フッサール――事象そのものへ立ち返る(現象学的還元・志向性) — Epoché
現代 現象学と実存主義 約 26 分 本文 約 11,000 字 図 6・表 2 原典 2 節 この課の要点 志向性・エポケー・相関の 3 つ 志向性 知覚する・思い出す・判断するといった意識の働きは、何かについての意識である(痛みやめまいのように、何にも向かわない感覚もあるとフッサールは認める)。意識は心の中の像を眺めるのではなく、物そのものに向かう。同じ物でも、ただ思うときと見るときでは与えられ方が違い、見て確かめることが知の拠り所になる(『論理学研究』)。 エポケー 世界があることを否定も疑いもせず、その当たり前の効力だけを止めて括弧に入れる。失われるのは、意識の働きを見落とす素朴さだけで、世界は失われない(『イデーン I』、1931 年の講演)。 相関 括弧に入れた後、物は、意識にどう、何として現れるかという相関の中で調べられる。世界は意識に溶けこむのでも、意識から切り離されるのでもない。この立場は超越論的観念論と呼ばれ、その中身は解釈が分かれる。 はじめに エトムント・フッサールは、数学から哲学に転じた人です。最初の本『算術の哲学』(1891 年)は、数学の土台を心理学に求めようとして、フレーゲから心理学主義だと批判されました [1] 。その後フッサールは、論理の正しさを、考える人の心の働きに置き換えてはならない、と論じます。ピタゴラスの定理を私が考えても、あなたが考えても、同じ一つの定理を考えているはずだからです [1] 。 けれども、心の働きとは違う論理の正しさが、まさに心の働きの中で知られる、という謎が残ります [1] 。この課では、その謎に向かうフッサールの方法を二つの章で読みます。第 1 章は、1900〜1901 年の『論理学研究』の志向性、第 2 章は、1913 年の『イデーン I』で前に出たエポケーと還元です [1] 。 この課の問い 机の上のコップを見るとき、私たちはコップがそこに「ある」ことを少しも疑いません。では、そのコップは、どのようにして、何として私に現れているのでしょうか。物を説明する理論を組み立てる前に、物が経験の中にどう与えられているかを、ありのままに確かめることはできるでしょうか。 この課のことば 現象学 物が経験の中に現れるとおりに、その現れ方を記述する哲学の方法です。フッサールは、論理学と認識論の新しい土台をここに求めました。 志向性 意識が何かについての意識であり、何かに向かっているという性質です。見る・思い出す・恐れるなど、向かい方にはそれぞれ型があります。 充実と明証 ただ思っていただけのものが、見ることなどで、思われたとおりに与えられることが充実です。思われたものと与えられたものの重なりを、フッサールは明証と呼びます。 自然的態度 世界がそこにあることを当たり前として、その中の物を見たり調べたりする、ふだんの構えです。科学もこの構えの中で営まれます。 エポケー(判断停止) 「世界はある」という当たり前を、否定も疑いもせず、その効力を止めて括弧に入れることです。もとはギリシア語で「差し控え」を意味します。 超越論的還元 エポケーを入口にして、世界の物を、意識にどう与えられるかという相関の中で捉え直す分析です。「還元」はラテン語の「連れ戻す」から来ています。 志向性――意識は何かについての意識である この課程のデカルトの課では、疑いようのない「考える私」が出発点でした。フッサールも意識から始めますが、意識を、それだけで閉じた箱とは見ません。1900〜1901 年の『論理学研究』で、彼は意識が物に向かう仕組み、志向性を細かく分析しました [1] 。この章では、何かについての意識とはどういうことか、向かい方の型と中身、ただ思うことと見て確かめることの違い、を順に読みます。 何かについての意識――頭の中の小人が絵を見るのではない 『論理学研究』第 2 巻の序論で、フッサールは現象学の芯になる考えを述べます。ぼんやりした直観にしか支えられない「ただの言葉」で満足してはならず、「事象そのもの」に立ち返らなければならない、というのです(Hua 19/10) [1] [4] 。出来合いの理論で現象を先に縛らず、実際に与えられているものを注意深く見よ、という呼びかけです [1] 。 この姿勢が、志向性の分析に生きます。望む・疑う・悔やむ・恐れるといった体験は、どれも決まった型の体験で、それぞれの仕方で何かに向かっています [1] 。何かに向かうことは、外からの原因で後から付く性質ではなく、体験そのものに備わる在り方です [1] 。フッサールは後年の文章で、この家の経験は、その本質からして「この家の」経験だ、と書きます。