デモクリトス――あるのは原子と空虚だけである(原子論) — Epoché
古代 ソクラテス以前の哲学 約 19 分 本文 約 7,800 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 何があるか・どう変わるか・どう見えるかの 3 つ 何があるか 何があるか:あるのは原子と空虚の二つだけで、空虚という「ないもの」も「あるもの」に劣らずある、と原子論者は主張したと伝えられる。 どう変わるか どう変わるか:生じも滅びもしない原子が空虚の中で場所を変え、形・並び・向きの組み合わせが変わることで、物の違いと変化が生じるとされる。 どう見えるか どう見えるか:甘さ・苦さ・色は原子そのものには無く「取り決めによって」あるとデモクリトスは言う(DK 68B9)。何を「取り決め」の側に入れるかは解釈が分かれる。 はじめに デモクリトスは、古代ギリシアの北の町アブデラの人で、前 460 年ごろに生まれたと伝えられます。ミレトスの生まれとする報告もあります。古い伝記の報告では、アナクサゴラスより 40 歳若かったとされます(DK 68A1) [1] 。師とも仲間ともいわれるレウキッポスの説を受け継ぎ、それを大きな体系にまとめたとされています [1] 。 デモクリトスはたくさんの本を書いたと伝えられ、のちの伝記作家ディオゲネス・ラエルティオスが、その書名を数多く並べています [1] 。しかし、本そのものは一冊も残っていません。今読めるのは、アリストテレスたちが要約して伝えた報告と、ほかの著作家が引いた短い言葉だけです。この課で「〜とされる」「〜と伝えられる」という言い方が多いのは、そのためです。 この課では、原子論を三つの問いに分けて読みます。世界には何があるのか。それがどう変わるのか。そして、私たちにはどう見えるのか。手がかりは、これまでの課で読んだパルメニデスの挑戦です。「ないもの」からは何も生じないのなら、目の前の変化はどう説明できるのか。原子論は、この問いへの最も思い切った答えの一つでした。 この課の問い パルメニデスは、「ないもの」からは何も生じず、変化は見かけにすぎないと論じたとされます。それでも、目の前の世界は変わり続けています。何がどう動くから変化が起きると考えれば、この論に答えられるのでしょうか。 この課のことば 原子(アトモン) 「これ以上分けられないもの」という意味の語。目に見えないほど小さく、生まれも壊れもしない粒です。 空虚(ケノン) 何も詰まっていない場所。粒が動き回るためのすきまです。 取り決め(ノモス) 人の側の決まりごと。ここでは、物そのものではなく、私たちの受け取り方の側にあることを指します。 DK 番号 ディールスとクランツが編んだ断片集での番号。68 はデモクリトス、67 はレウキッポス。A はほかの人の報告(証言)、B は本人の言葉とされる断片です。 渦 粒が輪を描いて動く流れ。原子論では、渦の中で粒が集まって世界ができるとされます。 原子と空虚――変わらないものから、どうして変化が生まれるのか パルメニデスは、「ないもの」は考えることも語ることもできないと論じました。そこから、生まれることや変わることは見かけにすぎない、と受け取られました。エンペドクレスとアナクサゴラスは、変わらない元のものを複数置くことで、この論に答えました。 原子論は、その答えをいちばん思い切った形にします。「ないもの」である空虚まで、あると認めるのです。この章では、空虚、粒、そして見え方の順に、原子論の組み立てを見ていきます。 空虚もある――「ないもの」は「あるもの」に劣らずある レウキッポスとデモクリトスは、世界の元を二つに分けたと伝えられます。一つは中身の詰まったもの、つまり「あるもの」です。もう一つは空虚、つまり「ないもの」です。そして、「ないもの」は「あるもの」に 劣らずある と主張したとされます。この報告は、アリストテレスの『形而上学』に残っています(DK 67A6) [1] 。「劣らず」と訳した οὐ μᾶλλον は、「〜より多くはない」という言い方です。 なぜ、「ないもの」があるなどと言えるのでしょうか。本教材では、推論の向きに注目して整理します (図 1) 。まず、パルメニデスの後継者メリッソスの論です。空虚は「ないもの」だから存在しない。空虚がなければ、物が動いていく先がない。だから運動もない、と論じたとされます [1] 。 原子論者は、この推論を逆向きにたどったと伝えられます。運動は現にある。動く先がなければ、物は動けない。だから空虚はある、という筋道です(DK 67A7) [1] 。 二つの論は、「運動には空虚が要る」という前提を共有しています。違うのは、どちらの端を確かなものとして出発するかです。