ヘーゲル――自由は制度と歴史のうちで実現する(人倫・世界史) — Epoché
近代 ドイツ観念論 約 18 分 本文 約 7,400 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 意志・制度・歴史の 3 つ 意志 自由とは、何でも選べる気まぐれ(恣意)ではない。自由な意志が自由そのものを意志し、それが世界に形をとったものが「法」である。だから法の哲学は自由の哲学である(§27・§29)。 制度 自由は一人の心の中では完成しない。家族の愛、市民社会の仕事と分業、国家の市民としての暮らしという人倫の制度の中で、自由は具体的になる(§257・§260)。ただし市民社会が生む貧困には、ヘーゲルも確かな答えを持たなかった。 歴史 国家どうしの正と不正を裁くのは「世界法廷」としての世界史である(§340)。『法の哲学』はそこから書の末尾の世界史の論へ移る。哲学はその歩みを、時代が成熟した後に振り返って捉える(序文のミネルヴァの梟)。 はじめに この課は、ヘーゲルを読む三つ目の課です。舞台を晩年のベルリンに移し、自由が社会と歴史の中でどう形をとるかを考えます。 ヘーゲルがベルリン大学で教えていたころに出した『法の哲学』は、社会と政治の思想の主著で、体系の書『エンチクロペディー』の「客観的精神」の部を詳しく展開したものです [1] 。題扉の年は 1821 年ですが、実際に出たのは 1820 年 10 月です [2] 。 この書は、出たときから読み方が割れてきました。序文の「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」は、当時のプロイセンを正しいと認める言葉だと読まれ、二十世紀にはポパーがヘーゲルを全体主義の父と呼びました [1] 。けれども今日の多くの研究者は、この読み方を誤りとしています [1] 。ヘーゲルは生涯フランス革命を称え、バスティーユ陥落の日に祝杯を挙げ続けたと伝えられます [1] 。では、ヘーゲルは国家と個人の自由をどう結びつけたのでしょうか。 原典では、国家を「具体的な自由」の現実と呼ぶ §260 を読みます。 この課の問い 気まぐれに好きなものを選べることは、本当に自由なのでしょうか。自由は一人の心の中で完結するのでしょうか。それとも、家族や仕事や国家という制度、そして歴史の中で、はじめて形をとるのでしょうか。 この課のことば 法({de:Recht}) 法律だけでなく、権利や正しさも含む広い語です。ヘーゲルは、自由な意志がこの世界に形をとってあることを法と呼びます(§29)。 恣意(気まぐれ) あれもこれも選べるけれど、選ぶ中身は衝動や外の事情に決められている自由です。ヘーゲルはこれを本当の自由の手前の段と見ます。 人倫({de:Sittlichkeit}) 習わし(Sitte)に根をもつ語です。家族・市民社会・国家という生きた制度の中で、一人ひとりが自分の自由を自分のものとして見出すあり方を言います。 市民社会 家族の外で、各人が自分の欲求を満たそうと働き、売り買いし、分業でつながる場です。 国家 人倫の最後の段です。政府や役所だけでなく、家族と市民社会を含み、人々が共同体を自分のものと知る全体を言います(§257〜260)。 世界法廷としての世界史 国家どうしの上には裁き手がいないので、その正しさを最後に裁くのは世界史だ、というヘーゲルの言葉です(§340)。 人倫と世界史――自由はどこで、どのように実現するのか この編のヘーゲルの前の二つの課では、意識が経験を通して高まる道と、自己意識が他者に認められて成り立つことを見ました。この章では、その先で、自由が法と制度の形をとり、さらに歴史の中に置かれる姿を読みます。①自由な意志と法、②人倫の三つの場、③国家を越えた世界史と、哲学が遅れてくること、の順に進みます。 自由な意志と法――好きに選べることは、まだ自由ではない 『法の哲学』は序論の初めで、この学問の対象は法の理念、つまり法の概念とその実現だ、と宣言します(§1) [1] [2] 。ここで「法」と訳した語は、ドイツ語の Recht です。この語は法律だけでなく、権利や正しさも含みます。ヘーゲルは法を、自由な意志がこの世界にあること、と定義します(§29) [1] 。だから法の哲学は、そのまま自由の哲学になります [1] 。 では、自由な意志とは何でしょうか。私たちの意志は自分で自分を決める、とヘーゲルは言います(§4 補遺) [1] 。動物は衝動にただ従いますが、人は立ち止まって選べます。けれども、選んだ中身が自由から出たのか、ただの気まぐれなのかは、まだ分かりません [1] 。あれもこれも選べることを、ふつう人は自由と呼びます。