カント――理性は経験を超えると矛盾に陥る(物自体・アンチノミー) — Epoché
近代 カント 約 18 分 本文 約 7,400 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 欲求・衝突・解決の 3 つ 欲求 理性は、条件づけられたものの条件をさかのぼり、ほかに拠らない無条件のもの(条件の総体、または列の無条件の根拠)に行き着こうとする。この欲求は理性に生まれつきで、やめられない。だが理性は、無条件のものが「すでに与えられている」と思いこむ錯覚(超越論的仮象)にも陥る(A297/B354・A308/B366)。 衝突 世界の全体について考えると、「世界には時間の始まりと空間の限りがある」と「世界は時間でも空間でも無限だ」のように、正反対の主張が四組、どちらも相手の不可能を示す形で証明できてしまう。カントはこれを、理性が自分自身と争う「アンチノミー」と呼ぶ。 解決 争いは、両方の側が世界を物自体として与えられた全体だと思いこむことから生まれる。世界が現象にすぎないなら、初めの二組では両方とも偽、後の二組(自由と必然など)では両方とも真でありうる。だからアンチノミーは、超越論的観念論を裏から確かめる、とカントは言う。 はじめに この編の前の課で、カントは、私たちが知りうるのは感性と悟性の形を通して現れる「現象」だけで、物がそれ自体でどうあるか(物自体)は知りえない、と論じました。では、世界の始まりや魂や神のような、経験を超えた問いは、それで片づくのでしょうか。カントの答えは「いいえ」です。人の理性そのものが、私たちをそうした問いへ駆り立てるからです [1] 。 晩年の 1798 年 9 月 21 日、哲学者のガルヴェに宛てた手紙で、カントは、自分の出発点は神の存在や魂の不死の探究ではなく、純粋理性のアンチノミーだった、と書いています。「世界には始まりがある」「始まりはない」のような争いこそが、自分を独断のまどろみから目覚めさせ、理性の批判へ向かわせた、というのです [3] 。 アンチノミー( Antinomie )とは、同じ問いについて正反対の二つの主張が、どちらも筋の通った証明を持ってしまう事態です。どこかに見落としがあるのか、それとも問いの立て方そのものに無理があるのでしょうか。カントは後者だと考え、その無理の正体を、理性に生まれつきの錯覚に見ます [1] 。しかも争いは一組ではなく、世界の大きさ、物の分割、自由、必然的な存在という四つの問いで起きます。 この課の問い 知識が経験の届く範囲に限られるなら、なぜ人は、世界の始まりや果て、自由や神のような、経験を超えたことを問わずにいられないのでしょうか。そして、理性がそれに答えようとするとき、理性はどんな目に遭うのでしょうか。 この課のことば 無条件のもの({de:das Unbedingte}) 条件づけられたもの(ほかの何かに拠っているもの)の条件をさかのぼったときに求められる、ほかに拠らないもの。「最初の原因」のような列の初めの一項のことも、条件の列の全体を、たとえ無限でも出そろった一まとまりと見ることもあります。 超越論的仮象({de:transzendentaler Schein}) 考えをつなぐための主観の必要を、物そのものについての客観の必然と取り違える、理性に生まれつきの錯覚です(A297/B354)。誤りと分かっても、錯覚そのものは消えません。 理念({de:Idee}) 経験のどこにも対応する対象が与えられない、理性の考え。魂・世界・神の三つがあり、この課では「世界」(すべての現象の総和)を扱います。 アンチノミー({de:Antinomie}) 同じ問いについて、正反対の二つの主張がどちらも証明できてしまう事態。「二律背反」とも訳します。対になる主張を正命題( Thesis )・反命題( Antithesis )と呼びます。 純粋理性のアンチノミー――世界の全体を知ろうとすると、理性はなぜ自分と争うのか 前の課で見たとおり、カントは知識を経験の範囲に限りました。それでも理性は、その外へ出ようとします [1] 。この章では、①理性が無条件のものを求めること、②世界について正反対の主張が両方とも証明されること、③その争いを解く鍵、を順に読みます。 理性は無条件のものを求める――やめられない欲求と、消えない錯覚 カントの言う理性( Vernunft )は、まず推理の力です。知ったことを、より一般の原理の下にまとめ、知識を一つの体系へ「完成させる」はたらきをします [1] 。そのため理性は、条件づけられたもの、つまりほかの何かに拠っているものに出会うと、その条件を探します。