メリッソスは「ないものはない」を動かさず、運動のほうを捨てました。原子論者は目の前の運動を動かさず、「ないものはない」のほうを手放しました。 共通の前提 運動には、動く先としての空虚が 要る メリッソス 空虚は「ない もの」で無い→動く 先が無い→運動は 無い レウキッポスと デモクリトス 運動は現にある →動く先が要る →空虚はある 図 1 空虚と運動をめぐる二つの推論。どちらも「運動には空虚が要る」という前提を共有し、出発する端だけが逆です。 では、空虚とはどんなものでしょうか。原子どうしは、互いに押し返し合います。それに対して空虚の性質は、場所を譲ることだとされます [1] 。本教材の作例で考えてみます。満員の箱の中では、玉は一つも動けません。けれども一つ分のすきまがあれば、隣の玉がそこへ移り、空いた所へまた別の玉が移ります。 動きのあるところには、どこかにすきまがあるはずです。この意味で、空虚は「何もない」というより「ふさがっていない」という仕方で役割を持つ、と読むことができます(本教材の読み)。 ここで間違えやすい 空虚を、近代の物理学がいう、すべてを入れる大きな容れ物(絶対空間)と同じものと考えないようにしましょう。デモクリトスの空虚は、原子と原子のあいだの、そのときふさがっていない場所のことだとする読み方もあります(Sedley 1982) [1] 。 分けられない粒――原子は場所を変えるだけで、生まれも壊れもしない 次に、粒のほうを見ます。原子論者によれば、原子は数が限りなく多く、大きさも形もさまざまです [1] 。内部にすきまがなく、中身が詰まっています。原子は生じることも滅びることもなく、場所を変えるほかには何も変わらないとされます [1] 。 なぜ、そんな粒を考える必要があったのでしょうか。本教材では、理由を三段に整理します。第一に、変化を説明するには、変わらずに残るものと、変わるものの両方が要ります。第二に、原子論では、残るのは原子そのもので、変わるのは原子どうしの位置関係です。第三に、こう考えれば、何かが無から生じたり無へ消えたりすると言わずに、変化を語れます。パルメニデスの禁止に触れずに済むわけです。 原子は限りない空虚の中を動き、ぶつかって跳ね返ったり、表面の鉤(かぎ)で絡み合って塊になったりするとされます [1] 。私たちが見る物は、この塊です。色が変わる、育つといった変化も、塊をつくる原子の組み替えや追加として説明されます。塊は永遠ではなく、いつかはばらけます。世界そのものも同じです。原子が輪を描く渦の動きに巻き込まれて寄り集まり、その中で塊ができて、私たちの世界が生まれたとされます [1] 。 物の違いがどこから来るかについて、アリストテレスは文字のたとえで伝えています (図 2) 。A と N は 形 が違います。AN と NA は 並び が違います。N と、N を横に倒した Z は 向き が違います。原子も同じように、形・並び・向きの違いで、さまざまな物をつくるというのです(DK 67A6) [1] 。 文字のたとえ 少ない文字の組み合わせから、 さまざまな語ができる 形 A と N の違い。原子なら、丸い粒と 角ばった粒 並び AN と NA の違い。原子なら、二粒の 左右を入れ替える 向き N と Z の違い。原子なら、同じ粒を横に 倒す 図 2 物の違いを生む三つの違い。アリストテレスの文字のたとえと、それを原子に当てはめた本教材の作例です。大きさの違いはこのたとえでは省かれ、三つの名はアリストテレスの言い換えです。 デモクリトスは、似たものどうしが集まる様子を、ふるいの中で穀物が種類ごとに分かれることや、波打ち際で小石が形ごとにそろって並ぶことにたとえたと伝えられます(DK 68B164) [1] 。引き寄せる力や目的を持ち出さなくても、ぶつかり合いだけで秩序だった並びが生まれる。そう説明しようとした試みだと読まれています [1] 。 ここで間違えやすい 古代の原子を、陽子や電子でできた現代の原子と同じものと考えないようにしましょう。名前は受け継がれましたが、考えの筋道は別物です。また、近代の力学のような慣性の考え方を古代の原子論に読み込むことにも、注意が促されています(Balme 1941) [1] 。なお「形・並び・向き」はアリストテレスの言い換えで、デモクリトス自身の語はもっと動きを含む意味だったとする研究もあります(Mourelatos 2004) [1] 。 取り決めによって甘い――味や色は原子そのものには無い では、私たちに見える色や味は、どこにあるのでしょうか。デモクリトスは次のように述べています。「取り決めによって甘く、取り決めによって苦く、取り決めによって熱く、取り決めによって冷たく、取り決めによって色。