オースティン――言葉を言うことは行為をすることである(言語行為論・遂行文) — Epoché
現代 分析哲学と言語哲学 約 17 分 本文 約 7,000 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 遂行・しくじり・三層の 3 つ 遂行 「この船を……と名づける」「時計を弟に遺す」と言うことは、名づけや遺贈を述べることではなく、それをすることである。こうした発言は真でも偽でもない。文の仕事を記述だけとみる思いこみを、オースティンは「記述の誤謬」と呼んだ(第 I 講)。 しくじり 遂行文は真偽ではなく、うまくいくかどうかで測られる。手続き・人と場面・やり方に不備があれば行為は成り立たず(不発)、心や後の振る舞いが伴わなければ、行為は成り立つがうつろになる(濫用)。意味の通じる発言でも、行為はしくじりうる(第 II 講)。 三層 やがてオースティンは、述べることも行為の一つだと見て、遂行文と事実確認文の区別を、発言を見る三つの層(発語・発語内・発語媒介)の区別へ組みかえた(第 VIII 講)。ただし相手に及ぶ結果は、いつも生じるとは限らない。調べるべきは、場面全体の中での発言の行為の全体である(第 XII 講)。 はじめに オースティン(1911〜1960)はオックスフォードで古典学と哲学を学び、戦中は陸軍の情報部隊に勤め、1952 年に同地のホワイト道徳哲学教授になりました [1] 。書いたものは少なく、影響の多くは講義と、「土曜の朝」と呼ばれた少人数の討論会を通じて広がりました [1] 。 本課で読む『いかにして言葉でものごとを行うか』は、1955 年のハーヴァード大学での講義のノートを、没後に編者がまとめた本です [1] [2] 。初版は 1962 年、第 2 版は 1975 年で、全 12 講です。本課も「第 I 講」のように講の番号で箇所を示します。 この編のカルナップの課では、形而上学の文が、正しくも誤りでもない擬似文として退けられました。オースティンが目を向けるのは、真でも偽でもないのに、無意味でもない発言です。「約束します」のように、言うことがそのまま行うことになる発言が、何によって成り立ち、どうしくじるのかを、彼は一つずつ調べていきます。 この課の問い 「約束します」「この船を……と名づける」と言うとき、私たちは何かを言い表しているのでしょうか、それとも何かをしているのでしょうか。言葉でする行為は何によって成り立ち、どんなふうにしくじるのでしょうか。 この課のことば 事実確認文(コンスタティブ) 「猫がマットの上にいる」のように、ものごとのありさまを述べ、真か偽かを問える発言です [2] 。 遂行文(パフォーマティブ) 「この船を……と名づける」のように、言うことがそのまま行為をすることになる発言です。真でも偽でもなく、うまくいくかどうかで測られます [2] [3] 。 適切さ(フェリシティ) 遂行文がうまくいくための条件です。手続き・人と場面・やり方・心と後の振る舞いに関わる六つがあります [2] [3] 。 不発と濫用 適切さが破れたときの二つの型です。行為そのものが成り立たないのが不発、守る気の無い約束のように、成り立つが中身がうつろなのが濫用です [3] 。 発語行為・発語内行為・発語媒介行為 一つの発言の三つの層です。意味のある文を言うこと(発語)、言うことの中で約束や警告をすること(発語内)、言うことによって相手を説き伏せるなどの結果を生むこと(発語媒介)です [2] 。 発語内の力 同じ文が予言なのか命令なのか脅しなのか、という発言の向きです。文の意味だけでは決まりません [3] 。 言語行為論――言葉で何ができるのか この章では、オースティンの議論を三つの段で読みます。まず、言うことがそのまま行うことになる発言(遂行文)の発見です。次に、そうした発言がうまくいくための条件と、二つのしくじり方です。最後に、述べることも行為の一つだという結論と、どの発言にも見分けられる三つの層です。 遂行文――言うことがそのまま行うことになる 哲学者たちは長いあいだ、文の仕事はものごとのありさまを記述することか、事実を述べることだけで、それを真か偽かのどちらかで果たすと思いこんできました。オースティンは第 I 講をこう指摘して始め、この思いこみを「記述の誤謬」と呼びます [2] 。カント以来、また近ごろの哲学が、文法の上では言明の形をしていても無意味な文があると示してきたことにも、彼は触れます。念頭にあるのは検証の考え(論理実証主義)だと読むのは、本教材の読み方です。オースティンが問うのは、その先です。言明に見えて、そもそも何も記述していない発言があるのではないか、というのです。 彼が挙げるのは四つの場面です。