カントはこの決まりを、「悟性が与える条件づけられた知識に対して、その統一を完成させる無条件のものを見つけよ」とまとめます(A307/B364) [1] 。 教材の作例で言えば、こうです。子どもが「なぜ雨が降るの」と聞き、「雲があるから」と答えると、「なぜ雲があるの」「なぜ海があるの」と問いは続きます (図 1) 。どこかで「それ以上の理由はない、初めからそうなのだ」と言いたくなります。この最後の答えを欲しがる心が、カントの言う、無条件のものを求める理性に近いものです。 条件づけられたもの 今日の雨。ほかの何かに拠って 起きている その条件 雨を降らせた雲。これにも条件がある 条件の条件 雲を生んだ海と日の熱。さかのぼりは 続く 無条件のもの 初めの一項か、列の全体。経験には 与えられない 図 1 理性が条件をさかのぼる流れです(本教材の作例)。「無条件のものを探しつづけよ」という指図は正しいのですが、点線の最後の段が「すでに与えられている」と思いこむと、超越論的仮象になります(A308/B366)。 ただし、無条件のものは「最初の一項」とは限りません。条件の列の全体を、たとえ無限でも、すでに出そろった一まとまりと考えることも、無条件のものを手にしたつもりになる一つの形です [1] 。 問題は、ここで理性が「探しつづけよ」という指図を、「ある」という主張にすり替えることです。カントは純粋理性の最上の原則を、「条件づけられたものが与えられているなら、絶対に無条件のものも与えられている」と書きます(A308/B366) [1] 。考えをつなぐための主観の必要を、物のあり方の必然と取り違えるこの傾きが、超越論的仮象です(A297/B354)。カントが弁証論を「仮象の論理」と呼ぶのはこのためです(A293/B350) [1] 。 この傾きから、三つの理念が生まれます。考える主体の側をさかのぼると「魂」、現象の列をさかのぼると「世界」、あらゆるものの条件をさかのぼると「神」です。旧来の形而上学は、それぞれを合理的心理学・合理的宇宙論・合理的神学で扱いました [1] 。この課が扱うのは「世界」です。 しかもこの錯覚は、不注意による推論の誤りではありません。理性の本性に根ざしていて、見抜いた後も「たえず私たちをあざけり苦しめる」とカントは言います(A339/B397) [1] 。だからカントは、理念を捨てよとは言いません。理念は、対象を知らせるもの(構成的)としてではなく、探究を進めよという指図(統制的)として使えば役に立つ、とします。ただ、それが単なる手引きなのか、知識に欠かせない前提なのかは、カント自身もはっきりしない、と SEP は指摘します [1] 。 ここで間違えやすい 二つの誤解に気をつけましょう。一つは、カントが形而上学の問いをくだらない迷いと見て、問うのをやめよと言った、と取ることです。カントは、無条件のものを求める欲求も、魂・自由・神への関心も、理性に生まれつきで避けられないとします [1] 。もう一つは、超越論的仮象を、注意すれば避けられる推論の誤りと取ることです。見抜いた後も、錯覚そのものは残ります。 四つのアンチノミー――正命題も反命題も、相手の不可能を示して勝ってしまう 理性が「世界」を考えるとき、事情はほかの二つの理念と違います。世界は、空間と時間の中のすべての現象の総和です。世界は感覚で出会う物の集まりのはずなのに、無条件の全体としてすでに与えられていると考えられてしまいます。ここから正反対の主張の組が生まれます [1] 。 カントはそうした組を四つ挙げます (表 1) 。世界の始まりと限り、物の分割、自由、必然的な存在をめぐる組です [1] 。 この表で分かること: 初めの二組(数学的)は世界の大きさと分割をめぐり、両方偽と解かれます。後の二組(力学的)は原因と存在をめぐり、両方真でありうると解かれます。 組 正命題 反命題 カントの解決 第一(数学的) 時間に始まり・空間に限り 時間でも空間でも無限 両方偽 第二(数学的) 単純な部分からなる どこまでも分けられる 両方偽 第三(力学的) 自由という原因もある すべて自然の法則による 両方真でありうる 第四(力学的) 必然的な存在がある 必然的な存在はない 両方真でありうる 表 1 四つのアンチノミーと、カントの解決の分け方。分け方は SEP の整理によります [1] 。 どの組でも、証明は間接の形を取り、相手の主張の不可能を示して自分の主張を立てます [1] 。第一の組でカント本人が示す筋はこうです。始まりがなければ、今日までに無限の時が過ぎ終わったことになりますが、無限の列はたどり終えられません。始まりがあれば、その前に世界のない空っぽの時があったことになりますが、空っぽの時には、ほかでもないその時に世界が生じる理由がありません。どちらの答えも、相手の側から崩されます。 