1.7 句読点と濁点の無い本文 — 校訂本とは何か — Epoché
この課でできるようになること 写本には句読点も濁点も鉤括弧も無い、といういちばん大事な事実を知る。 いま読んでいる本文が、校訂者という人の判断を含んでいると分かる。 濁点の付け方一つで意味が変わる箇所を、実例で見分けられる。 句読点の無い本文に、自分で切れ目を入れられる。 前提 : 1.6 まで。 ここまでの六つの規則は、書いてある字をどう読むかの話でした。この課では、その「書いてある字」自体を疑います。あなたが教科書やこの課程で目にする古文には、句読点があり、濁点があり、会話には鉤括弧が付いています。ところが、 そのどれも原本には無い のです。写本には、句読点も、濁点も、鉤括弧も、段落もありません。仮名がひたすら続いているだけです。 では、いま見えている点や丸は誰が打ったのか。 校訂者 です。明治から昭和にかけて、学者たちが写本を集めて比べ、字の異同を判定し、句読点と濁点を補って活字にしました。それが校訂本で、この課程が本文に使っているのも、著作権の切れた古い校訂本です。つまり、あなたが読んでいるのは「原文」そのものではなく、 原文に人の判断が一枚かぶさったもの です。この一枚を知っておくと、版によって本文が違う理由も、注釈書が食い違う理由も、すっきり分かります。 現代語に残っている形 句読点が無いと何が起きるか。現代語で確かめるのがいちばん早いので、次の二つを読んでみてください。 切れ目の無い文 読み方その一 読み方その二 ここではきものをぬいでください ここで、履物を脱いでください ここでは、着物を脱いでください くるまでまつ 車で待つ 来るまで待つ 点を一つ打つ場所が変わるだけで、意味が入れ替わります。逆に言えば、 点を打つとは、意味を一つに決めることです 。校訂者が句読点を打つとき、その人は「この文はここで切れる」と判断を下しています。判断の根拠は文法で、切れ目の見つけ方は切編でまるごと扱います。 濁点も同じです。現代語では、濁点を付けるかどうかで迷うことはまずありません。ところが古文には、濁点の有無で語が入れ替わる場所がいくらでもあります。 たに は「谷」か、それとも「〜さえ」を意味する助詞の「だに」か。 とも は「〜としても」か、「〜けれども」の「ども」か。写本にはどちらとも書いてありません。決めるのは、やはり読む人です。 古文ではこうなる この課程が使う『古今和歌集』の本文を、機械で数えてみました。 濁点の付いた仮名は、十一万字の中にたった一つ しかありません。つまり、この本文は事実上、濁点なしで書かれています。 校訂者の仕事は、おおよそ四つです。 本文を定める 。写本ごとに字が違うので、どれを採るかを決める。採らなかった字は「異本ではこう」と欄外に書く。 濁点を補う 。「いへとも」を「いへども」と読むか「いへとも」と読むかを決める。 句読点を打つ 。どこで文が終わるかを決める。 鉤括弧を付ける 。どこからどこまでが誰の言葉かを決める。 同じ作品なのに版で本文が違うのは、この四つの判断が校訂者ごとに違うからです。底本にした写本が違えば字が違い、文法の解釈が違えば切れ目が違う。 だから、注釈書を二冊並べると訳が食い違います。 それは誰かが間違えているのではなく、判断が分かれているのです。本がどう伝わったのかは 世編 2課 で詳しく扱います。 原文で確かめる 『古今和歌集』の巻一から三首。仮名だけで、濁点も句読点もありません。読みは音のとおりに書き、助詞の「は」「を」は「わ」「お」と書きます。 としのうちに春はきにけりひととせをこそとやいはむことしとやいはむ [1] 巻頭の一首(在原元方)です。ここには落とし穴があります。「こそ」を強めの助詞と取ると、文がどこにも着地しません。正しくは 「こぞ」=去年 で、濁点が無いだけです。補うと 年のうちに春は来にけり、ひととせを、去年とや言はむ、今年とや言はむ 。読み: としのうちにはるわきにけり、ひととせお、こぞとやいわん、ことしとやいわん。意味は「年が明けないうちに春が来てしまった。この一年を、去年と言おうか、今年と言おうか」。 春きぬと人はいへともうくひすのなかぬかきりはあらしとそ思ふ [1] 壬生忠岑の歌。濁点を補う場所が五つあります。「いへとも」→ いへども 、「うくひす」→ うぐひす 、「かきり」→ かぎり 、「そ」→ ぞ 。そして五つめ、山場が「あらし」です。これを「嵐」と読むと意味が通りません。 「あらじ」=あるまい が正解です。読み: はるきぬとひとわいえども、うぐいすの、なかぬかぎりわ、あらじとぞおもう。意味は「春が来たと人は言うけれど、鶯が鳴かないかぎりは、春が来たとは思うまい」。 はるやとき花やおそきとききわかむ鶯たにもなかすもあるかな [1] 藤原言直の歌。「たに」は谷ではなく、 「だに」=〜さえ 。「なかす」は 「なかず」=鳴かない です。読み: はるやとき、はなやおそきと、ききわかん、うぐいすだにも、なかずもあるかな。意味は「春が早いのか花が遅いのかを聞き分けようというのに、その鶯さえ鳴かないことだ」。