プロティノス――すべては一者から流れ出る(新プラトン主義・流出) — Epoché
古代 ヘレニズムとローマの哲学 約 18 分 本文 約 7,400 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 源・流出・帰還の 3 つ 源 一者はすべてであり、しかもどれでもない。すべての始まりだからこそ、それ自身は始まったもののどれでもない(V.2.1)。多くのものは、それより単純な一つのものの後に来るので、最初の原理はまったく分かれ目のない一でなければならない(SEP 6)。 流出 一者は何も求めず、何も持たず、何も欠けていないので、いわばあふれ出て、別のものを生む。生まれたものは一者の方へ振り向いて見つめ、知性になる。知性も同じようにして魂を生み、魂は動きながら感覚と植物の自然を生む。上の段は、生むあいだもとどまって減らない(V.2.1)。 帰還 下へ広がった私たちの魂も、上の段から切り離されてはいない(V.2.1)。聞きたい声を待つ人がほかの声から離れて耳を立てるように、感覚から内へ向き返れば、上からの響きを聞く用意ができる(V.1.12)。ポルピュリオスは、自分がいた間に師が 4 度、一者との合一に達したと伝える(『生涯』23)。 はじめに プロティノスは、3 世紀のローマで教えた、ギリシア語で書く哲学者です。エジプトの人と伝えられ、アレクサンドリアでアンモニオス・サッカスに 11 年学んだ後、244 年の終わりからローマで長年教えました。晩年は病が重くなってカンパニアへ退き、270 年に亡くなりました [1] [3] 。 論文は 50 歳ごろから書かれた教室の議論の覚え書きで、弟子のポルピュリオスが 54 篇を 9 篇ずつ 6 つの巻に組み、『エネアデス』(「九つ組」)と名づけました [1] 。本人はプラトンを正しく読み解く者のつもりでしたが、近代には「新プラトン主義」の祖と呼ばれます [1] 。 プロティノスは、プラトンのイデアの課で見た「目に見えない本当のもの」をさらに奥までたどり、そのいちばん奥に、すべてを生む一つの源を置きました。 この課の問い 前の課のセクストスは、答えを決められないときは判断を保留して調べ続け、そのとき心の静けさが付いてくると説きました。プロティノスは、目に見える世界のさらに奥に、すべてを生む一つの源があると説きます。多くのものは、どうして一つのものから生まれるのでしょうか。そして私たちは、その源にどう帰ればよいのでしょうか。 この課のことば 一者(ト・ヘン) すべての始まりにある、まったく分かれ目のない「一」です。プロティノスは「善」とも呼びます。あらゆるものの源ですが、それ自身はどのものでもありません。 知性(ヌース) 一者の次に生まれるものです。プラトンのイデアの全体を、一度にまるごと見て知っている働きで、考える者と考えられるものが一つになっています。 魂(プシューケー) 知性の次に生まれるものです。動き、時の中で順に考え、体や植物に命を与えて、目に見える世界を形づくります。 位格(ヒュポスタシス) 一者・知性・魂の三つの段のことです。日常の言葉では「実在の階」と言えます。下の段ほど多く分かれ、上の段に頼っています。 流出 上の段が満ちあふれて下の段を生む、という考えを指す呼び名です。時の中の出来事ではなく、上の段は減りません。 向き返り(エピストロフェー) 生まれたものが、自分の出てきた源の方へ振り向いて見つめることです。こうして知性は知性になります。人の魂が源へ帰る道も、この向き返りです。 一者と流出――多くのものはどうして一つの源から生まれるか この章では、一者とは何か、一者からどのように知性と魂があふれ出るか、私たちはどうやって源へ帰るのかを、順に見ます。『エネアデス』は教室の議論の覚え書きなので、言い直しや問い返しが多く、読みにくい所もあります [1] 。むずかしいときは、本人のたとえを手がかりにしましょう。 一者――すべてであり、何ものでもない プロティノスは、第 5 巻第 2 篇を「一者はすべてであり、しかもどれ一つでもない」という一文で始めます(V.2.1) [2] 。矛盾に聞こえますが、すぐに理由が添えられます。すべてのものの始まりは、すべてのものではなく、すべてのものがそれのものだからだ、というのです。 では、なぜ始まりは「一」でなければならないのでしょうか。プロティノスは、多くのものは、まとまって初めて「それ」でいられると考えます。軍隊も合唱団も家も、一つにまとまっていなければ、もうそれではありません(VI.9.1) [2] 。すると、まとまりを与える「一」の方が、まとまったものより先にあることになります。 ここから、イデアを見る「知性」も、最初の原理にはなれないことになります。