます。 労働・形成({de:Bilden}) 奴が主のために物に手を加えて形を与えること。作られた形は残り、働く者はそこに自分を見ます。 承認と主と奴――自分であるには、なぜ他者が要るのか この章では、自己意識が自分を確かめるために、なぜもう一人の自己意識を必要とするのかを読みます。そして、その認め合いがうまくいかない形として、命を賭けた争いと、主と奴の関係を見ます。欲望から承認へ、承認と闘争、主と奴の逆転の順に進みます。 欲望から承認へ――食べても食べても、自分は確かめきれない 前の課で見たとおり、ここから知の対象は、自分自身になります。ヘーゲルは第 4 章に「自己確信の真理」という題を付けます [2] 。では、「自分は自分だ」という確信は、どうすれば本当に確かめられるのでしょうか。 ヘーゲルの最初の答えは、少し意外です。自己意識は、まず 欲望 として現れる、と言うのです [2] 。目の前の物は、自分とは別に、それだけで立っているように見えます。欲望は、その物を食べ、使い、打ち消します。そうして、本当にあるのは物ではなく自分のほうだ、と確かめようとするのです。 ところが、この確かめはうまくいきません。教材の作例で考えてみます。お腹のすいた人がパンを食べると、その時は満ち足ります。けれども、パンと一緒に満足も消えます。数時間たてば、また次のパンが要ります。欲望は、打ち消す相手がいなければ満たされません。だから、かえってその相手に頼っているのです [2] 。 しかも、パンは何も答えてくれません。パンを何百個食べても、「自分はこういう者だ」という確かさは返ってきません。ヘーゲルによれば、打ち消しても無くならず、しかも自分の側で自分を打ち消すことのできる相手は、同じく自己意識である者だけです。だから、自己意識はもう一つの自己意識においてだけ満足に達する、とヘーゲルは言います [2] (図 1) 。 ① 意識(第 1〜3 章) 外の物を知ろうとし、背後に自分の 働きを見る ② 欲望 物を打ち消して自分を確かめるが、 満足は消える ③ もう一つの自己意識 認められてはじめて自分である ④ 生死を賭けた闘争 命を賭けて示すが、死ねば承認も消える ⑤ 主と奴 退いた側が奴に。奴は労働で物に自分を 見る ⑥ 相互承認 互いに自由な者として認め合う(次の 課へ) 図 1 意識から相互承認までの流れです(本教材の整理)。この課で読むのは②から⑤までで、点線の⑥はまだ先の段です。①は前の課、⑥は次の課につながります。 ヘーゲルはここで、「我々である私、私である我々」という言い方で、のちに精神と呼ぶものを予告します [2] 。一人ひとりの私は、ほかの私たちとの関わりのうちで、はじめて私として立つ、という考えです。SEP は、この考えによって『精神現象学』の歩みが、一人の意識の形をたどることから、人どうしの認め合いの形をたどることへと移っていく、と説明します [1] 。 ここで大切なのは、相手が物と違って、こちらに応じる力を持つことです。物は打ち消されれば無くなるだけですが、人は、こちらの扱いを受けとめ、こちらをどう見るかを返すことができます。自分の確かさが返ってくるのは、そういう相手からだけだ、と言いかえられます(本教材の言いかえ)。 ここで間違えやすい 「欲望」を、物欲のような悪い欲として、ヘーゲルがそれを戒めていると取らないでください。ここでの欲望は、自己意識が自分を確かめるいちばん初めの仕方の名で、道徳の評価ではありません。また「他者が要る」を、寂しいから仲間が要るという気持ちの話と取るのもずれます。問われているのは、自分であることの確かさが成り立つ条件です [1] 。 承認と生死を賭けた闘争――命を賭けて、ただの命ではないと示す 第 4 章の A の初めに、ヘーゲルは要の一文を書きます。自己意識は、他の自己意識にとってそうあることによって、それ自体で、かつ自分にとってあります。つまり、 認められたもの としてだけある、というのです [2] 。この認められることを、ヘーゲルは 承認 と呼びます。 承認は、片方だけでは成り立ちません。もう一人の自己意識に出会うと、自己意識は自分の外へ出て、相手の中に自分を見ます [2] 。そして本当の承認では、二人は、互いに認め合っている者として、互いを認め合います [2] 。SEP は、物を意識できることの条件を、ヘーゲルがこうして他の自己意識との相互の承認にまで広げた、と整理します [1] 。 ここでヘーゲルが言うのは、分かってもらえたらうれしい、という気分のことではありません。自分が自分だという確信が、真理として成り立つかどうかの問題です。ひとりで「私は自由だ」と思っていても、誰もそう認めなければ、その確信は頭の中に閉じたままです(本教材の言いかえ)。 ところが、実際に出会う二人は、はじめ互いを、ただ生きている一つの生き物としてしか見ていません。自分がただの命に縛られた者ではないことを示すには、自分の命を賭け、相手の死をも目指すほかない、とヘーゲルは書きます。これが 生死を賭けた闘争 です [2] 。命を賭けなかった者は、人格としては認められても、自立した自己意識として認められる真理には届かない、とも言います [2] 。 しかし、どちらかが死ねば、認めてくれる相手もいなくなります。死による証しは、闘争が求めた承認そのものを打ち消してしまいます [2] 。そこで、一方が命を惜しんで退き、もう一方に従う形が生まれます。