14.85 段落一つで七割 — ひとりで行くことの弁 — Epoché
この篇でできるようになること ★ 千語をこえる段落の切り方 が分かる。 ★ 一人称で押しきる随筆 の読み方が分かる。 ★ 引用を文の中に埋めこむ 書き方が読める。 ★ 自分の好みを、相手の欠点で言う やり方が見える。 前提 : 特別編に門はありません。第 5 期まで済んでいれば、どこからでも読めます(目安は 3.40 まで/4.60 まで)。 読む前に ★ 特別編はどの篇から読んでもかまいません 。★前の篇を読んでいなくても通じるように書いてあります。 ★ この篇を読む前に、覚悟が一つ要ります 。★ 途中に 1065 語・ 45 文の段落 があります ——★ 画面で見ると、切れ目がないまま延々と続きます 。★ この課では その切り方 を先に渡します 。 どちらのことか 確かめること ★ ことばのこと ★ 長い段落は 主語と動詞だけ追って 進みます ——長文の解剖( 3.34 型編 ) ★ 背景のこと ★ 十九世紀初めの英国の随筆 ——雑誌に載せる読み物が育った時代です( 12.11 知編 ) ★ 歩くことを書いた篇はもう一つあります ——★ 14.83 英語の名文 (ソローの「歩く」)。★ あちらは 語の由来 から入り、こちらは 好き嫌い から入ります 。★ 同じ主題でも入り口でこれだけ変わる 、という見比べができます。 原文 原文は別の文書にあります(作品ページの「原文」)。本文は 1515 語、段落は 9 つ、文は 60 本、一文の平均は 25.2 語です。 どの段落か 語数 何が入っているか ★ いちばん長い段落 ★ 1065 語 ★ この篇の 70.3 パーセント ★ 引用の詩の段落 ★ 12 語・ 23 語・ 142 語 ★ 三つとも他人の詩 ★ いちばん短い段落 ★ 8 語 ★ これも引用(一行だけ) 全訳 原文の全訳です。この課程のために、原文に沿って訳しました。番号は原文の段落の番号で、原文と行き来できます。 世の中でいちばん楽しいことの一つは、旅に出ることです。けれども私は一人で行くのが好きです。部屋の中でなら人と交わるのを楽しめます。しかし戸外では、自然だけで私には十分な連れなのです。そのとき私は、一人でいるときほど一人でないことはありません。 野は彼の書斎、自然は彼の書物であった。 歩くことと話すことを同時にする面白さが、私には分かりません。田舎にいるときは、田舎と同じように、植物のようにぼんやりと過ごしたいのです。生け垣や黒牛をあれこれ批評する気はありません。私が町を出るのは、町とそこにあるすべてを忘れるためです。この目的のために湯治場へ出かけて、大都会を一緒に持っていく人たちもいます。私は、もっとのびのびできる余地と、もっと少ない荷物が好きです。孤独が好きなのは、孤独に身をゆだねるとき、孤独そのもののためなのです。ですから、私は次のようなものも求めません。 隠れ家にあって一人の友を、/孤独は甘いと、ささやきかけてやれる友を。 旅の魂は自由、完全な自由です。思うままに考え、感じ、ふるまう自由です。私たちが旅に出るのは、主として、あらゆる妨げとあらゆる不便から自由になるためです。自分自身を後に残してくるため、ましてや他人を振り払うためです。私が、どうでもよいことに思いをめぐらせるための、ちょっとした息抜きの場を求めるのは、そこでなら「静観」が 羽をつくろい、翼を伸ばすことができるからです。/人の集まるところのさまざまな喧騒の中では、/その羽はあまりにも乱され、ときには損なわれていたのです。 だからこそ私は、しばらく町を離れ、一人きりになった途端に途方に暮れたりはしないのです。郵便馬車やティルベリーの中で、気の利いた言葉を交わし、同じ陳腐な話題をまた繰り返すための友を連れていく代わりに、今度ばかりは無作法なおしゃべりと休戦させてください。頭上には晴れた青空を、足もとには緑の芝を、目の前には曲がりくねった道を、そして夕食までの三時間の道のりを与えてください。そして、そのあとは考えることです! この人けのない荒れ野で獲物の一つも狩り出せないとしたら、それはつらいことです。私は笑い、走り、跳び、喜びのあまり歌います。あの流れゆく雲の先から、私は自分の過去の存在へと飛び込み、そこで心ゆくまで楽しみます。ちょうど日に焼けた先住民が、自分を故郷の岸へと運んでくれる波の中へ、真っ逆さまに飛び込むように。すると、長く忘れていた事柄が、「沈んだ難破船の残骸と、数え切れない宝の山」のように、待ちかねた私の目の前に突然現れ、私はふたたび感じ、考え、自分自身であり始めるのです。気の利いたことを言おうとする試みや退屈な決まり文句で破られる気まずい沈黙の代わりに、私のものとなるのは、心の、あの乱されない沈黙です。