6.30 魯迅『孔乙己』 — Epoché
この篇でできるようになること 書き手と語り手を分け、何が直接語られていないかを説明できます。 服装と店内の位置から、人物の立場を読めます。 可能補語や反復疑問を使い、本文の出来事を短く書けます。 前提 :6.29「李大釗『「今」』」。本文は別の読書ページで読みます。ここからは論説を離れ、小説の語り方を見ます。 語り手は誰か 『孔乙己』は魯迅の『吶喊』に収められた短篇です。本文の「私」は魯迅本人ではありません。十二歳から咸亨酒店で働く店員で、少年だったころの出来事を語っています。孔乙己の心の中を直接語る人でもありません。 在这些时候,我可以附和着笑,掌柜是决不责备的。 と、語り手は自分も笑いに合わせたことを述べます。店主も客も笑い、少年もその側にいます。孔乙己の言葉や顔つきは見えます。ただし、本人が内側でどう考えたかは、読者がそこから考えることになります。 第五段の経歴は「人が陰で話すのを聞いた」と始まります。語り手が直接見たことと、人から聞いたことを分けて読みましょう。後の足を折られた話も、まず客の話として届きます。 服装と店の作り 人物 服装 飲む場所・姿勢 働く人たち 短衣 カウンターの外で立って飲む。 余裕のある客 长衫 隣の部屋へ入り、料理を頼み、座って飲む。 孔乙己 长衫 長い上着を着ながら、立って飲む。 孔乙己是站着喝酒而穿长衫的唯一的人。 は、冒頭の店の説明を受けた文です。長い上着だけなら服の名前ですが、どこでどう飲むかと合わせると、身分を示す印になります。孔乙己は、長い上着の客と同じ場所には座れません。 第四段では銭を並べて出しますが、最後の来店では破れた衣袋から四文を手探りで出します。服装だけでなく、金の出し方、体の高さ、店の内外の位置にも注意します。そこがどう変わるかを見ると、人物の変化が見えます。 長い上着を着ているから裕福だ、と一語で決めないようにしましょう。孔乙己の上着は汚れて破れ、立って飲んでいます。服と場所の組み合わせが、どちらの側にも収まりきらない姿を示します。 笑いの反復と最後の一文 店内外充满了快活的空气。 は二度出てきます。第四段では、本を盗んだという非難に孔乙己が言い返した後です。第六段では、秀才にすらなれないと言われ、顔色が変わった後です。 同じ言葉でも、二度目には彼の暮らしや挫折を読んだ後です。そのため、その「愉快さ」が誰のものかを考えさせられます。最初から痛ましく感じる読者もいるでしょう。反復は、店の人々が変わらないことと、読者の受け止め方が変わることを並べて見せます。 最後の 大约孔乙己的确死了。 には、「おそらく」と「確かに」が並びます。語り手は死を見届けたとは言いません。それでも戻ってこないことから死を強く推し量る。不確かさと確信が一緒にあるところに、誰も確かめなかった距離が現れます。 文語と、できないことの形 之乎者也 は文語の助字を並べた言い方です。ここでは、古めかしい話しぶりを表します。 君子固穷 は、立派な人も困窮するが、その中で節を守るという言葉です。孔乙己は読書人としての言葉を使い、自分の立場を守ろうとします。 子どもに豆を分ける場面の 多乎哉?不多也。 は「多いだろうか、いや多くない」です。ふつうの話し言葉の後に、急に文語の調子が入ります。難しい文字を使うこと自体が、この人物の話し方を作っています。 本文の語句 読む手がかり 意味 怕侍候不了长衫主顾 可能補語 長い上着の客の給仕は務まらないだろうと、店主が少年を評価する。 你怎的连半个秀才也捞不到呢? 可能補語 客が孔乙己に、秀才すら得られないとからかう。 秋风是一天凉比一天 比較 日がたつにつれ秋風が冷たくなる。 伸开五指将碟子罩住 将 皿を動作の前に置き、手で覆うと述べる。 可能補語は 型編 19課 、比較は 型編 21課 、対象を先に出す形は 型編 24課 を手がかりにします。誰にできないと言っているかまで追いましょう。給仕できないと言われたのは少年で、秀才になれないと笑われるのは孔乙己です。 将碟子罩住 の 将 は「まもなく」ではありません。ここでは 把 と同じように対象を先に出します。「これから皿を覆う」と時の意味を足さず、皿を覆う動作として読みます。 