8.158 功利主義 二 — 「できない」と「選ばない」を分ける — Epoché
この篇でできるようになること ★ 反論を自分で出して答える 連続の形が読める。 ★ 「できない」と「選ばない」を分ける 考え方が分かる。 ★ 裁き手を決める という手が読める。 ★ 弱いところを強さに変える 返し方が分かる。 前提 : 8.157 まで。型は 3.48 まで。 読む前に ★ この篇は、 反論の見本市 です。 ★ It may be objected のような言い回しが 3 回 出ます。 どの反論か 中身 一 ★ 高い快を味わえる人も、誘惑に負けて低いほうを取ることがある 二 ★ 若いころ高い志を持っていた人も、年とともに怠けと自分本位に沈む 三 ★ そもそも、両方に等しく開かれた人などいるのか ★ 三つとも、 ミルが自分で出して います。 ★ 相手が言ったのではありません。 ★ 10.15 作編 で「反論はいちばん強い形で立てる」と置きました。 ★ この篇は、 それを三つ続けてやった手本 です。 原文 原文は別の文書にあります(作品ページの「原文」)。本文は 1366 語、文は 36 本、一文の平均は 37.9 語、いちばん長い一文は 107 語です。問いは 4 個あります。 全訳 原文の全訳です。この課程のために、原文に沿って訳しました。番号は原文の段落の番号で、原文と行き来できます。 こう反論されるかもしれません。高い快を味わえる人の多くも、ときに誘惑に負けて、高い快を低い快の後回しにする、と。しかしこれは、高いものがそれ自体で勝っていることを十分に認めることと、まったく両立します。人はしばしば、性格の弱さから、値打ちが低いと知りながら、近いほうの善を選びます。そしてこれは、体の快と心の快のあいだで選ぶときに劣らず、二つの体の快のあいだで選ぶときにも起こります。人は、健康のほうが大きな善だと十分に承知していながら、健康を損なってまで官能の楽しみを追います。さらにこう反論されるかもしれません。若いころには気高いものすべてに熱を上げていた人の多くが、年を重ねるにつれて怠けと自分本位に沈んでいく、と。しかし私は、このごくありふれた変わり方をする人たちが、高い種類の快よりも低い種類の快を、自分から進んで選ぶのだとは信じません。私の考えでは、片方にすっかり身をゆだねる前に、その人たちはすでにもう片方を味わえなくなっているのです。気高い感じを持つ力は、たいていの人の性質において、とても弱い草のようなもので、たやすく枯れてしまいます。敵意のある力によってだけでなく、ただ養いが無いだけでも枯れるのです。そして若い人の大半では、その人の境遇が向かわせた仕事や、境遇が投げ込んだ交わりが、その高い力をはたらかせ続けるのに向いていなければ、その力はたちまち消えてしまいます。人は、知的な好みを失うのと同じように、高い志を失います。それにひたる時間も機会も無いからです。そして人が低い快に身をゆだねるのは、よく考えたうえでそちらを好むからではなく、それが手の届く唯一の快であるか、もはや味わうことのできる唯一の快であるかのどちらかだからです。両方の種類の快に等しく感じやすいままでいた人で、知りながら落ち着いて低いほうを選んだ人が一人でもいたかどうかは、疑ってよいでしょう。もっとも、いつの時代にも多くの人が、両方を兼ねようとして果たせず、くじけてきたのではありますが。 ただ一つ資格のある裁き手たちのこの評決に対しては、上訴の余地は無いと私は考えます。二つの快のうちどちらがより手に入れる値打ちがあるか、あるいは二つの生き方のうちどちらが、道徳上の性質や結果を別にして、感情にとってより快いか、という問いについては、両方を知ることで資格を得た人びとの判断、もしその人びとの意見が分かれるならその多数の判断を、最終のものとして認めなければなりません。そして、快の質についてこの判断を受け入れることには、なおさらためらう必要がありません。量の問いについてさえ、ほかに頼れる裁きの場は無いからです。二つの痛みのどちらがより鋭いか、二つの快い感覚のどちらがより強いかを決める手立てとして、両方をよく知る人びとの全体の票のほかに、何があるでしょうか。痛みも快もそれぞれ一様ではなく、痛みはつねに快と異質です。ある快が、ある痛みを代価として払ってまで手に入れる値打ちがあるかどうかを決めるものとして、経験を積んだ人びとの感じと判断のほかに、何があるでしょうか。それゆえ、その感じと判断が、強さの問いを別にして、高い能力から生まれる快のほうが、高い能力から切り離された動物の性質が感じ取れる快よりも、種類において望ましいと言い切るとき、この問題についてもそれは同じ重みで扱われてしかるべきなのです。 