8.168 自分の頭で考える — 読書は、他人の考えを押しつける — Epoché
この篇でできるようになること ★ たとえを次々に重ねる 書き方が読める。 ★ 読書への反論 を、まっすぐ受け取れる。 ★ 例外を書く ところを見つけられる。 ★ 読 F 三十二篇で何を読んできたか を言える。 前提 : 8.167 まで。型は 3.48 まで。 読む前に ★ 先に、断っておきます。 ★ この篇は、 この課程を否定しています 。 ★ 「多く読むことは、心から弾力を奪う」 ——★ 「自分の考えを持たないいちばん確かな道は、 暇さえあれば本を取ること だ」。 どう扱うか この課の選び ★ 読 F から外す ★ しない ★ 置いて、反論する ★ しない ★ 置いて、読む人に考えてもらう ★ これ ★ 10.15 作編 で「反論はいちばん強い形で立てる」と置きました。 ★ 読編の最後に、 読編への反論をいちばん強い形で置く ——それがこの篇の役目 です。 ★ 8.145 読編 のベーコン「学問について」と、 正面から対になって います。 ★ 読み比べてください。 原文 原文は別の文書にあります(作品ページの「原文」)。本文は 1272 語、文は 45 本、一文の平均は 28.3 語、いちばん長い一文は 95 語です。 ★ 「読む」が 15 回、「考える」が 37 回 出ます。★ 「考える」のほうが多い のが、★ この篇の言いたいこと です。 全訳 原文の全訳です。この課程のために、原文に沿って訳しました。番号は原文の段落の番号で、原文と行き来できます。 図書館はたいへん大きいかもしれません。しかし、乱れていれば、小さくてもよく整っている図書館ほどには役に立ちません。同じように、人は大量の知識を持っているかもしれません。しかし、自分でじっくり考えて仕上げていなければ、その知識は、よく考え抜いたずっと少ない量の知識よりも、はるかに値打ちが低いのです。というのも、人が自分の知識をあらゆる面から眺め、真理と真理を比べて、知っていることどうしを結び合わせたときにはじめて、その知識をしっかりとつかみ、自分の思いのままにできるようになるからです。人は、知らないことを心のなかで考えめぐらすことはできません。ですから、何かを学ぶべきです。しかし、それを考えめぐらしたときにはじめて、それを知っていると言えるのです。 読むことと学ぶことは、誰でも自分の意志でできることです。しかし、考えることはそうではありません。考えることは、すきま風で火がおこるように、かき立てられなければなりません。それは、扱っている事がらへの何らかの関心によって支えられなければなりません。この関心は、まったく客観的な種類のものであることもあれば、単に主観的なものであることもあります。後者がはたらくのは、自分に個人的に関わる事がらにおいてだけです。客観的な関心は、生まれつき考える頭、つまり考えることが息をすることと同じくらい自然な頭にかぎられており、そういう頭はたいへんまれです。だからこそ、学識のある人のほとんどは、それをほとんど示さないのです。 自分で考えることが、読むことと比べて、心にどれほど違った作用をもたらすかは、信じられないほどです。それは、一方を考えるほうへ、もう一方を読むほうへ導く、二つの心の性質のもともとの違いを、さらに推し進め、強めます。私が言いたいのは、読むことは心に、よそものの考えを押しつけるということです――それは、心がそのときたまたまある向きや気分にとって、印章が、その刻印を押される蝋にとってよそものであるのと同じくらい、よそものの考えです。こうして心は、まったく外からの強制の下に置かれます。心は、そのときそうしたい衝動や気持ちが少しも無いかもしれないのに、あれやこれやを考えるように駆り立てられるのです。 しかし、人が自分で考えるときには、自分の心の衝動に従います。その衝動は、そのときに、まわりの環境か、何か特定の思い出によって、その人のために定められています。人のまわりの目に見える世界は、読むことがするように、ただ一つのはっきりした考えをその人の心に押しつけることはせず、ただ材料ときっかけを与えるだけで、それがその人を、自分の性質といまの気分にふさわしいことを考えるように導くのです。そういうわけで、多く読むことは、心からあらゆる弾力を奪います。それは、ばねをたえず押さえつけておくようなものです。自分の考えを何も持たずにいるいちばん確かな方法は、ほかにすることの無いときにはいつでも本を手に取ることです。学識が、たいていの人を生まれつきよりも愚かでばかにし、その人たちの書くものが少しも成功しないようにしているのは、この習慣のせいなのです。彼らは、ポープの言葉を借りれば、こういう者のままです。 