アリストテレス――生き物は目的に向かって育つ(目的論・魂は身体の形相) — Epoché
古代 アリストテレス 約 22 分 本文 約 9,600 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 目的・形相・段階の 3 つ 目的 アリストテレスによれば、自然の中で、いつも、またはたいてい同じように起こることは偶然ではなく、何かのためである。ツバメの巣、蜘蛛の網、実をおおう葉、下へ伸びる根は、考えて作られたのではないが、目的のために生じる(『自然学』II.8、198b–199a)。雨そのものにまで目的を見るかは、読み方が分かれる。 形相 魂は、生命を可能態として持つ自然の身体の形相であり、器官をもつ自然の身体の「第一の完成態」である(『魂について』II.1、412a–b)。目が生き物なら、見る力がその魂になる。また、魂と身体が一つかどうかは、蝋とその形が一つかどうかと同じく、問う必要がないとされる。 段階 魂の働きは、栄養(植物にもある)・感覚(動物にもある)・思考(自然の生き物のうちでは人間だけ)と段をなし、上の段を持つものは下の段も持つ。SEP は、なぜそうなるのかの説明が目的論的だとまとめる(『魂について』III.12)。 はじめに アリストテレスは、前 384 年ごろ、エーゲ海の北のスタゲイラに生まれ、前 322 年ごろに没しました [1] 。プラトンの学園で学んだのち、自分の学園を開き、論理学から倫理学まで幅広く書きました。なかでも量が多いのが、生き物、とくに動物についての研究です。動物の体の部分、生まれ方、動き方を、彼は細かく観察して書き残しました [2] 。 前の課では、一体の青銅の像について「なぜ」と問い、四つの答え方(四つの原因)を見ました。そこで目的の手本になったのは、職人が像を作るという制作でした。像は、完成する像のために、溶かされ、型に流され、磨かれます。けれども、自然の中には職人がいません。誰も考えて作っていない生き物の体や働きにも、「何のために」という問いは当てはまるのでしょうか。 この課では二つの本を読みます。一つは『自然学』第 2 巻第 8 章です。アリストテレスはここで、自然は目的のために働くのか、それともすべては必然と偶然で起こるのかを論じます [3] 。もう一つは『魂について』第 2 巻第 1 章です。ここで彼は、生き物を生き物にしている「魂」を、身体の「形相」として定義します [1] [4] 。二つは別の本ですが、どちらも「生きているものは、それ自身の中に目的と形を持つ」という一つの見方でつながっています。 今の日本語で「魂」と聞くと、死ぬと体から抜け出す何かを思い浮かべるかもしれません。アリストテレスの「魂」は、それよりずっと広く、トマトが育つことも、蝶が花の匂いを感じることも含みます。その魂が身体とどう関わるのかが、この課の後半の中心です。 この課の問い ツバメは巣の作り方を考えて決めたわけではないのに、巣はひなを守るのにちょうどよくできています。考えも意図もないところに「目的」があると言えるのでしょうか。そして、生き物を生き物にしている「魂」とは、身体とどういう関係にあるのでしょうか。 この課のことば 目的論 ものごとを「何のためにあるのか」から説明する考え方。この語は 18 世紀にヴォルフが使い始めた後の時代の呼び名で、アリストテレス自身は「そのためのもの」と言います。 自然(ピュシス) ものが自分の中に持っている、動いたり止まったり育ったりする始まり。外から職人に動かされて形になる道具や家と違うところです。 魂(プシューケー) 生き物を生きているものにしているもの。人間の心だけでなく、植物が養分をとって育つことや、動物が感じることも魂の働きに入ります。 可能態と完成態 可能態は、そうなりうる力を持つ状態です。像になる前の青銅や芽を出す前の種がそうですし、知識を持っていて使っていない人も、使うことに対しては可能態です。完成態(エンテレケイア)は、その力が実際に形になっている状態です。 第一の完成態 力を身につけてはいるが、いま使っているとは限らない状態。知識を持ったまま眠っている学者がこれにあたり、実際に考えているのは次の段です。 器官をもつ身体 目・根・口のように、それぞれの働きのための部分をそなえた身体。「器官(オルガノン)」は、もとは「道具」という意味の語です。 生き物と目的――考えずに作る自然と、身体の形相としての魂 前の課の四つの原因のうち、いちばん分かりにくいのが目的の原因でした。職人の制作なら、何のために作るのかは分かりやすく見えます。この章では、その目的による説明を、職人のいない自然、とくに生き物に当てはめます。 一つ目の節で、自然が目的のために働くという議論を読みます。