私がこの点に長くとどまったのは、人の行いを導く規則と見なされる「有用性」すなわち「幸福」について、まったく正しい考えを持つためには、これが欠かせない一部だからです。しかしこれは、功利主義の基準を受け入れるための欠かせない条件では決してありません。その基準とは、行う人自身の最大の幸福ではなく、全体としての幸福の最大量だからです。気高い性格が、その気高さのゆえにいつもより幸福であるかどうかは、疑わしいと言えるかもしれません。しかし、気高い性格がほかの人びとをより幸福にすること、そして世の中全体がそれによって計り知れないほど得をすることは、疑いようがありません。ですから功利主義は、たとえ一人ひとりが他人の気高さから益を受けるだけで、自分自身の気高さは、幸福に関するかぎり、その益からのまったくの差し引きにすぎないとしても、性格の気高さを広く育てることによってのみ、その目的を果たせるのです。しかし、いま述べたようなばかげたことは、口に出しただけで、反駁するまでもなくなります。 上に説明した最大幸福の原理によれば、究極の目的、つまりほかのすべてのものがそれに関わって、またそのために望ましいとされるもの(自分の善を考えているときも、他人の善を考えているときも)は、できるかぎり痛みから免れ、量と質の両方の点でできるかぎり楽しみに富んだ生き方です。そして質を測る試金石と、質を量と比べて量る規則とは、経験の機会に恵まれ、それに加えて自分を意識し自分を観察する習慣を持ち、そのために比べる手立てを最もよく備えた人びとが感じる好みです。功利主義の考えによれば、これが人の行いの目的なのですから、これは必然的に道徳の基準でもあります。したがって道徳は、人の行いのための規則と教えであって、それを守ることによって、いま述べたような生き方が、できるかぎりの範囲で人類すべてに確保されるようなもの、と定義できます。しかも人類に対してだけでなく、物事の性質が許すかぎり、感覚を持つ被造物すべてに対してです。 しかしこの教えに対しては、別の種類の反論をする人びとが現れます。その人たちは言います。幸福は、どんな形のものであれ、人の生と行いの理にかなった目的にはなりえない。なぜなら第一に、幸福は手に入らないものだからだ、と。そしてさげすむように問います。「汝に幸福である何の権利があるのか」。この問いを、カーライル氏は次の言葉を付け加えてとどめを刺します。「少し前まで、汝に存在する権利さえ何があったのか」。次にその人たちは言います。人は幸福なしでもやっていける。気高い人間はみなこのことを感じてきたし、 Entsagen 、すなわち断念という教えを学ぶことによってしか気高くなれなかったはずだ、と。そしてこの教えは、徹底して学ばれ、受け入れられたときには、あらゆる徳の始まりであり、欠かせない条件である、とその人たちは言い切ります。 これらの反論のうち一つめは、もしそれに十分な根拠があるなら、事の根もとに届くでしょう。人間がまったく幸福を得られないのなら、幸福を手に入れることは、道徳の目的にも、理にかなったどんな行いの目的にもなりえないからです。もっとも、その場合でも、功利主義の理論のために言えることはまだあるかもしれません。有用性には幸福の追求だけでなく、不幸を防いだり和らげたりすることも含まれるからです。そして前者の目的が夢物語であるなら、後者にはそれだけ大きな余地と、いっそう差し迫った必要が生まれるでしょう。少なくとも、人類が生きることをよしとし、ある条件のもとでノヴァーリスが勧めた、皆がいっせいに自ら命を絶つという手に逃げ込まないかぎりは。しかし、人の生が幸福でありうることはありえない、とこのようにきっぱり言い切られるとき、その言い切りは、言葉の上のへりくつのようなものでないとしても、少なくとも誇張です。もし幸福ということで、とても快い高ぶりが途切れずに続くことが意味されているのなら、それがありえないことは十分に明らかです。高揚した快の状態は、ほんの束の間しか続きません。場合によっては、途切れ途切れに何時間か何日か続くこともありますが、それは楽しみがときおり放つまばゆい閃きであって、楽しみの、絶えず落ち着いて燃える炎ではありません。このことは、幸福こそが生の目的だと教えた哲学者たちも、その人たちをあざける人びとと同じくらいよく分かっていました。哲学者たちの言う幸福とは、恍惚の生ではなく、そうした恍惚のひとときが、少なくはかない痛みと、多くさまざまな快とからなる生き方の中にあることでした。そこでは受け身のものより能動的なものがはっきりと勝り、全体の土台として、生がもたらしうる以上のものを生に期待しない、という心がまえがあります。このように組み立てられた生は、それを手にするほど幸運だった人びとには、いつも幸福の名に値するものに見えてきました。