永遠に読み続け、決して読まれることのない者![1] 〔脚注1:『愚人列伝』第三巻、一九四行。〕 学識のある人とは、本のページのなかで読書をすませてきた人のことです。思想家や天才とは、まっすぐ自然という本に向かった人のことです。世界を照らし、人類をその道のさらに先へ運んできたのは、彼らなのです。人の考えが真理と生命をそなえるためには、結局のところ、それはその人自身の根本の考えでなければなりません。というのも、その人が十分に、まるごと理解できるのは、それだけだからです。他人の考えを読むのは、招かれてもいない食事の残り物を取るようなもの、あるいは、どこかの知らない客が脱いでいった服を着るようなものです。私たちが読む考えと、私たち自身のなかに湧き出る考えとの関係は、太古の植物の化石の跡と、春に芽吹く植物との関係のようなものです。 読むことは、自分自身の考えの代わりにすぎません。それは、心に歩行ひもを付けることを意味します。本の多さは、どれほど多くの誤った道があるか、そしてそのどれかに従えば人がどれほど遠くへ迷い出てしまうかを示すのに役立つだけです。しかし、自分の才能に導かれる人、自分で考える人、自然に、そして正確に考える人は、正しく舵を取れる唯一の羅針盤を持っています。人が読むべきなのは、自分の考えがその源で淀んだときだけです。そしてそれは、最良の頭の持ち主にさえ、十分たびたび起こることです。それに対して、自分自身の元の考えを追い払うために本を手に取るのは、聖霊に対する罪です。それは、自然から逃げ出して、乾いた植物の標本館を見たり、銅版画の風景をながめたりするようなものです。 人は、自分でじっくり考え、考えに考えを重ねることに多くの時間と手間をかけたあとで、真理や知恵の一部を見つけたかもしれません。そして、ときには、それが本のなかにすっかり用意されているのを見つけて、手間を省けたかもしれない、ということもあるでしょう。しかし、たとえそうであっても、自分で考え抜いて得たのなら、それは百倍も値打ちがあります。というのも、このようにして知識を得たときにはじめて、その知識は、私たちの思考の体系全体のなかに、欠かせない一部として、生きた手足として入ってくるからです。それは、私たちが知っていることと、完全で確かな関係に立ちます。それは、その下にあるものとそこから出てくるものすべてとともに理解されます。それは、私たち自身の考え方の色、まさにその色合い、それと見分けられる印を帯びます。それは、まさに私たちがその必要を感じたちょうどそのときに、ちょうどよい時にやってきます。それはしっかりと立ち、忘れられることがありません。これこそ、受け継いだものを本当に自分のものにするために、それを自分で手に入れよ、というゲーテの忠告の、完全な当てはめであり、いや、その解釈なのです。 父祖から受け継いだものを、本当に自分のものにするために、自分の力で手に入れよ。[1] 〔脚注1:『ファウスト』第一部、三二九行。〕 自分で考える人は、自分の意見を作り、その意見の典拠をあとになってはじめて知ります。そのとき典拠は、意見への、そして自分自身への信頼を強めるのに役立つだけです。しかし、本の哲学者は典拠から出発します。彼は他人の本を読み、その意見を集め、そうして自分のための一つの全体を作りますが、それは、血と肉以外のあらゆるもので組み立てられた自動人形に似ています。反対に、自分で考える人は、自然が作った生きた人間のような作品を作ります。というのも、その作品は人間が生まれるのと同じように生まれるからです。考える心は外から身ごもらされ、それからその子を形づくって産むのです。 ただ学んだだけの真理は、義手や義足、入れ歯、蝋の鼻のようなものです。せいぜい、他人の肉で作った鼻のようなものです。それは、付けられているからというだけで、私たちにくっついているのです。しかし、自分自身で考えて得た真理は、生まれつきの手足のようなものです。それだけが本当に私たちのものなのです。これこそ、思想家と、ただの学識ある人との根本の違いです。自分で考える人の知的な成果は、光と影が正しく、調子が保たれ、色が完全に調和した、見事な絵に似ています。それは生き写しです。それに対して、ただの学識ある人の知的な成果は、あらゆる種類の色でいっぱいの大きなパレットのようなものです。その色は、せいぜい整然と並べられているだけで、調和も、つながりも、意味も欠いています。 語釈 帯の外の語は 59 語です。★ elasticity (弾力)・ erudition (博学)・ leading-strings (子どもの歩行ひも)が要 です。★ Dunciad はポープの詩『愚人列伝』 ——★ 訳者が脚注で出どころを示して います( 9.11 論編 )。 