二つ目の節で、魂を身体の形相とする定義を読み、三つ目の節で、植物・動物・人間の魂の働きの段を見ます。 自然は目的のために働く――雨は偶然か、ツバメの巣は何のためか 『自然学』II.8 で、アリストテレスはまず反対の考えを置きます。雨が降るのは穀物を育てるためではなく、上った湯気が冷えて水になり、落ちてくるという必然によるのだ、という考えです。穀物が育つのは、たまたまそれに伴うことにすぎません。同じように、脱穀場の穀物が雨で駄目になっても、駄目にするために雨が降ったのではなく、たまたまそうなっただけです(198b16–23) [3] 。 この考えは生き物にも向けられます。前歯が鋭く、奥歯が平たく臼のようなのも、食べ物を噛むためではなく、たまたまそう生じたのではないか。そして、たまたま役に立つ形に生じたものが生き残り、そうでないものは滅びただけではないか、というのです(198b23–32)。アリストテレスは、この考えを、エンペドクレスが語った「牛の体に人の顔」の生き物の話と結びつけて紹介しています [3] 。 アリストテレスの答えの鍵は、「いつも、またはたいてい」という言葉です。歯が使いやすい形に生えることは、いつも、またはたいてい起こります。偶然と言うのは、そうではないことです。冬にしばしば雨が降っても偶然とは言いませんが、犬の星の頃(真夏)にしばしば降れば偶然とされます(199a1–3)。そして、こうしたことは偶然によるか何かのためかのどちらかだとすれば、偶然でない以上、残るのは何かのため、という説明です(198b34–199a8) [3] 。ただし、アリストテレスが雨そのものにまで目的を見たのかどうかは、研究者の読み方が分かれます [6] 。彼の議論の中心は、いつもまたはたいてい起こる、生き物の部分と働きにあります。 では、考えも意図もない所に、どうして目的があると言えるのでしょうか。アリストテレスは、技術と自然を並べます。家が自然に生じるものだったとしても、技術で建てるのと同じ順に生じるだろう。前のものが後のもののためにある、という並びは同じだからです(199a12–15)。そのうえで、最もはっきりしているのは動物だと言います。ツバメは巣を、蜘蛛は網を、技術も思案もなしに作ります。植物も、葉を実のために出し、根を上でなく下へ、養分のために伸ばします(199a20–30) [3] (図 1) 。 考えずに、しかし何かのために 巣:ひなを守る 網:えさとり 葉:実をおおう 根:下へ養分へ 技術も思案もなしに、しかし何かのために 『自然学』II.8 による本教材の絵 図 1 『自然学』II.8 の例を絵にしたものです(本教材の絵)。ツバメの巣、蜘蛛の網、実をおおう葉、下へ伸びる根は、考えて設計したのではない(消した吹き出し)のに、それぞれ何かのためにちょうどよくできています。巣と網の札の働きは、本教材が補ったものです。 アリストテレスはさらに、思案する動かし手が見えないからといって目的がないと考えるのはおかしい、技術も思案はしない、と言います(199b26–28)。造船の技術が木材の中にあったなら、自然と同じように作るだろう、というのです(199b28–29) [3] 。自然とは、いわば自分の中に技術を持っている材料です。また、文法家が書き誤り、医者が薬を誤るように、自然も的をはずすことがあり、生まれつきの奇形はその的はずれだとされます(199a33–b7)。失敗があるのは、目指すものがあるからです。 SEP によれば、生き物の研究では、目的(形相=魂)が、発生の過程より、原因としても定義としても先にあります。生きるという結果のほうが、そのために必要な部分を、時と所を合わせて作ることを求めるのです。アリストテレスはこれを「条件つきの必然」と呼びます [2] 。これは、完成した個体が自分の発生より時間的に先にある、という意味ではありません。 ここで間違えやすい 自然の目的を、自然を設計した神や、生き物の心の中の願い・意図のことだと取らないようにしましょう。アリストテレスがここで言う目的は、ツバメも植物も「考えずに」持つもので、技術でさえ思案はしない、とまで彼は言います。もう一つ、アリストテレスがあらゆる出来事に目的を見たと取るのも行き過ぎです。目的を言うのは、いつも、またはたいてい起こる生き物の部分と働きが中心で、雨のような出来事をどう扱うかは読み方が分かれます [6] 。 魂は身体の形相――斧が斧であること、目が見ること 『魂について』II.1 で、アリストテレスは、どの生き物にもあてはまる魂の最も共通な説明を求めます。出発点は、前の課で見た質料と形相です。実体には、質料と、形相と、その二つからなるものとがあり、質料は可能態、形相は完成態です(412a9–11) [4] 。