権力分立――野心には野心で対抗させる — Epoché
制度と行動 統治の制度 約 27 分 本文 約 12,000 字 図 4・表 2 資料 1 節 この課の要点 分ける・止め合う・日本の 3 つ 分ける モンテスキューは、権力を持つ者は濫用しがちなので、事物の配置によって権力が権力を止めるようにすべきだと論じ、三つの権力が同じ手に集まれば「すべては失われる」とした。 止め合う マディソンは、各部門に他部門の侵入に抵抗する憲法上の手段と個人の動機を与え、野心には野心で対抗させよと論じた。米国憲法の拒否権・上院の同意・弾劾はその形である。 日本 日本国憲法は三つの権力を別々の機関に置く一方、内閣は国会の信任に支えられ、立法と行政は強く結びつく。国政調査・不信任・解散・違憲審査などが止め合う手段になる。 はじめに クラスの決まりをつくる人と、違反を取り締まる人と、違反かどうかを裁く人が、同じ一人だったとしたらどうでしょう。その人は自分に都合のよい決まりをつくり、気に入らない人だけを取り締まり、自分で「違反だ」と決めることができます。誰かが「おかしい」と思っても、訴える先がありません。 これは学校の中だけの話ではありません。18 世紀フランスの思想家モンテスキューは、ヨーロッパの多くの王国では政府が穏やかだと書きました。君主が法をつくる権力と執行する権力を持ちながら、裁く権力は臣民に委ねているからです。反対に、トルコでは三つの権力がスルタンの頭上に集まり、恐ろしい専制が支配している、と述べています [2] 。権力がどう分かれているかで、そこに暮らす人の安心が変わる、という見方です。 この課程の「憲法と立憲主義」の課では、権力を憲法で縛る考えを見ました。1789 年のフランス人権宣言 16 条は、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていない社会は、憲法を持たない」と述べています [11] 。けれども、紙に書いた決まりを、権力を握る人自身が破ったら、誰が止めるのでしょうか。 この課で見る答えは、権力をいくつかに分け、分けた権力どうしを互いに止め合わせることです。題の「野心には野心で対抗させる」は、1787 年にまとまった合衆国憲法の案 [7] を擁護して、ニューヨーク州の人々に宛てて書かれた『ザ・フェデラリスト』第 51 篇の言葉です [6] 。善い人を選べば安心だ、とは考えず、権力を求める人の気持ちそのものを、互いの歯止めに使おうとする発想です。 ただ、分けるだけで十分なのでしょうか。分けた機関どうしが手を組んだら、あるいは一つの機関が少しずつ他の機関を飲み込んでいったら、どうなるでしょう。分けたうえで、互いに止める手段を誰にどれだけ持たせるのか。この課では、この問いを中心に考えます。 章では、まずフランスの思想家モンテスキューの「権力が権力を止める」という考えを見ます。次に、それを米国憲法の仕組みに移したマディソンの議論と、大統領の拒否権の実際を見ます。続いて、立法と行政が結びつく議院内閣制と日本国憲法の形を比べ、最後に、止める仕組みの長所と代価を考えます。資料では第 51 篇の一節を読み、考えてみるでは日本の国会と身近な組織に当てはめます。 この課の問い 権力を三つに分けておけば、権力の濫用は防げるのでしょうか。分けた権力どうしが互いに止め合う仕組みは、どう組み立てられ、議院内閣制の日本ではどう働いているのでしょうか。 この課のことば 権力分立 法をつくる・法を行う・裁くという国の働きを、別々の人や機関に受け持たせること。たとえば日本では国会・内閣・裁判所に分けています。 抑制と均衡 分けた機関それぞれに、ほかの機関の行き過ぎを止める手段を持たせ、どれか一つが強くなりすぎないようにすること。米国大統領の拒否権や、議会による弾劾がその例です。 拒否権 ほかの機関が決めたことの成立を止める権限。米国では、議会を通った法案を大統領が異議を付けて差し戻せます。 権力の融合 議院内閣制で、議会の多数が内閣をつくって支えるため、立法と行政が強く結びつくこと。英国の評論家バジョットの言葉です。 