結婚式で誓いの問いに「はい」と答えること、進水式で瓶を舳先に打ちつけながら「この船をクイーン・エリザベス号と名づける」と言うこと、遺言に「時計を弟に遺す」と書くこと、「明日は雨だと 6 ペンス賭ける」と言うことです。どれも一人称・現在のありふれた文の形をしています。なのに、これらを言うことは、自分のしていることを記述することでも、していると述べることでもありません。それをすることそのものだ、とオースティンは言います [2] 。こうした発言を彼は遂行文と呼び、言明ではないとしました(1962 年版 6 頁) [3] 。 事実確認文 遂行文 例:猫がマットの 上にいる 例:この船を……と 名づける ものごとの ありさまを述べる 言うことで名づけを する 物差しは真か偽か 物差しはうまく いくかどうか 文の形での見分けは後の講で行き詰まり、区別は三つ目の 節で組みかえられます。 図 1 オースティンが第 I 講で取り出す二つの発言(本教材の整理)。上から、例・していること・測る物差しの順に並べています [2] 。 では、遂行文はどう評価されるのでしょうか。「この船を……と名づける」と言った人に「それは本当だ」「それは嘘だ」と返すのは的外れです。問えるのは、名づけが成り立ったかどうかです。オースティンは、遂行文は真か偽かではなく、うまくいくか(適切か)、いかないか(不適切か)で測られると言います (図 1) [2] [3] 。 では、言葉は心の中で別に行われる行為の報告なのでしょうか。オースティンはこれも退けます。彼はエウリピデス『ヒッポリュトス』の、舌は誓ったが心は誓っていない、という台詞を引きます。心で誓っていなかったからといって、約束から逃れられるわけではありません。言葉そのものが約束の証文になるのだ、と彼は言います(第 I 講) [2] 。ただし、言いさえすれば行為が成り立つわけでもありません。名づけには名づける役目が、結婚には決まった式と相手が要ります。ここから、遂行文がうまくいく条件の問いが出てきます。 ここで間違えやすい 遂行文を、「名づける」「約束する」のような特別な動詞を使った文のことだと取らないようにしましょう。オースティン自身、場面によっては「犬がいるぞ」のような一言も警告という行為になると見ており、文法の形で遂行文を見分ける試みは行き詰まると後の講で認めます [2] 。また、真でも偽でもないというのは、でたらめでよいという意味ではありません。真偽とは別の物差しで、厳しく測られるという意味です。 適切さの条件――言葉の行為はしくじり方で分かる 第 II 講でオースティンは、遂行文がうまくいくための条件を六つに分けて並べます [2] (表 1) 。条件は A・B・Γ(ガンマ)の三組に二つずつあります。A は受け入れられた手続きと、それにふさわしい人と場面に、B は手続きを正しく最後まで行うことに、Γ は当人の心と後の振る舞いに関わります。 この表で分かること: A と B の条件が破れると行為そのものが成り立たず(不発)、Γ の条件が破れると、行為は成り立つがうつろになります(濫用)。しくじりの型が違えば、言った人の負う責めも違います。 条件 中身 破れた例 しくじりの型 A.1 手続き 受け入れられた手続きがある 手続きの無い所で離婚を宣言 不発 A.2 人と場面 人と場面がふさわしい 役目の無い人が船を名づける 不発 B.1 正しく 手続きを正しく行う どの競走か決めずに賭ける 不発 B.2 最後まで 手続きを最後まで行う 相手が賭けを承諾しない 不発 Γ.1 心 考えや気持ちを実際にもつ 守る気の無い約束 濫用 Γ.2 後の振る舞い 後でもそう振る舞う 約束した後で破る 濫用 表 1 第 II 講の六つの条件(本教材の要約) [2] 。破れた例は本教材が短くまとめたもので、役目の無い人の命名と、承諾されない賭けと、守る気の無い約束は SEP の言語行為の項目にも挙がる例です [3] 。 条件が破れたときのしくじり方は、二つに分かれます [3] 。A と B が破れると、行為は企てられても成り立ちません。これが不発です。オースティンの例では、造船台の船に、名づける役目の無い人が歩み寄り、瓶を割って勝手な名を叫びます(第 II 講) [2] 。船に名はつきません (図 2) 。賭けも、相手が承諾しなければ成り立ちません [3] 。 名づけが成り立つ 新しい名 この船をクイーン・ エリザベス号と名づける 拍手 手続き・役目・場面がそろう ――言うことで名がつく 不発(名がつかない) 名なし この船を 〇〇号と名づける! ? ? 名づける役目が無い ――名はつかない(不発) 図 2 進水式の名づけの二つの場面(本教材の絵)。