語表 語 品詞 意味 日本語との差 例文 訳 长衫 名詞 長い上着 本文では身分の印 只有穿长衫的 長い上着を着た者だけが 短衣 名詞 短い上着 働く人の服装 外面的短衣主顾 外の短い上着の客 柜台 名詞 カウンター 店の区切り 我从此便整天的站在柜台里 それから私は一日中カウンターの内側に立った 伙计 名詞 店員 店の働き手 便在镇口的咸亨酒店里当伙计 町はずれの咸亨酒店で店員をする 掌柜 名詞 店主 店の主人 掌柜也不再问 店主もそれ以上聞かない 侍候 動詞 世話する・給仕する 客への応対 怕侍候不了长衫主顾 長い上着の客の給仕は務まらないだろう 羼水 動詞句 水を混ぜる 酒を薄める 羼水也很为难 水を混ぜることも難しい 荐头 名詞 口入れ人 奉公を仲介する人 幸亏荐头的情面大 幸い口入れ人の顔が利く 阔绰 形容詞 羽振りがよい 金銭に余裕がある 大抵没有这样阔绰 たいていそこまで羽振りはよくない 茴香豆 名詞 ういきょう豆 酒の肴になる豆 要一碟茴香豆 ういきょう豆を一皿頼む 之乎者也 成句 文語の助字 古風で難しい話し方 总是满口之乎者也 いつも文語の助字ばかり口にする 君子固穷 成句 君子は困窮の中でも節を守る 読書人の古典的な言葉 什么『君子固穷』 君子固窮だのという言葉 多乎哉 文語句 多いだろうか 反語的に尋ねる 多乎哉?不多也。 多いだろうか、いや多くない 进学 動詞 秀才の資格を得る 現代の学校への進学とは違う 但终于没有进学 結局秀才にはなれなかった 营生 動詞 暮らしを立てる 生計を営む 又不会营生 暮らしを立てることもできない 拖欠 動詞 支払いを滞らせる 借りを未払いにする 就是从不拖欠 一度も支払いを滞らせない 捞不到 動詞句 手に入れられない 可能の否定 连半个秀才也捞不到 秀才の半分すら得られない 颓唐 形容詞 しょげている 意気が落ちた様子 显出颓唐不安模样 しょげて落ち着かない様子を見せる 附和 動詞 調子を合わせる 周囲に同調する 我可以附和着笑 私は調子を合わせて笑える 不屑置辩 成句 言い返すにも値しない 相手にしない態度 显出不屑置辩的神气 言い返すにも値しないという顔をする 将 介詞 対象を先に示す ここでは把に当たる 将碟子罩住 皿を覆う 罩住 動詞句 覆う 覆って隠す 伸开五指将碟子罩住 五本の指を開いて皿を覆う 服辩 名詞 罪を認める書付 罪を認める文書 先写服辩 先に罪を認める書付を書く 门槛 名詞 敷居 戸口の下の部分 放在门槛上 敷居の上に置く 大约 副詞 おそらく ここでは推測 大约孔乙己的确死了。 おそらく孔乙己は確かに死んだのだろう 的确 副詞 確かに 強い確信 我才也觉得他的确长久没有来了 私もそこで彼が本当に長く来ていないと気づく 対訳 魯鎮の居酒屋の作りは、よその町とは違っている。どこも通りに面してL字形の大きなカウンターがあり、その内側には湯が用意してあって、いつでも酒を燗できるようになっている。働く人たちは、昼どきや夕方に仕事がひけると、たいてい四文の銅銭を出して酒を一杯買う——これは二十年あまり前のことで、今では一杯十文まで値上がりしている——カウンターの外に立って、熱いのを飲んで休む。もう一文多く出せば、塩ゆでのたけのこか、ういきょう豆を一皿買って、酒の肴にできる。十いくつ文まで出せば肉か魚の料理も買えるが、こういう客はたいてい短い上着の連中で、そんな羽振りのよい者はまずいない。長い上着を着た者だけが、店先の隣の部屋にゆっくり入っていき、酒と料理を頼んで、腰を下ろして飲む。 私は十二の年から、町のはずれの咸亨酒店で店員をしている。主人は、私の様子があまりに間が抜けていて、長い上着の客の給仕はつとまるまいと言い、外で少し仕事をしていろということになった。外にいる短い上着の客は、たしかに話しやすいが、くどくどと、話がからまってはっきりしない者も少なくない。彼らはよく、黄酒がかめからくみ出されるのを自分の目で見届け、酒を入れる器の底に水がないかどうかを確かめ、さらに自分でその器が湯につけられるのを見てから、やっと安心する。こんなきびしい見張りのもとでは、酒に水をまぜるのも難しい。だから何日かたつと、主人はまた、私にはこの仕事はつとまらないと言った。幸い、奉公の口ききをしてくれた人の顔が利いたので、やめさせるわけにもいかず、もっぱら酒を燗するだけの、つまらない仕事に変えられた。 それから私は一日じゅうカウンターの内側に立って、自分の受け持ちだけをしていた。落ち度こそなかったが、どうも単調で、つまらない。主人はけわしい顔つきで、客も口ぶりがよくない。はつらつとできようがない。ただ孔乙己が店に来たときだけは、何度か笑うことができた。だから今でも覚えている。 孔乙己は、立って酒を飲みながら長い上着を着ている、ただ一人の人だった。背丈がとても高く、青白い顔色で、しわのあいだにはいつも傷あとがまじっていた。ぼうぼうに乱れた白まじりのひげを生やしている。着ているのは長い上着だが、きたなく破れていて、十年あまりつくろいもせず、洗いもしていないようだった。人と話すときはいつも口を開けば文語の助字ばかりで、聞くほうは半分しか分からない。姓が孔なので、人々は字の手本にある「上大人孔乙己」という、これまた半分しか分からない文句から、彼にあだ名をつけて、孔乙己と呼んだ。