それだけが完全な雄弁なのです。しゃれや頭韻や対句や議論や分析を、私ほど好む者はいません。けれども、ときにはそれらなしでいたいのです。「ああ、私を休ませておいてくれ!」 私は今ちょうど別の仕事を抱えていて、それはあなたには取るに足りないことに見えるでしょうが、私にとっては「良心の本当の素材」なのです。この野ばらは、何の注釈もなくても美しいのではないでしょうか。エメラルドの上着にはめ込まれたこのヒナギクは、私の心に跳び込んでこないでしょうか。けれども、このヒナギクがなぜこれほど私にとっていとおしくなったのか、そのいきさつをあなたに説明しようとしても、あなたはただほほえむだけでしょう。それなら、それは自分の胸にしまっておき、ここからあの険しい岬まで、そこからさらに遥かな地平線まで、思いにふけるよすがにしたほうがよくはないでしょうか。その道のりのあいだ、私はひどくつまらない連れでしかないでしょう。だから一人でいるほうがよいのです。気がふさいできたときには、一人で歩くか馬を進めるかして、夢想にふければよい、という言い分を聞いたことがあります。しかし、それは礼儀にもとること、他人をないがしろにすることのように見えますし、そのあいだずっと、仲間のところへ戻らなければと考えていることになります。「そんな中途半端な交わりなど、まっぴらだ」と私は言います。私は、まったく自分一人でいるか、まったく他人の意のままになるか、どちらかがよいのです。話すか黙るか、歩くかじっと座るか、人と交わるか一人でいるか、どちらかです。私はコベット氏の意見が気に入りました。「食事と一緒にワインを飲むのはフランスの悪い習慣で、イングランドの人間は一度に一つのことだけをするべきだ」というのです。ですから私は、話しながら考えることも、物思いに沈む憂鬱な瞑想と生き生きした会話とを、気まぐれに代わる代わるすることもできません。「道連れを一人与えてくれ」とスターンは言います。「たとえ、日が傾くにつれて影がどう長くなるかを言い合うためだけであっても。」美しい言葉です。けれども私の考えでは、こうして絶えず感想を比べ合うことは、物事が心にひとりでに刻む印象の邪魔をし、感情を損なうのです。感じたことを一種の身ぶりだけでほのめかすのなら、味気ないものです。説明しなければならないのなら、楽しみを骨折り仕事に変えることになります。自然という書物を読むたびに、他人のためにそれを翻訳する手間を絶えずかけさせられていては、読むことなどできません。旅においては、私は分析的なやり方よりも、この総合的なやり方のほうを取ります。そのときは考えの蓄えを仕入れておくだけで満足し、それを調べ、解剖するのは後回しにします。私は、自分のぼんやりした考えが、そよ風の前のアザミの綿毛のように漂うのを見ていたいのです。論争のいばらやとげに絡め取られるのは御免です。今度ばかりは、何もかも自分の思いどおりにしたいのです。そしてそれは、一人でいるか、私が望みもしないような連れといるかでなければ、できないことです。ある論点について、測量済みの道を二十マイル行くあいだ誰かと議論するのに異存はありません。ただし、楽しみのためにではありません。道を横切ってくる豆畑の香りにあなたが気づいても、ひょっとすると道連れは鼻がきかないかもしれません。遠くの物を指さしても、ひょっとすると彼は近眼で、眼鏡を取り出して見なければならないかもしれません。空気の中にある気配、雲の色のある色合いが、あなたの心をとらえても、その効き目がどこから来るのか、あなたには説明できません。すると、そこには共感はなく、共感を求める落ち着かない渇きと、道中ずっとつきまとう不満があるばかりで、それがおそらく最後には不機嫌を生むのです。ところで私は、自分自身とは決して言い争いませんし、異論に対して弁護する必要が出てくるまでは、自分の結論をすべて当然のものと受け取ります。目の前に現れる物や事情について意見が合わないかもしれない、というだけではありません。それらは多くの事柄を思い出させ、あまりに繊細で洗練されていて他人にはとても伝えられないような連想へと導くかもしれないのです。けれども私はそうした連想を大事にするのが好きで、人混みから逃れてそうできるときには、今でもときどきそれを愛おしく握りしめるのです。人前で自分の感情に身をまかせるのは、度が過ぎているか、気取っているように見えます。かといって、何かあるたびに私たちの存在のこの神秘を解きほぐしてみせ、他人にもそれに同じだけの関心を持たせなければならない(そうでなければ目的は果たされない)というのは、それができる者のほとんどいない仕事です。私たちは「それに理解は与えても、舌は与えてはならない」のです。けれども、私の古い友人コールリッジは、その両方ができました。