退いた側が奴、命を賭け通した側が主です [2] 。 この形がなぜ行き詰まるのかを、教材の作例で先取りしておきます。ある王が家来に毎日拍手を命じても、王は満たされません。拍手するのは、王が人として重んじていない、言われたことをするだけの者たちだからです。王が満たされるのは、同じ高さで向き合う相手から、互いに認め合うときです (図 2) 。 命じられた拍手 空っぽ 言われたから 本教材の作例 対等な相手からの敬意 あなたを認める あなたを認める 本教材の作例 図 2 二つの場面を見比べる作例です(本教材の絵で、ヘーゲル本人の例ではありません)。「命じられた拍手」では、重んじていない家来に拍手させても、王の心は空っぽのままです。「対等な相手からの敬意」では、同じ高さで向き合う相手と互いに認め合っています。認めは、こちらも認めている相手から来るときに満たします。 ここで間違えやすい この闘争を、「人間はもともと争うものだ」「強い者が支配するのは当然だ」という主張と取らないでください。ヘーゲルは闘争と主と奴の関係を、承認の不完全な形として描き、その行き詰まりを示しています [2] 。 主と奴の逆転――恐れと労働が、奴を自分自身へ導く 勝ったはずの主は、満たされるでしょうか。主は奴に認められ、奴が手を加えた物を享受します。主は奴を通して物と関わり、物を通して奴と関わるのです [2] 。けれども、主を認めているのは、主が自分と同じ者と見ていない奴です。この承認は一方的で、不平等です [2] 。 そこでヘーゲルは、自立した意識の真理は、かえって奴の意識のほうにある、と言います [2] 。奴を自分自身へ導くものは二つあります。一つは 恐れ です。奴は、ある物やある時を恐れたのではありません。自分の存在の全体について、絶対の主人である死を恐れたのです。その恐れのうちで、奴を支えていた固いものは、すべて揺さぶられます [2] 。 もう一つは 労働 です。教材の作例で比べてみます。主は、奴が摘んできた果物を食べます。おいしいけれど、食べ終われば何も残りません。奴は、主のために木を削り、器を作ります。すぐ休みたいのを抑えて、何日もかけて形を整えます。器は主の食卓に置かれますが、その丸みも削り跡も、奴の手が作ったものです (図 3) 。 享受 食べると消える すぐ 労働 器のうちに自分を見る 形が残る 何日も 図 3 享受と労働を見比べる絵です。「享受」の場面で主が食べる果物は、すぐに消えます。「労働」の場面で奴が何日もかけて削る器は、形として残り、奴はそこに自分を見ます。労働は抑えられた欲望であり、形を与えるというヘーゲルの論(原典を読む)を、本教材が果物と器の場面にしました。 ヘーゲルは、欲望の満足は消えるが、労働は「抑えられた欲望」であり、物に形を与える、と言います。形は物のうちに残るので、働く者は、そこに自分の姿を見ます(原典を読む) [2] 。三つのあり方を並べると、欲望と主は消えるものに頼り、奴だけが残るものに自分を見ていることが分かります (表 1) 。 この表で分かること: 三つのあり方は、それぞれ違う仕方で自分を確かめようとします。欲望と主は、打ち消して消えるものに頼り、奴だけが、残る形のうちに自分を見ます。 あり方 何で自分を確かめるか 物との関わり 行き詰まりと得るもの 欲望(第 4 章の導入) 物を打ち消すこと 食べて消す 満足は消え、また物が要る 主(A) 奴に認められること 奴を通して享受する 認めは一方的で満たされない 奴(A) 恐れと労働 物に形を与える 残る形のうちに自分を見る 表 1 自己意識の三つのあり方の比較(本教材の整理)。欲望は第 4 章の導入、主と奴は A の場面です [2] 。 恐れと労働は、片方だけでは足りません。形づくることのない恐れは、心の内で黙ったまま終わります。深い恐れを知らずに形づくるだけなら、自分勝手な我意にすぎません。両方がそろって、奴は自分自身に至ります [2] 。 ただし、奴はこれで自由になるのではありません。ヘーゲルは、奴が得た自分の確かさを、考えの中だけの自由であるストア主義、すべてを疑う懐疑主義、そして不幸な意識へと進めます(第 4 章 B) [2] 。互いに自由な者として認め合う 相互承認 がどこで実現するかは、次の課の問題になります。 ここで間違えやすい 主と奴の話を、「虐げられた者がやがて勝つ」という革命の予言とだけ取らないでください。主と奴を、歴史を動かす物語として読む見方は広く知られていますが、それは解釈の一つです。SEP は、この場面を有名にしたのはコジェーヴで、その後、別の仕方で読み直す人々が現れた、と述べます [1] 。ヘーゲル自身は、奴の得た自立をまだ不完全なものとして、次の段へ進めています。 原典を読む 第 1 章の三つ目の節で見た、労働の所を読みます。原文はドイツ語で、本教材が訳しました。 ヘーゲル『精神現象学』第 4 章 A §195 労働は抑えられた欲望であり、形づくる 直前でヘーゲルは、奴が死への恐れのうちで揺さぶられたことを述べました。ここでは、労働が要る理由が語られます。 1 けれども、絶対的な力の感情は、全体としても、個々の奉仕のうちでも、 それ自体として 起きているだけの解体にすぎません。 2 主への恐れは知恵の始まりですが、意識はその恐れのうちで、 自分自身にとって あるだけで、まだ 対自存在 ではありません。 3 しか