知性には、見る側と見られる側の二つが、切り離せないまま分かれてあるからです [1] 。二つあるものは、もっと単純なものの後に来ます。だから最初の原理は、知性とそのイデアの全体さえ越えている、とプロティノスは言います(VI.9.6) [1] (図 1) 。 一者(善) 分かれ目のない一。生む あいだもとどまる 知性・在るもの 一者を振り向いて見る。イデアの全体を 一度に見る 魂 知性が注ぎ出した力。動き、順に考える 感覚・植物の自然 魂が動いて生む像。目に見える世界 図 1 一者から下へ、段が生まれる順です(V.2.1 による本教材の整理)。上の段は生むあいだもとどまって減らず、生まれた段は上を振り向いて見つめます。一者を除く下の段が上の段に頼る順序で、時の中の出来事の順ではありません。 一者には分かれ目が一つもないので、名前や性質は本当は当てはまりません。プロティノスは、在るものが在るために、一者それ自身は在るものではない、とまで言います(V.2.1) [2] 。一者は「善」とも呼ばれ、知性が生まれる最初の働きは「善から出る働き」と言われます(VI.7.21) [1] 。プラトンのイデアの課で見た、善は「あること」を位と力で超えている、という『国家』の言葉(509b)が、ここに響いていると読めます(本教材の読み方)。 教材の作例で考えてみましょう。2 も 3 も 100 も、1 がいくつ集まったかで決まります。どの数も 1 なしにはありえません。けれども 1 そのものは、2 でも 3 でも 100 でもありません。「すべての数は 1 のもの」であり、しかも「1 はどの数でもない」のです。一者は数の 1 よりずっと分かれ目のない「一」ですが、関係の形は似ています (表 1) 。 この表で分かること: 一者を除く下の段は、すぐ上の段に頼って生まれ、上を見て満たされ、次の段を生みます。一者だけはどこからも生まれません。言い換えは本教材によります。 段 何であるか どう生まれるか どう働くか 一者(善) 分かれ目のない一 生まれない・すべての源 あふれて知性を生む 知性 イデアの全体・在るもの 一者を振り向いて見る 全部を一度に見る 魂 命を与えるもの 知性が力を注ぎ出す 動き、順に考える 感覚・自然 目に見える世界の働き 魂が動いて像を生む 体と植物を育てる 表 1 三つの位格と、その下に生まれるもの(V.2.1 と SEP の解説による本教材の整理) [1] [2] 。 ここで間違えやすい 一者を、天のどこかに座っている大きな神のような「いちばん偉いもの」と思わないようにしましょう。一者は、ほかのものと並ぶ一つのものではなく、大きさも形も場所も持ちません。反対に、一者を「何もないこと」と取るのも誤りです。どれでもないのは欠けているからではなく、すべてを生む力に満ちているからです(V.2.1 の「満ちあふれ」)。 あふれ出る――一者から知性へ、知性から魂へ では、何も持たない一者から、どうして多くのものが出てくるのでしょうか。プロティノス自身がこの問いを立て、こう答えます。一者は完全で、何も求めず、何も持たず、何も必要としないので、いわばあふれ出て、その満ちあふれたものが別のものを作った、というのです(V.2.1) [2] 。欠けているから作るのではなく、満ちているから生むのです。 SEP は、この生まれ方をいくつかの段に分けて説明します [1] 。まず一者から、一者とは違う、というだけのものが出ます。それはまだ形も中身もないので、「形のない見ること」「限りのない命」と呼ばれ、源へ向かう「憧れ」だけを持っています(V.3.11) [1] 。 次に、出てきたものが源の方へ振り向いて立ち止まります。立ち止まることが「在るもの」を作り、源を見つめることが「知性」を作ります。二つは一度に起こるので、知性と在るものは同時に生まれます(V.2.1) [2] 。ただし知性は、一者を一つのままでは捉えきれません。そこで、見たものは互いにつながり合う多くのイデアに分かれます [1] 。この振り向きを、 向き返り ( ἐπεστράφη 「振り向いた」の名詞形)と呼びます。 同じ形がくり返されます。知性は一者に似たものとして、同じように多くの力を注ぎ出し、魂を生みます。魂は知性とちがってとどまらずに動き、自分の像として、感覚と、植物の中で育つ力である自然を生みます(V.2.1) [2] (図 2) 。下の段に行くほど、ものは多く分かれ、時と動きの中に入っていきます。 満ちあふれて、別のものを生んだ 一者 生むあいだも とどまる・減らない 知性 振り向いて 見つめる あふれ出て 下の段を生む 魂 感覚・植物の自然 「あふれる」は本人の語 噴水の形は本教材の作例 図 2 あふれ出る泉のたとえを絵にしたものです(本教材の絵)。