そしてこのような生き方は、いまでも多くの人が、生涯のかなりの部分にわたって手にしているものです。ほとんどすべての人がそれを手にできるのを妨げている本当の障害は、いまのみじめな教育と、みじめな社会のしくみだけなのです。 語釈 帯の外の語は 105 語です。★ indolence (怠け)・ susceptible (感じ取れる)・ tribunal (裁きの場)が要 です。★ suffrage は、いまは「選挙権」の意味で使いますが、★ ここでは 「票を投じること」 の古い意味 です。 語(品詞) 意味 注 Entsagen en 名 断念・あきらめ。ドイツ語 Mr en 名 〜さん( Mister の略) Mr Johnson greeted every guest warmly as they arrived at the party. ジョンソンさんは、パーティーに着いた客全員を温かく迎えました。 Novalis en 名 ノヴァーリス。ドイツの詩人 absurdity en 名 ばかげていること Everyone laughed at the absurdity of trying to catch fish with bare hands. 素手で魚を捕まえようとすることのばかげていることに、皆が笑いました。 acceptance en 名 受け入れること Her quiet acceptance of the harsh news surprised everyone in the room. その厳しい知らせを彼女が静かに受け入れることに、部屋にいた皆が驚きました。 accordingly en 副 それに従って The weather turned cold, so the farmers dressed accordingly for the fields. 天気が寒くなったので、農民たちはそれに従って畑仕事の服を着ました。 addict en 動 身をゆだねる The young monk chose to addict himself entirely to a life of quiet study. その若い修道士は、静かな学問の生活に自分の身をゆだねることを選びました。 appreciation en 名 よさが分かること Years of training gave the young painter a deep appreciation for simple colors. 何年もの訓練が、その若い画家に素朴な色のよさが分かることをもたらしました。 apprehend en 動 思う・考える It took her a moment to apprehend the full meaning of his quiet warning. 彼の静かな警告の意味を十分にとらえるまで、彼女には少し時間がかかりました。 aspirations en 名 望み(複数) The young clerk's aspirations reached far beyond his small office by the harbor. その若い事務員の望みは、港のそばの小さな事務所をはるかに超えていました。 assertion en 名 言い切り The old sailor made a bold assertion that no one dared to question. その老いた船乗りは、誰も疑おうとしない大胆な言い切りをしました。 attain en 動 たどり着く It took the climbers three days to attain the summit of the mountain. 登山者たちがその山の頂上にたどり着くまでに、三日かかりました。 attainable en 形 届く見こみのある The teacher set a goal that felt both challenging and clearly attainable. 教師は、難しくもはっきりと届く見こみのある目標を設定しました。 attainment en 名 身につけること The attainment of fluent English took the student many years of patient practice. 流ちょうな英語を身につけることには、その学生の何年もの根気強い練習が必要でした。 bare en 形 むき出しの The children ran happily across the bare field after the harvest ended. 収穫が終わったあと、子どもたち