錯覚や誤った判断であっても、その対象をそれとして記述しなければ、体験を記述できないのです(Hua 9/282) [1] 。ただし、痛みやめまいのように、何にも向かわない感覚があることもフッサールは認めています(Hua 3/192) [1] 。 では、外の物を見るとはどういうことでしょうか。いちばん自然に思えるのは、物は意識の外にあり、意識の中にはその物に似た像がある、という考えです。フッサールはこれを退けます (図 1) 。 退けられる考え:箱の中の小人 ? 心の中の絵 小人 本物の木 絵を見る小人にも、また絵と小人が要る ……きりがない 物そのものに向かう意識 この木についての意識 裏の面は今は見えない 頭の中に絵も小人もいない 図 1 知覚を、心の中の像を眺めることと考える説と、フッサールの考えを並べた絵です(本教材の絵)。一つ目は退けられる考えで、頭の中の小人が木の絵を眺めますが、その小人が絵を見るにはまた小人が要り、きりがありません。二つ目では、意識は絵を仲立ちにせず、庭の木そのものに向かいます。箱の中の小人のたとえは本人の言葉です(Hua 36/106) [1] 。 この考えは、意識を、外の物に似た像の入った箱と見ます。しかし、その像が外の物の像だと、どうして分かるのでしょうか。フッサールは、自我は箱の中の小人ではない、と書きます。小人が像を眺め、ときどき箱を出て外の物と見比べる、と考えてみます。すると、像を眺める小人にとっては像もまた外の物になり、それを映す内の像がまた要って、きりがありません(Hua 36/106) [1] 。 もちろん、写真や肖像画を見るときには、私たちは一枚の紙を通して、写っている建物や人に向かいます。これは込み入った特別な志向です。しかも、像が像として働くには、まずそれを像として見て取らなければなりません [1] 。だから、ふつうの知覚を像の働きで説明すると、説明したいものを先に前提にしてしまいます。ふつうの知覚で見えているのは、何かの絵や記号ではなく、物そのものです [1] 。 ここで間違えやすい 志向性を、日常の「意図」、つまりわざと何かを狙うことと取らないようにしましょう。見る・思い出す・恐れるなど、何かに向かっている意識の在り方の全体を指します。また、「何かについての意識」を、心の中の像についての意識と取るのも誤りです。フッサールは、知覚が像を仲立ちにするという考えそのものを退けています [1] 。 何を、どう向かうか――質料と質 同じ一つの志向の体験にも、区別できる面があります。一つは、体験が何に向かい、それを何として思うかを決める面で、フッサールはこれを作用の「質料」と呼びます [1] 。SEP の挙げる例では、スペインの町ビルバオを「バスク地方の事実上の中心の町」として思うことと、「ゲーリー設計のグッゲンハイム美術館のある町」として思うことは、同じ町に向かいながら、質料の違う体験です [1] 。 フッサールは質料を作用の意味とも呼び、対象への向かいは意味によって確保される、と言います。意味の中で、対象への関係が成り立つのです(Hua 19/59) [1] [4] 。ここでの意味は、言葉の意味に限りません。言葉にする前の、知覚の意味も含みます(Hua 3/285) [1] 。 身近な作例で言い直してみます。朝、駅で見かけた人を「隣の家の人」として思うことと、「町の図書館の司書」として思うことは、たとえ同じ一人の人に向かっていても、違う体験です。前者なら挨拶の言葉が浮かび、後者なら借りたままの本が気になります。何に向かうかだけでなく、それを何として思うかまでが、質料に含まれるのです。これは本教材の作例です。 もう一つは、向かい方の性格を決める面で、作用の「質」と呼ばれます(Hua 19/425〜426) [1] [4] 。同じ「雨が降る」を、疑うことも、望むことも、打ち消すこともできます。逆に、同じ疑いを、雨にも、選挙の公正にも向けられます(Hua 19/381) [1] (表 1) 。 この表で分かること: 向かい方(質)と中身(質料)は、それぞれ入れ替えられます。けれども、どの行にも必ず両方がそろっています。 体験 質(どう向かうか) 質料(何を何として) 明日は雨が降るかと疑う 疑う 明日は雨が降る 明日は雨が降ってほしいと望む 望む 明日は雨が降る 明日は雨が降らないと打ち消す 打ち消す 明日は雨が降る 選挙が公正だったかと疑う 疑う 選挙が公正だった 表 1 質と質料の組み合わせです(本教材の作例)。疑う・望む・打ち消すの例は、SEP の挙げる例に倣いました [1] 。 表の行は、SEP の挙げる例に倣った本教材の作例です。大事なのは、質と質料はそれぞれ入れ替えられるのに、片方だけで現れることはない、という点です。