「ききわかむ」を「ききわかん」と読むのは前の課の規則です。 次は、翻刻そのものが揺れている例です。『宇治拾遺物語』の「児のそら寝」の書き出しを、この課程が使っている版から、そのまま引きます。 僧だち宵のつれづれににいざかかひもちいせんといひけるを。 [2] 「つれづれにに」と仮名が重なり、「かかひもちい」も形が揺れています。多くの校訂本はここを 僧たち、宵のつれづれに、「いざ、かいもちひせん」と言ひけるを と直します。 直すかどうか、どう直すかが、校訂者の判断です。 意味は「僧たちが、宵の退屈しのぎに『さあ、ぼた餅を作ろう』と言ったのを」。この話は 読編 1課 で全文を読みます。 読み上げと音読 読み上げは、校訂本の句読点のとおりに息を切ります。切れ目の無い本文を耳で聞くと、どこで切るべきかが分かることがあります。 意味が取れた瞬間に、息は自然に切れます。 上の三首を、まず切らずに一息で読み、次に自分が決めた場所で切って読んでみてください。二回目のほうが必ず読みやすいはずで、その差が校訂者の仕事の値打ちです。 動画で見る この課の内容に近い解説動画です。押すと再生されます(再生は YouTube に接続します)。「画面に固定して見る」を押すと、本文を読みながら見られます。 お答えします「文字の疑問」(1) 字形 国立国語研究所(4:46、2017) もっと深く — 時間のあるときに じっくり取り組みたい人向けの、長めの講義や、外国語で説明される解説です。この課を進めるのに見る必要はありません。長さや注記を見て、興味のあるところだけ選んでください。 くずし字レクチャー① 小此木 敏明 立正大学図書館 | RISSHO University Library(26:44、2022) 大学図書館の公開講座。写本の実物を読む くずし字レクチャー② 小此木 敏明 立正大学図書館(21:43、2022) ①の続き。校訂されていない本文を実際に読む回です。 練習 次の歌に濁点を二か所補い、意味を言ってください。 霞たちこのめもはるの雪ふれは花なきさとも花そちりける [1] (紀貫之)。 次は、上で見た『宇治拾遺物語』の一節から、句読点と濁点を取り去ったものです。切れ目に丸を打ち、濁点を補ってください。 このちこさためておとろかさんすらんとまちゐたるに僧の物申さふらはんおとろかせ給へといふをうれしとはおもへともたた一とにいらへんも待けるかともそおもふとていま一こゑよはれていらへんと念してねたるほとに 二つめの一節を、自分で打った丸のところで切りながら、いまの音で三回、声に出して音読してください。 この課のまとめ 写本にあるもの 校訂者が足したもの 足すときの根拠 仮名と漢字の連なり 句読点 述語の位置。文の切れ目 同上 濁点 語の意味と文法。「あらし」か「あらじ」か 同上 鉤括弧 「と」「とて」の位置。敬語 写本ごとに違う字 定めた一つの字 写本の系統と文脈 写本に句読点・濁点・鉤括弧は無い。いま見えているものは校訂者が補った。 版によって本文が違うのは、底本と判断が違うから。誰かが間違えているのではない。 濁点の有無で語が入れ替わる(こそ/こぞ、たに/だに、あらし/あらじ)。決め手は文法と文脈。 次の課へ 1.8 で音編は終わりです。ここまでの八つの規則を一枚の表にまとめ、百人一首の最初の二十首を実際に読みます。歌は短く、規則がぎっしり詰まっているので、練習にちょうどよい長さです。 答え 「雪ふれ ば 」「花 ぞ ちりける」。読み: かすみたち、このめもはるの、ゆきふれば、はななきさとも、はなぞちりける。意味は「霞が立ち木の芽もふくらむころに雪が降るので、花の無い里にも花が散ることだ」。 このちご さだめておどろかさんずらん とまちゐたるに。僧の物申さ ぶ らはんお ど ろかせ給へといふを。うれしとはおもへ ども 。た だ 一 ど にいらへんも。待けるかとも ぞ おもふとて。いま一こゑよ ば れていらへんと念 じ てねたるほ ど に。意味は「この児は、きっと起こしてくれるだろうと待っていたところ、僧が『もしもし、お起きなさい』と言うのを、うれしいとは思うけれども、一度で返事をするのも、待っていたのかと思われるだろうと思って、もう一声呼ばれてから返事をしようと我慢して寝ていたところ」。 読みの目安: このちごさだめておどろかさんずらんとまちいたるに。そうのものもうさぶらわん、おどろかせたまえというお。うれしとわおもえども。ただいちどにいらえんも。まちけるかともぞおもうとて。いまひとこえよばれていらえんとねんじてねたるほどに。 参考文献 『古今和歌集』巻一 春上(1・9・10・11 番)。パブリックドメイン。仮名の本文をそのまま引いた。出所: https://ja.wikisource.org/wiki/古今和歌集 『宇治拾遺物語』巻第一「児のかい餅するにそら寝いりしたる事」。パブリックドメイン。翻刻の形をそのまま引いた。出所: https://ja.wikisource.org/wiki/宇治拾遺物語