ヘーゲルはこれを恣意( Willkür )と呼び、本当の自由の手前の段に置きました。選ぶ中身が、衝動や外の事情に決められているかもしれないからです。 本教材の作例で考えてみましょう。夜、ある人がスマートフォンで動画を次々に選んで見続けます。どれを見るかは自分で決めています。けれども手を動かしているのは、眠いのにやめられない気持ちと、次を勧める画面の並びです。別の人は、仲間と決めた練習の時間を守るために画面を閉じます。外から見れば縛られているのは後の人ですが、その人は自分が大事にするものを自分で選び取っています。 ヘーゲルが探すのは、後の人の側の自由です。本当に自由な意志は、自分の外の何かでなく、自由そのものを中身として意志します。『法の哲学』は、この「自由な意志を意志する自由な意志」が、形と中身の両方でどう知られるかを調べる書です(§27) [1] 。その自由が、人と人との関係や制度として世界に現れたものが法なのです [1] 。 自由の実現は、三つの段を踏みます (図 1) 。所有・契約・刑罰を扱う抽象法、良心と責任を扱う道徳、その二つを社会の中でとらえ直す人倫です [1] 。前の段で生じた食い違いは後の段で解かれ、前の段は消えずに後の段の中で働き続けます [1] 。人倫の段は、この編のカントの道徳の課で見た自律を、社会の中へ連れ戻す試みとして読むことができます(本教材の読み方)。 抽象法 所有・契約・刑罰。人格としての自由 道徳 良心と責任。内面の自由 人倫:家族 愛による一体 人倫:市民社会 欲求の体系と分業(§182) 人倫:国家 具体的自由の現実(§260) 世界史 国家どうしを裁く世界法廷(§340) 図 1 『法の哲学』の歩み(本教材の整理)。手前に何でも選べる恣意があり、前の段は消えずに後の段の中で働きます。並びは時間の順でなく概念の展開の順で、点線の世界史は、書の末尾から体系の次の部分へつながる段です。 ここで間違えやすい 自由を「何の決まりもないこと」「好きなものを選べること」とだけ取るのは誤解です。ヘーゲルにとって、それは自由の最初の段(恣意)にすぎません。自由は、法や制度の中で、自分が認める中身を持つときに具体的になります。逆に、これを「決まりに従えば自由」と取るのも行き過ぎです。ヘーゲルが言うのは、制度が理にかない、人がそれを自分のものとして知るときの自由です(本教材の読み方)。 人倫――家族・市民社会・国家の中で、自由は具体的になる 人倫( Sittlichkeit )は、習わし( Sitte )に根をもつ語です。ヘーゲルは人倫の部で、抽象法の契約・所有・刑罰と、道徳の良心とを、社会の中で具体的にとらえ直します [1] 。人倫は、家族・市民社会・国家の三つに分かれます [1] 。 家族は、一人ひとりが互いのために、一つのまとまりとしてある場です [1] 。家族を出ると、人は自分の欲求を満たすために働き、売り買いします。これが市民社会で、ヘーゲルは「欲求の体系」と呼びます(§182) [1] 。自分のために働くことが、分業を通して他の人の欲求も満たします(§189・§198) [1] 。同じ職の人々がつくる職業団体は、仲間を育て支える「第二の家族」になります(§252) [1] 。 ただしヘーゲルは、市民社会が一部の人の貧困を避けられないことを認めました。貧しさそのものではなく、豊かな者や社会や政府への内なる反抗の心が結びつくとき「賤民」が生まれる、と講義で語っています(§244 補遺) [1] 。ヘーゲルはこの問題に、経済の仕組みを変える以外の確かな答えを示していません [1] 。 家族の感情による愛と、市民社会の欲求の満足とは、国家で、共同体を支える市民どうしの愛国の心に変わります(§268) [1] 。国家は、私たちの「具体的自由」が実現する場です(§260) [1] [2] 。ここで初めて、一人の人が、家族の一員、市民社会の一部、国家の市民として、同時にとらえられます [1] (図 2) 。個人の自由が邪魔物になるのではありません。個人の自由は、法の中で互いに認められたとき、いちばん現実的になります [1] 。市民の暮らしが満たされず、国家がその手段だと思えないなら、国家そのものが危うくなる、ともヘーゲルは語りました(§265 補遺) [1] 。 自由は制度の中で具体的になる(人倫) 朝・家族 昼・市民社会 夕方・国家 家族の愛 仕事と分業 市民として 同じ一人が三つのつながりを生きる 並びは概念の展開の順で、時間の順ではない 図 2 人倫の三つの場を、一人の一日で描いた本教材の絵です。同じかばんを持つ同じ一人が、朝は家族の食卓で、昼は商店街の店先で、夕方は集会所で、違うつながりを生きています。場面は本教材の作例です。 三つの並びは、時間の順ではありません。人は家族に入った後で市民社会や国家に入るのではなく、並びは概念が展開する順、つまり弁証法の順です [1] 。