一者は何も失わずにあふれ、その力が知性・魂・目に見える世界へと段々に広がります。下の段ほど水盤が大きく、水は分かれて揺れます。知性の水盤は湧き口を振り向いて見つめます。「あふれる」はプロティノスの語(V.2.1)で、噴水の形は本教材の作例です。 大切なのは、上の段が生むあいだも「とどまっている」ことです(V.2.1) [2] 。上の段は、何かを失って下の段を生むのではありません。プロティノスはほかの所で、太陽から光が広がっても太陽は減らない、というたとえも使います(V.1.6) [2] 。また、これは時の中の出来事でもありません。SEP は、これを時を越えた過程と呼びます [1] 。「生まれた」「振り向いた」と過去の話のように語るのは、時を越えたつながりを、言葉では順に語るしかないからです。 ここで間違えやすい 「流出」を、水が容器から流れ出て減っていくことや、一者が意志して世界を作ったことだと取らないようにしましょう。プロティノスでは、上の段はとどまったまま減らず、下の段は満ちあふれた力からおのずと生まれます。また、この課の題の「流出」は、この考えを説明するときによく使われる呼び名です。本人は「あふれる」「光を放つ」など、たとえを使い分けて語ります。 内へ向き返る――上からの声に耳を澄ます 下へ広がった魂は、上の段から切り離されてしまったのでしょうか。プロティノスはそうではないと言います。人の魂は植物の中にまで届きますが、魂の全部が植物の中にあるのではありません(V.2.1) [2] 。下へ広がっても、魂の根は知性につながっているのです。だから源への帰り道は、遠くへ行くことではなく、すでにある所に気づくことになります。 では、なぜ私たちはそれに気づかないのでしょうか。上のものは私たちの内にいつもありますが、気づくのは、それが伝わってきて、こちらがそれを捉えたときだけだ、とプロティノスは言います(V.1.12) [2] 。捉えたいなら、捉える力を内へ向けなければなりません。ここで本人のたとえが出てきます。聞きたい声を待っている人は、ほかの声から離れて耳を立て、その声が近づいて来るのを待ちます。同じように、感覚の聞こえはやむをえない分だけにして、魂の捉える力を澄ませ、上からの響きを聞く用意をしておけ、というのです(V.1.12) [2] (図 3) 。 聞きたい声を待つ人は、 ほかの声から離れて耳を立てる 上からの響き 内へ向き返る 呼び声 車の音 感覚の聞こえ 声を待つ人は本人のたとえ 広場の場面は本教材の作例 図 3 声を待つ人のたとえ(V.1.12)を、古代の広場の場面にした絵です(本教材の絵)。耳をふさがず、周りの人も追い払わずに、注意の向きを変えることで、上からの細い響きが聞こえるようになります。広場の場面は本教材の作例です。 本教材の読み方として言えば、これは下りの道を逆にたどることです。一者から知性、知性から魂へと出て行く道があったように、魂から知性へ、知性から一者へと向き返る道があります。前の節で見た、生まれたものが源を見つめて満たされる動きを、人の魂が自分で行うのです。 プロティノスは、書斎にこもる人ではありませんでした。ローマでは公開の講義を開き、決まった弟子たちと議論しました [1] 。ポルピュリオスは、師が孤児の後見や人々の相談を引き受けていたとも伝えます(『生涯』9) [3] 。そして、自分が師のそばにいた間に、師は 4 度、一者との合一に達したと書いています(『生涯』23) [3] 。師は体の中にいることを恥じているようだった、という書き出し(『生涯』1)も含めて、どれも弟子の伝えであり、本人の言葉とは分けて読みます。 ここで間違えやすい 「内へ向き返る」を、世の中を捨て、体を憎んで、ひとりで閉じこもることだと取らないようにしましょう。プロティノスは長年ローマで教え、弟子と議論を重ねました [1] 。また、目に見える世界を悪いものとして退ける人々(グノーシス派)を批判する論文も書いています(II.9) [2] 。感覚の聞こえを「やむをえない分だけ」にせよとは言いますが、なくせとは言っていません(V.1.12)。 原典を読む 第 1 節と第 2 節で見た一者と流出の要を、第 5 巻第 2 篇の冒頭の章で読みます。 プロティノス『エネアデス』V.2.1 一者はすべてであり、しかもどれ一つでもない ポルピュリオスの年代順の表では 11 番目の論文です [3] 。章の冒頭から、本教材がギリシア語から訳して読みます。 1 一者はすべてであり、しかもどれ一つでもありません。 2 すべてのものの始まりは、すべてのものではなく、すべてのものがそれのものだからです。 3 というのも、すべてのものは、いわばそこへ駆け上っている