生きている自然の身体は、二つからなる実体です。そのうち身体は、生命を「持つ」側、つまり土台(質料)の側にあたります。だから身体そのものが魂ではありえません。 そこで魂は、「可能態において生命を持つ自然の身体の、形相としての実体」だとされます(412a19–21) [1] [4] 。ここで「生命を持つ」とは、自分で養い、育ち、衰えることです(412a14–15)。言い直すと、魂は「器官をもつ自然の身体の第一の完成態」です(412b5–6)。器官をもつとは、それぞれの働きのための部分をそなえていることです。植物の部分も、ごく単純ですが器官です。葉は実の覆いを守り、根は、養分を引き寄せる点で口に似ます(412b1–4) [4] 。 なぜ「第一の」完成態なのでしょうか。完成態には二つの段があります。知識を持っていることと、その知識を使って実際に考えていることです。眠っている人にも魂はあるので、魂は、使っていることでなく、持っていることのほうにあたります。眠りは知識を持って使っていないことに、目覚めは実際に考えていることに似る、とされます(412a22–27) [4] 。 ここからアリストテレスは、二つのたとえを出します (図 2) 。もし斧が自然の身体だったとしたら、「斧であること」、本教材の言い方では、割ることができるということがその魂だろう。それが取り去られれば、それはもう斧ではなく、名だけの斧になる(412b11–17)。ただし実際には斧は道具なので、これはたとえにとどまります。次に目です。もし目が一つの生き物なら、見る力がその魂だろう。見る力が去った目は、石の目や絵に描いた目と同じく、名だけの目になります(412b18–22) [4] 。 斧:割る働きがあってこそ 割る=斧であること 働きが去ると 名だけの斧 (割れない) 斧は道具なので、たとえです 目:見る力があってこそ 目の魂=見る力 働きが去ると 石の目・描かれた目 名だけの目 図 2 『魂について』II.1 の二つのたとえを絵にしたものです(本教材の絵)。一つ目は斧、二つ目は目です。どちらも、形が同じでも働きが去れば、名だけのものになります。魂は身体の中の別の物ではなく、身体が生きて働くことのできる、その形(形相)だ、ということを示します。 この定義から、一つの結論が出ます。魂と身体が一つかどうかを問う必要はない。蝋とその形が一つかどうかを問う必要がないのと同じだ、というのです(412b6–9) [1] [4] 。SEP の整理では、唯物論は心の状態をすべて身体の状態だとし、実体二元論は、魂を身体から離れても存在できるものだとします。SEP のたとえを借りれば、像の形が、溶かされた青銅の後に残らないように、魂も身体を離れては残りません(413a3–5)。他方で、魂は身体の物質そのものでもありません。SEP は、アリストテレスがこの二つの間を行く道を示した、とまとめます [1] 。ただし彼は、どの身体の部分の完成態でもない魂の部分があれば、それは離れうるかもしれない、と書き添えています(413a6–7) [4] 。 難しさも残ります。青銅は、像の形を受け取る前から塊としてあります。ところが人間の身体は、魂を持つことで初めて人間の身体になります。死んだ身体は、石の目と同じく名だけの身体です。だとすると、身体を青銅と同じ意味で「質料」と呼べるのか、と SEP は問います [1] 。 ここで間違えやすい 魂を、身体の中に住んでいて死ぬと抜け出す小さな人のように取らないようにしましょう。アリストテレスの魂は、身体の中のもう一つの物ではなく、身体が生きて働くことのできる、その形(形相)です。逆に、魂を身体の物質そのものだと取るのも誤りです。また、「見る力」は、いま実際に見ていることではありません。目を閉じていても見る力はあり、それが第一の完成態です。 魂の働きの段――育つ・感じる・考える 生きることが、自分で養い、育ち、衰えることなら、植物も生きており、魂を持ちます。SEP によれば、アリストテレスは『魂について』で、魂の能力をまず栄養・感覚・思考(ヌース)として挙げ、のちに欲求や移動の能力も加えます [1] 。挙げ方は箇所ごとに少しずつ違い、三つの主な能力にほかを加えるという整理は、SEP の解説によるものです(II.2–3)。 最も広いのは栄養の能力で、自然の生き物すべてにあります。動物はこれに感覚を加えます。動物はみな、少なくとも触覚を持ちます [4] 。自然の生き物のうちでは、人間だけが思考を持ちます。思考を持つものは感覚も持ち、感覚を持つものは栄養の能力も持ちますが、逆は成り立ちません [1] (表 1) 。欲求は感覚を持つものに伴い、感覚なしには生じないとされます(III.7、431a12–14)。他方、