彼は夏の一日、丘を越え谷を越えて、このうえなく楽しい説き明かしの調子で話し続け、一つの風景を教訓詩やピンダロス風の頌歌に変えてしまうことができました。「彼は歌うよりもはるかに高く語った。」もし私が自分の考えを、あのように響きのよい、流れるような言葉で装うことができたなら、その高まってゆく主題を賞賛してくれる誰かに一緒にいてほしいと願うかもしれません。あるいは、オール・フォックスデンの森の中で、彼のこだまする声をまだ聞くことができるなら、もっと満足していられるかもしれません。彼らの中には「私たちの最初の詩人たちが持っていた、あの見事な狂気」がありました。そして、それが何か稀な楽器にとらえられていたなら、次のような調べを奏でたことでしょう。 ここには、どこにも劣らず緑の森があり、/空気もまた、なめらかなゼピュロスが/巻き波立つ流れの、すばやく過ぎる面に戯れるときのように、さわやかで甘い。/花も、若い春が与えるほどたくさん、どれにも劣らず選りすぐりのものがある。/ここには新しい喜びがすべてある。涼しい流れと泉、/スイカズラにおおわれた東屋、洞穴と谷。/好きなところを選ぶがよい。そのあいだ私はそばに座って歌い、/あるいはイグサを摘んで、たくさんの指輪を作ろう、/あなたの長い指のために。恋の物語を語ろう、/青白いポイベーが、木立で狩りをしていて、/初めて若者エンデュミオンを見たときのことを。その目から/彼女は、決して消えることのない永遠の火を受け取った。/彼女が、眠っている彼をそっと運び、/こめかみをケシで巻いて、古いラトモスの険しい/頂へと連れていったことを。そこで彼女は毎夜身をかがめ、/兄の光で山を金色に染めながら、/いとしい人に口づけするのだ。 もし私がこのような言葉と心像を意のままにできたなら、夕方の雲の金色の峰に眠っている思いを目覚めさせようと試みるでしょう。けれども自然を目にすると、私の想像力は、乏しいものではありますが、日没の花のようにうなだれて葉を閉じてしまうのです。その場では何もまとめられません。気持ちを落ち着けるための時間がなければならないのです。 語釈 帯の外の語は 132 語です。★ 二つの群に分かれます ——★ 一つは 野の景色の語 ( heaths ・ briars ・ dells ) 、★ もう一つは 議論の語 ( synthetical ・ antitheses ・ didactic ) 。★ この二つが混ざるのが、この篇の手ざわりです 。 語(品詞) 意味 注 Arbours en 名 木かげの東屋(複数) Garden arbours covered in climbing roses lined the estate's path. つる薔薇に覆われた木かげの東屋が、その屋敷の小道沿いに並んでいました。 Coleridge en 名 コールリッジ。詩人 Contemplation en 名 静かに思いをめぐらすこと She sat in quiet contemplation long after the guests had left. 客たちが去ったあとも、彼女は長い間静かに思いをめぐらしていました。 Endymion en 名 エンデュミオン。月の女神に愛された若者 Englishman en 名 イングランドの人 The old Englishman never once complained about the endless rain. そのイングランドの老人は、その果てしない雨について一度も文句を言いませんでした。 Foxden en 名 フォックスデン。 All-Foxden は土地の名 French en 形 フランスの Her grandmother was of French descent on her mother's side. 彼女の祖母は、母方でフランス系の血筋でした。 Gilding en 動 金色に染めながら Craftsmen spent weeks gilding the cathedral's enormous wooden doors. 職人たちは、その大聖堂の巨大な木の扉を金色に染めるのに何週間も費やしました。 Indian en 形 先住民の Old maps marked several Indian trails winding through the valley. 古い地図には、その谷を縫って続くいくつかの先住民の小道が記されていました。 Latmos en 名 ラトモス。ギリシアの山の名 Phoebe en 名 ポイベー。月の女神 Pindaric en 形 ピンダロス風の。格の高い頌歌の形 The young poet attempte