一つ目は名づける役目のある人が瓶を割って名を告げ、船に名がつく場面、二つ目は役目の無い人が同じことをしても名がつかない場面(不発)です。役目の無い人が瓶を割って名を叫ぶ例は本人のもので、服装・矢印・×印は本教材の描き方です。 これに対して Γ が破れると、行為は成り立つが、うつろになります。これが濫用です。守る気の無いまま「明日会うと約束する」と言った人も、約束はしています。誠実でないので適切ではありませんが、約束を破れば責められる立場には立っているのです [3] 。不発と濫用の違いは、言葉の行為が慣習と責任の網の中にあることを示しています。 さらにオースティンは、述べる文にも似たしくじりがあることに気づきます。子がいないのに「ジョンの子どもはみな禿げている」と言えば、前提が欠けて、発言は空振りします。「猫はマットの上にいるが、私はそう信じていない」と言えば、誠実さが欠けます(第 III〜IV 講) [2] 。述べることも同じ条件のもとにあるのなら、遂行文と事実確認文の境目は揺らぎます。 ここで間違えやすい 不発と濫用を、どちらも「うまくいかなかった」で一まとめにしないようにしましょう。不発では行為がそもそも成り立っていません。濫用では行為は成り立っているので、約束を破った責めを負います。また、ここで扱う発言は、どれも意味はよく通じています。意味が通じることと、行為が成り立つことは別の問いです。六つの条件も、オースティンが完全な一覧として出したものではなく、分け方は大まかで重なりもあると彼は断っています [2] 。 発言の三つの層――述べることも行為である 第 VIII 講でオースティンは、何かを言うことの中に三つの層を見分けます [2] 。意味をもつ文を言うこと(発語行為)、言うことの中で約束・命令・警告などをすること(発語内行為)、言うことによって相手を説き伏せる・驚かせるなどの結果を生むこと(発語媒介行為)です。彼の例では、ある人が私に「彼女を撃て」と言います。その語をある意味で言ったこと、そう言うことで撃つよう私に促したこと、そう言うことによって私に撃たせたことが、分けて語れます [2] 。 一つの発言でする三つのこと 足を踏んでいますよ すみません 発語 踏んでいると事実を言う 発語内 言うことの中で頼む 「どいてください」 保証はない 発語媒介 言うことによって 相手が足をどけ謝る 聞いていない 発語はあっても 発語媒介は起こらない 図 3 満員電車の「足を踏んでいますよ」の三つの層(本教材の絵)。発言の場面は SEP の言語行為の項目の例、三つの層の名と「言うことの中で」「言うことによって」の区別はオースティン本人のもの、イヤホンの差し込みは本教材の作例です [2] [3] 。左下の差し込みのように相手が聞いていなければ、三つ目の結果は起こりません。 層が分かれるのは、同じ文でも力が違いうるからです。「これからはもっと時間を守るように」という文は、予言にも命令にも脅しにもなりえます。どの力で言われたかは、文の意味に加えて、話し手が本気かどうかや場面の条件で決まります [3] 。満員電車で「足を踏んでいますよ」と言う場面を考えましょう (図 3) 。言葉の上では、相手が足を踏んでいるという事実を言っているだけです。けれども言うことの中で、どいてくれと頼んでいます [3] 。相手があわてて足をどけるのは、言うことによって生じた結果です。 この結果は慣習だけでは保証されません。相手がイヤホンで何も聞いていなければ、発言はあっても足はどきません。発語媒介の結果は、いつも生じるわけではないのです [3] 。電車の場面は SEP の例を、本教材が場面にしたものです。 そのうえでオースティンは、述べることも発語内行為の一つだと結論します(第 XI 講) [2] 。述べることにも手続きと誠実さの条件があり、しくじることがあるからです。真偽も、文脈の中で発言を測る物差しの一つになります。たとえば「ラグラン卿がアルマの戦いに勝った」は、学校の教科書なら言ってよいが、歴史の研究書では言い過ぎになる、と彼は言います(第 XI 講) [1] 。最後の講では、場面全体の中での発言の行為の全体こそ、私たちが解き明かそうとしている唯一の現象だとまとめます(第 XII 講) [2] 。発語内行為も、判定・権限行使・約束・態度・説明の五つの類に分けてみせました [2] 。 ここで間違えやすい 発語内行為には何の条件も要らない、と思わないようにしましょう。オースティンは、相手が言葉の意味と力を受け取ることも、発語内行為が成り立つ条件だとします(第 IX 講) [2] 。これは、賭けを承諾することとは別です。承諾しない人も、持ちかけられたことは分かっているからです。また、オースティンは真偽を捨てたのではありません。述べることを他の行為と同