孔乙己が店に来ると、酒を飲んでいる者はみな彼を見て笑い、ある者はこう声をあげた。「孔乙己、顔にまた新しい傷が増えたな」。彼は答えず、カウンターに向かって言う。「酒を二杯燗して、ういきょう豆を一皿」。そして九文の銭を並べて出す。彼らはまたわざと大声で言う。「おまえ、また人の物を盗んだんだろう」。孔乙己は目を見開いて言う。「どうしてそんなふうに、根も葉もなく人の潔白を汚すのだ……」。「何が潔白だ。おとといこの目で、おまえが何家の本を盗んで、吊るされて打たれていたのを見たぞ」。孔乙己は顔を赤くし、額に青筋を一本一本浮き上がらせて言い張った。「書物をかすめとるのは盗みとは言えぬ……書物をかすめとるのだ。……読書人のすることだ、盗みと言えるか」。それに続くのは分かりにくい言葉で、「君子固より窮す」だの、「者乎」のたぐいだの。それでみんながどっと笑い出す。店の内も外も、愉快な空気でいっぱいになった。 人が陰で話すのを聞いたところでは、孔乙己はもともと書物を読んだ人だったが、とうとう科挙の初級にも受からず、暮らしを立てることもできなかった。それでますます貧しくなり、物ごいをする一歩手前まで来ていた。幸い字がうまいので、人のために書き写しをして、めしにありついていた。ただ困ったことに、もうひとつ悪い癖があった。酒好きのなまけ者なのだ。何日と座っていないうちに、人も書物も紙も筆も硯も、そろって行方が知れなくなる。それが何度か続いて、彼に書き写しを頼む人もいなくなった。孔乙己はしかたなく、ときどき盗みをはたらくようになった。しかし私たちの店では、身持ちはむしろ誰よりもよかった。一度もつけを払わずにおいたことがない。たまには手もとに現金がなく、しばらく白い板に書きつけておくこともあるが、ひと月とたたないうちにきっと払い清め、その板から孔乙己の名前が拭き消された。 孔乙己が酒を半分ほど飲むと、赤くなった顔色がだんだんもとに戻る。するとそばの人がまたたずねる。「孔乙己、おまえ本当に字が読めるのか」。孔乙己はたずねた相手を見て、言い返すにも値しないという顔つきをする。すると彼らは続けて言う。「じゃあどうして、秀才の半分すら手に入らないんだ」。孔乙己はたちまち、しょげて落ち着かない様子になり、顔に灰色の膜がかかって、口の中で何か言う。今度はすっかり文語の助字ばかりで、まるで分からない。このとき、みんながまたどっと笑い出す。店の内も外も、愉快な空気でいっぱいになった。 こういうとき、私は調子を合わせて笑うことができた。主人は決して咎めない。それどころか主人自身、孔乙己を見るとよくこう問いかけて、人の笑いを誘った。孔乙己は自分が彼らと世間話などできないと知っていて、しかたなく子どもに話しかける。あるとき私にこう言った。「おまえは書物を読んだことがあるか」。私は軽くうなずいた。彼は言った。「書物を読んだのか……ではひとつ試してやろう。ういきょう豆の茴という字は、どう書くのだ」。私は思った。物ごい同然の人間が、私を試す資格などあるものか。それで顔をそむけて、相手にしなかった。孔乙己は長いあいだ待ってから、たいそう熱心に言った。「書けないのだろう。……教えてやろう、覚えておきなさい。この字は覚えておくべきだ。将来、店の主人になったとき、帳簿をつけるのに要る」。私は心の中で、私と主人とでは身分の差がまだずいぶん遠いし、それにうちの主人はういきょう豆を帳簿につけたことなど一度もない、と思った。おかしくもあり、うんざりもして、なまけた調子で答えた。「誰があんたに教わるものか。草かんむりの下に、行き来の回の字じゃないか」。孔乙己はひどく嬉しそうな様子になり、二本の指の長いつめでカウンターをたたきながら、うなずいて言った。「そうだ、そうだ。……回の字には四通りの書き方があるのを、知っているか」。私はますますうんざりして、口をとがらせて離れていった。孔乙己はつめを酒にひたして、カウンターに字を書こうとしたが、私が少しも身を入れないのを見ると、またひとつためいきをついて、たいそう惜しそうな様子をした。 何度か、近所の子どもたちが笑い声を聞きつけて、面白がって集まり、孔乙己を取り囲んだ。すると彼は子どもたちにういきょう豆を食べさせた。一人に一粒ずつ。子どもたちは豆を食べ終わっても散らず、目はみな皿を見ている。孔乙己はあわてて、五本の指を広げて皿を覆い、腰をかがめて言った。「もう多くない、もう私には多くないのだ」。体を起こしてまた豆を見て、自分で首を振って言った。「多からず、多からず。多からんや、多からざるなり」。それでこの子どもたちは、笑い声の中を散っていった。 孔乙己はこんなふうに人を愉快にさせたが、彼がいなくても、みんなはやはりこうし