家族が市民社会へ展開し、市民社会がより大きな現実性を得るのは国家においてだ、とヘーゲルは見ます(§256〜257) [1] 。 ここで間違えやすい ヘーゲルの「国家」を、政府や役所、あるいは当時のプロイセンそのものと取り、個人を国家に従わせる全体主義を説いた、と読むのは誤解です。ポパーはそう読みましたが、根拠にされた「国家は神の地上の歩み」は、ヘーゲル自身の本文ではありません。弟子の講義筆記を編んだ補遺(§258 補遺)にある言葉です [1] 。他方、ヘーゲルが世襲の立憲君主制と伝統的な家族を擁護したのも確かで、保守とも進歩とも片づけられません [1] 。 世界史と哲学――ミネルヴァの梟は、夕暮れに飛び立つ 国家は一つではありません。国家は、内の組織とともに、他の国家との関係の中でも自分を定めます(§259) [1] [2] 。国家どうしは、上に立つ裁き手のいない場で、個人どうしのように向き合い、争いが起こりえます(§336) [1] 。ヘーゲルは、戦争は終わるべきものだとも言いますが(§338)、カントの永遠平和の案は退けました [1] 。 国家どうしの正しさを最後に裁くのは、「世界法廷」としての世界史である、とヘーゲルは言います(§340) [1] 。『法の哲学』は、ここから書の末尾の世界史の論へ移り、さらに体系の次の部分である歴史の哲学へつながります [1] 。 ヘーゲルはベルリンで世界史の哲学を講義しました。その筆記をもとにした『歴史哲学講義』では、世界史は自由の意識が進んでいく歩みとして描かれます。誰が自由であると知られているかが、一人から若干の者へ、さらに人間としてのすべての者へ広がる、という筋です (表 1) 。歴史を動かすのは一人ひとりの情熱と利害ですが、理性はその情熱を働かせて、人々の目指していない結果を実現させる、という「理性の狡知」の考えも、この講義の序論で語られます。 この表で分かること: 講義の筋では、自由であると知られる者が、一人から若干の者へ、すべての者へと広がっていきます。ただし地域の並べ方は当時の知識に縛られ、今日では批判が多くあります。 世界(講義の区分) 自由と知られる者 読むときの注意 東洋の世界 一人 当時の乏しい知識による描き方 ギリシアとローマ 若干の者 市民の自由は奴隷制と並んでいた ゲルマンの世界 人間としてすべての者 西欧を頂点に置く見方だと批判される 表 1 『歴史哲学講義』の序論の筋(本教材の整理)。講義は筆記から編まれたもので、版によって言い方が違います。 『法の哲学』の序文には、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という二重の文があります [1] 。同じ序文の結びには、哲学は世界がどうあるべきかを教えるには、いつも遅れてくる、という言葉と、ミネルヴァの梟の比喩があります。ミネルヴァはローマの知恵の女神で、梟はその使いです。梟は、昼の営みが終わる夕暮れに、ようやく飛び立ちます (図 3) 。哲学も、一つの時代の生き方が成熟した後に、それを思想の中で振り返って捉える、というのです。 ミネルヴァの梟は、たそがれに飛び立つ 一番星 灰色に灰色を塗る 振り返って捉える 図 3 ミネルヴァの梟が、一日の営みの終わった町の上へ飛び立つ場面です。梟とたそがれ、右上の「灰色に灰色を塗る」は『法の哲学』の序文の比喩で、町の様子は本教材の描き方です。 哲学は明日の設計図を描くのでなく、出来上がった制度の中にすでに働く理性を見つけ出す、という控えめな役を負うのです(本教材の読み方)。 ここで間違えやすい 「理性的なものは現実的、現実的なものは理性的」を、「今あるものはすべて正しい」という現状の肯定と取るのは誤解です。生前からそう読まれましたが、『法の哲学』の本文は、当時の反動に抗った改革の目標を一貫して支持しています [1] 。また、世界史の段階を、決まった終わりへ必ず進むという予言や、戦争の賛美と取るのも行き過ぎです。ただし、東洋から西欧へ進むという描き方には、西欧を頂点に置く見方だという批判が多くあります。 資料の注意:本文・注解・補遺 『法の哲学』は、番号を振った節(§)の本文と、本文に添えたヘーゲル自身の注解、そして弟子の講義筆記を編んだ補遺から成ります [1] 。今の多くの版は補遺も載せていますが、補遺はヘーゲルが書いた文ではありません [1] 。この課で「補遺」と断った箇所は、講義の言葉として読んでください。原典を読むの §260 は、本文だけです。 原典を読む 第 1 章の二つ目の節で見た §260 を、本文で読みます。国家の部のうち国内の法を扱う所の最初の本文で、二つの文から成ります [2] 。訳は本教材によります。 ヘーゲル『法の哲