語(品詞) 意味 注 Dunciad en 名 『愚人列伝』。ポープの詩 Erwirb en 動 「獲得せよ」。ドイツ語 Faust en 名 ファウスト。ゲーテの劇の主人公 Goethe's en 名 ゲーテの Holy en 形 聖なる Pilgrims traveled for weeks to visit the Holy well beyond the hills. 巡礼者たちは、丘の向こうの聖なる井戸を訪れるため何週間も旅をしました。 Pope's en 名 ポープの。英国の詩人 Välern en 名 父祖たち( V ä tern の誤植)。ドイツ語 adheres en 動 くっついている A thin layer of dust adheres to everything left in the old attic. 薄い埃の層が、その古い屋根裏に残された何にでもくっついています。 aright en 副 正しく It took him years to finally understand her quiet warning aright. 彼女の静かな警告を正しく理解するまでに、彼は何年もかかりました。 astray en 副 道をそれて A sudden fog led the young hikers astray on the mountain path. 突然の霧は、その若い登山者たちをその山道で道をそれさせました。 attainments en 名 身につけたもの(複数) Despite his modest attainments, the young scholar remained humble about his work. 身につけたものはささやかでしたが、その若い学者は自分の仕事について謙虚なままでした。 automaton en 名 ひとりでに動く仕掛け The old clockmaker built a small automaton that could write its own name. その老いた時計職人は、自分の名前を書けるひとりでに動く仕掛けを作りました。 besitzen en 動 「所有する」。ドイツ語 buds en 動 芽ぶく( buds forth ) Tiny green buds appeared on the old apple tree after the first warm rain. 最初の暖かい雨のあと、その古いりんごの木に小さな緑の芽が現れました。 compass en 名 コンパス The old sailor navigated by the stars whenever his compass failed him. その老いた船乗りは、コンパスが役に立たないときはいつも星を頼りに航行しました。 compulsion en 名 むりやりさせること No compulsion could make the old craftsman rush his careful work. どんなむりやりさせることも、その老いた職人に自分の丹念な仕事を急がせることはできませんでした。 continually en 副 絶え間なく The old mill wheel turned continually, day and night, all through the year. その古い水車は、一年じゅう昼も夜も絶え間なく回り続けました。 contrarily en 副 反対に Everyone expected rain, but contrarily the sky cleared by early afternoon. 誰もが雨を予想していましたが、反対に空は昼過ぎまでに晴れました。 copperplate en 名 銅版画 The old letter was written in careful copperplate that few could match today. その古い手紙は、今日ではほとんど誰も真似できない丁寧な銅版の筆記体で書かれていました。 deinen en 代 「あなたの」。ドイツ語 deprives en 動 奪う Poor lighting deprives the small shop of the warmth it once had. 貧弱な照明は、その小さな店からかつての温かみを奪っています。 devoid en 形 まったく無い The abandoned house felt entirely devoid of the life it once held. その空き家は、かつて持っていた生気がまったく無いように感じられました。