ただ判断する、ただ恐れる、ということはできません。何かを、何らかの仕方で、が必ずそろいます [1] 。この質と質料の組を、フッサールは志向的本質と呼びます(Hua 19/431) [1] 。 これで、意識が何に、どう向かうかが言えるようになりました。ところが、同じ志向的本質をもつ二つの体験が、なお違うことがあります。対象がどう与えられているか、という違いです [1] 。次の節は、そこを見ます。 ここで間違えやすい 「質料」を、物の材料や物質のことと取らないようにしましょう。ここでの質料は、意識が何を何として思うかという中身の面です。また、質と質料を、取り外しのきく二つの部品と見るのも誤りです。互いに独立に変えられますが、どちらか一方だけの体験はありません [1] 。 思うことと見ること――空虚な志向と充実 引き出しにパスポートがあると思うことと、引き出しを開けてそれを見ることを比べましょう。SEP の解説の例です [1] 。思っているだけのとき、パスポートは意識の向かう相手ですが、目の前には与えられていません。見るとき、パスポートは生身のありさまで、じかに与えられます(Hua 19/365) [1] [4] 。 二つの作用は、質も質料も同じで、同じ一つのパスポートに向かっています。違うのは与えられ方だけです [1] 。ただ思っているだけの状態は「空虚」、見ることで満たされた状態は「充実」と呼ばれます [1] 。この満たす中身(直観の内容)は、質と質料に並ぶ志向の三つ目の面で、知にとって特に大事です [1] (図 2) 。 空虚な志向 引き出しにパスポートがあると思う (まだ見ていない) 見て確かめる 引き出しを開け、パスポートを目にする 充実=明証 思われたものと見えるものが重なる 十全な明証 すべての面が残りなく与えられる (ふつうの知覚では届かない) 図 2 ただ思うことが、見ることで満たされるまでの流れです(本教材の整理)。向かうパスポートは初めから終わりまで同じで、違うのは与えられ方です。引き出しが空なら、思っていたことは見ることで打ち消されます。点線の段は、ふつうの知覚では届かない理想です。パスポートの例は SEP の解説の例です [1] 。 思っていることが正しいかを知りたければ、見ればよいのです。見ることは、推論によらない、じかの裏づけを与えます [1] 。フッサールはここで明証という語を使いますが、それは言いようのない確信の感じではありません(Hua 24/156) [1] 。思われたものと与えられたものとの重なりの名です [1] 。物が思われたとおりに直観で与えられるとき、その対象の側にあるのが、真理としての存在です(Hua 19/651) [1] [4] 。 フッサールはのちに『イデーン I』で、これを「すべての原理の原理」と呼ぶ考えにまとめます。物をじかに与える直観は、どれも認識の正当な源です。直観に与えられるものは、与えられるとおりに、ただし与えられる範囲の中でだけ受け取るべきだ、というのです(Hua 3/51) [1] [2] 。 ただし、知覚はいつも不完全です。机を見ても、机のすべての面を一度に見ることはありません。見えている面の向こうに、まだ見えない面がいつもあります(Hua 11/3) [1] 。すべてが残りなく与えられる十全な明証は、ふつうの知覚では満たされず、知覚の明証は、増えたり減ったりする不十全な明証です(Hua 3/319・321) [1] 。だから、見て確かめたことも、後で覆ることがあります。けれども、覆すのもまた別の明証です(Hua 17/164) [1] 。 ここで間違えやすい 明証を、自分が強く確かだと感じること、と取らないようにしましょう。明証は感じではなく、思われたとおりに物が与えられていることです。また、明証があれば決して誤らない、と取るのも誤りです。フッサール自身、経験の明証には欺かれる可能性が含まれる、と書いています(Hua 17/164) [1] 。 現象学的還元――世界があるという当たり前を括弧に入れる 志向性の分析は、物がどう与えられるかを問いました。けれどもフッサールは、ふだんの構えのままでは、この問いを最後まで問えないと考えるようになります。『論理学研究』に無かったエポケーと還元という方法が、1913 年の『イデーン I』で前に出ます [1] 。この章では、自然的態度、エポケー、還元と相関、を順に読みます。 自然的態度――世界はいつもそこにある 朝の通学路で、私たちは、道があるか、角のパン屋が本当にあるかを確かめたりしません。信号を見て渡り、パンの匂いに気づき、友だちに手を振ります。これは本教材の作例ですが、そこには、道も店も友だちも「ある」という受け取りが、気づかれないまま働いています。