正命題は、説明を終わらせる最初のものを置く、プラトン的な独断の側です。反命題は、自然そのものの手立てだけに頼る、エピクロス的な経験論の側です。前者は悟性には大きすぎ、後者は理性には小さすぎます(A471〜472/B499〜500) [1] 。ただし反命題も、空間と時間の中で成り立つことを物すべてに当てはまると見なす点で、正命題と同じく独断に陥っています [1] 。 カントはこの争いを、攻める役を得た側がいつも勝つ闘技場の試合にたとえたとされます (図 2) 。そこでカントは、どちらにも味方せず、争いの的そのものが錯覚ではないかを見届ける道を取ります [1] 。争いを放っておけば、理性はすべてを疑う絶望に落ちます。カントはこれを「純粋理性の安楽死」と呼びます(A407/B434) [1] 。 試合 1:始まりの側が攻める どちらも相手の不可能を示す ? 勝ち 始まりがある (攻める) 無限だ (守って倒れる) 攻めた方が勝ち、守った方が負ける 試合 2:無限の側が攻める 中央の箱:物自体としての世界 ? 勝ち 始まりがある (守って倒れる) 無限だ (攻める) 攻めた方が勝ち、守った方が負ける 審判は勝敗でなく、争いの的を見る 図 2 アンチノミーを闘技場の試合として描いたものです(本教材の絵)。一つ目では「始まりがある」の側が、二つ目では「無限だ」の側が攻め、どちらも攻めた方が勝ちます。二つ目の審判は勝ち負けでなく、中央の箱(物自体としての世界の全体)を見ています。 ここで間違えやすい アンチノミーを、どちらかの証明に見落としがあるだけの詭弁の遊び、と取らないようにしましょう。世界を物自体と見るかぎり、両側はそれぞれ相手をうまく論駁できてしまいます [1] 。また、カントが正命題か反命題のどちらかを支持した、と取るのも誤りです。カントの答えは、両側が共有する問いの前提そのものを問い直すことでした [1] 。 世界は物自体ではない――争いの前提を外すと、両方偽にも両方真にもなる 解決の手がかりとして、カントはアンチノミーの章の第 7 節で、誰にでも分かる例を出します。「どの物体も、良い匂いがするか、悪い匂いがするかだ」と言うと、「匂いがまったくない」という第三の場合が抜け落ち、二つとも偽になりえます (図 3) 。本当に矛盾するのは、「良い匂いがするか、良い匂いがしないか」のほうです。 匂いのない小石をめぐる言い争い 互いに相手の誤りを示す 良い匂いだ 悪い匂いだ 匂いがない(第三の場合) 二人とも疑わない前提:石は匂いを持つ 同じ形 世界は有限だ 世界は無限だ それ自体では有限でも無限でもない 隠れた前提:世界は丸ごと与えられている 匂いの例はカント本人の例です。 小石・地球・人物は本教材の描き方です。 図 3 匂いのない小石と、世界の大きさをめぐる二つの言い争いです(本教材の絵)。上の段では、石に匂いがないので二人とも誤っています。下の段も同じ形で、世界を丸ごと与えられた全体と見る前提を外せば、争いは消えます。 カントは、前者のように前提を共有したまま「矛盾に要る以上のこと」を言っている対立を弁証的な対立と呼び、本当の矛盾である分析的な対立と分けます。弁証的に対立する二つの判断は、どちらも偽でありうるのです [2] 。「世界は無限か有限か」も、世界が大きさの決まった全体として、それ自体で与えられている、という隠れた前提を共有しています。この前提を外すと何が起きるかは、原典を読むの章で読みます。 初めの二組(数学的アンチノミー)は、両方とも偽と解かれます。世界は、私たちが条件の列を経験の中でたどっていくかぎりでだけあり、その全体は決して与えられません。無条件のものは「与えられている」のではなく、探しつづけるべき課題として「課されている」のです(A498/B526〜A500/B528) [1] 。分割をめぐる第二の組も、同じ形で解かれます [1] 。 後の二組(力学的アンチノミー)では、解き方が変わります。正命題が、自由な原因や必然的な存在を、空間と時間の外、つまり現象の列の外に置くからです [1] 。ここで前の課の現象と物自体の区別が鍵になります。自然の中ではすべてが因果の法則に従い(反命題)、しかも現象の外に自由な原因がありうる(正命題)と考えることができます。両方とも真でありうるのです [1] 。ただし示されたのは、自由が矛盾なく「ありうる」ことまでで、自由が実際にあることの証明ではありません [1] 。 そのうえでカントは、この解決が自分の超越論的観念論を裏から確かめる、と主張します [1] 。世界がそれ自体で存在する全体なら、有限か無限かのどちらかのはずなのに、どちらでもありえないからです。この解決が本当にうまくいっているかは今も検討が続き、SEP はストローソン(196