だが真実には原子と空虚」(DK 68B9) [1] [2] 。 原子が持つのは、形と大きさ、それにおそらく重さだけです。甘さや色のように感覚される性質は、原子そのものにはないとされます [1] (表 1) 。 この表で分かること: 原子が持つのは形と大きさ(とおそらく重さ)だけで、味や色は取り決めの側に置かれます。目に見える塊がどちらに入るかは、報告の読み方で分かれます。 性質・もの 原子そのものにあるか 拠り所 解釈の分かれ目 形・大きさ ある アリストテレスほかの報告 重さも原子にあるかは報告が食い違う 甘い・苦い・色・熱い 無い(取り決め) DK 68B9 「取り決め」は勝手気ままの意味ではない 原子の組み合わせ(塊) 争いあり プルタルコスの報告 書き誤りとみる説ともとの語とみる説がある 表 1 原子にあるもの、取り決めによってあるもの。報告の内容は SEP の整理による [1] 。 なぜ、色や味を原子から取り除くのでしょうか。のちのエピクロス派の詩人ルクレティウスは、海を例に論じています。原子は変わらないので、もし海の原子が青いなら、海が白く泡立って見えることは説明できない、というのです(『事物の本性について』第 2 巻 774–775 行) [1] 。そこで、色や味の違いは、原子の形・並び・向きと、それが感覚器官に触れる仕方から生まれる、と説明されます。 見えるしくみについても、デモクリトスの考えが伝わっています。物の表面からは、薄い原子の膜(エイドーラ)が絶えずはがれて飛んでいます。それが空気を渡って目に届くと、物が見えます。遠くの物ほど、膜は途中で空気の粒と何度もぶつかり、ゆがみやすくなります [1] (図 3) 。つまり感覚は、物そのものに直接触れているわけではありません。ここから、感覚による知識はどこまで確かか、という問いが生まれます。 ① 物の表面 原子の塊。真実にあるのは原子と 空虚だけ ② 膜がはがれて飛ぶ 薄い原子の膜。遠いほど空気と ぶつかってゆがむ ③ 感覚器官に触れる 膜が目に、物の原子が舌に届き、 受け取る側の状態も加わる ④ 現れ 「甘い」「赤い」。取り決めによって ある 図 3 デモクリトスの知覚の説明。①〜③は原子どうしの出来事で「真実には原子と空虚」の層、④の現れだけが「取り決めによって」の層です。境目は③と④のあいだにあると本教材は整理します。 テオプラストスの報告には、病人に蜂蜜が苦く感じられる理由の説明があります [1] 。蜂蜜には、ふだんの甘さをつくる形の原子のほかに、別の形の原子も少し混じっています。病気で体の具合が変わると、その少ない原子のほうを受け取りやすくなる、というのです。物の側の原子と、受け取る側の状態。この二つが合わさって味が決まる、という説明です。 ここで間違えやすい 「取り決め」を、人が好き勝手に決めたものと読まないようにしましょう。同じ原子の並びは、決まって同じ色や味をもたらします。だから知覚は気まぐれではない、とする読み方があります(Furley 1993) [1] 。また、プルタルコスの報告には、原子の「組み合わせ」まで取り決めの側に入れる語があります。これが正しければ、目に見える塊そのものが「真実」から外れます。この語を「苦い」の書き誤りとみる説と、もとからの語とみる説があり、研究者の間で争われています [1] 。 資料の注意:デモクリトスの言葉はどう残ったか デモクリトスの著作は失われ、私たちが読めるのは、ほかの人の書物に残った報告と引用だけです。DK 番号の A は報告、B は本人の言葉とされる断片を指しますが、B も誰かが引いた形で伝わっています。引いた人には、それぞれの目的がありました。「取り決めによって」の一節を伝えた一人も、懐疑派のセクストス・エンペイリコスです。次の章では、その文脈ごと読みます。 原典を読む 第 1 章の三つ目の節で見た「取り決めによって」の一節を、それを伝えた書物の文脈ごと読みます。原文はギリシア語で、本教材が訳しました。 セクストス『学者たちへの論駁』第 7 巻 135–138 節 取り決めによって、真実には 伝えているのは、懐疑派の哲学者セクストス・エンペイリコスです。知識の確かさをめぐる先人の説を並べる中で、デモクリトスの言葉をいくつも引いています。ここではそのうち三か所を読みます(DK 68B9・B10・B11。三つ目はセクストスによる言い換えです)。途中は「……」で省きました。 写しの文字が崩れている所は範囲から外し、読み解きで断ります。 1 デモクリトスは、あるときは感覚に現れるものを退け、そのどれも真実に即しては現れず、ただ思いなしに即して現れるだけだと言う。あるものの中で真実なのは、原子と空虚があることだ、というのである。 2 彼は言う。取り