違憲審査 裁判所が、法律や政府の行為が憲法に合うかどうかを判断する仕組み。日本国憲法では最高裁判所が最後に判断します。 権力分立――なぜ分け、どう止め合わせるのか 立憲主義は、権力を憲法の決まりで縛る考えでした。この章では、その縛りを紙の上だけで終わらせないための内側の仕組みとして、権力分立と抑制と均衡を見ます。思想の出発点、米国での具体化、議院内閣制の日本での形、そして仕組みの代価の順に進みます。 権力が権力を止める――モンテスキューの三つの権力 モンテスキューは、1748 年に刊行した『法の精神』で、自由を守る国のつくりを論じました [3] 。出発点は、人間への醒めた見方です。第 11 編第 4 章で彼は、権力を持つ者はみなそれを濫用しがちで、限界に出会うまで進む、それは永遠の経験だと書きます。そして、権力を濫用できないようにするには、事物の配置によって権力が権力を止めるようにしなければならない、と続けます。徳でさえ限界を必要とする、とも言います [2] 。善い人に任せれば安心だ、とは考えないのです。 では、守るべき自由とは何でしょうか。第 11 編第 6 章でモンテスキューは、政治的自由を「各人が自分の安全について持つ意見から生じる、心の落ち着き」と定義し、そのためには市民が他の市民を恐れずにすむ政府が要るとしました [2] 。SEP の項目は、これは何でも好きにできることではないと説明します。法に従っていれば、国家の力が自分に向けられないと安心できることなのです。そして、シュクラーの言葉を借りて「恐れの自由主義」と呼んでいます [3] 。 どの国にもある三種の権力 同じ手に三つが集まれば自由は 失われる 立法権 法をつくり、直し、廃する 執行権 和平と戦争・使節・安全・侵入の防止 裁く権力 犯罪を罰し、個人の争いを裁く 図 1 モンテスキューの言う三種の権力(『法の精神』第 11 編第 6 章) [2] 。第二の「執行権」は和平と戦争・使節・安全が中心で、今日の「行政」より狭い意味です。同じ人や団体が三つを行えば「すべては失われる」と彼は述べました。 同じ章でモンテスキューは、どの国にも三種の権力があるとします。一つ目は、法をつくり、直し、廃する立法権です。二つ目は、和平や戦争を行い、使節を送り受け入れ、安全を固め、侵入を防ぐ権力です。三つ目は、犯罪を罰し、個人どうしの争いを裁く権力です。彼は第三を「裁く権力」と呼び、第二を単に「国家の執行権」と呼びました [2] 。ここでの執行権は外交と安全が中心で、今日の「行政」とはずれがあることに注意が要ります。 三つが結びつくと何が起きるのでしょうか。立法権と執行権が同じ人や同じ役人の団体にあれば、暴君的な法をつくり、それを暴君的に執行するおそれがあるので、自由はありません。裁く権力が立法権と結べば、裁判官が立法者になるので、市民の生命と自由への権力は恣意的になります。執行権と結べば、裁判官は圧制者の力を持ちうる、と彼は言います。そして、同じ人、または主だった者・貴族・人民のどれかの同じ団体が三つを行うなら、すべては失われるだろう、と述べました [2] 。人民の団体も挙がっている点が大切です。本教材の読みでは、人民が治める国であっても、三つを一つの団体が独り占めすれば危ういことになります。 この考えには先例があります。英国の思想家ロックは『統治二論』後編で、立法権・執行権と、戦争と和平や同盟など共同体の外とのやりとりを受け持つ「連合権」を区別しました [4] 。法をつくる者が執行も握れば、自分を法への服従から除き、法を自分の利益に合わせる誘惑として大きすぎるかもしれない、とロックは書きます(143 節) [4] 。ただしロックは立法権を最高の権力とし(150 節)、執行権と連合権はほとんど常に同じ手にあるとしました(147・148 節) [4] 。分けはしても、立法を頂点とする上下の並びです。 身近な例で考えてみましょう(本教材の作例です)。ある学校で、委員長が一人で、校内の決まりをつくり、違反を見回り、違反かどうかを決めていたとします。決まりを三つの場に分け、決まりは生徒の会議でつくり、見回りは係が行い、違反かどうかは別の委員会が決めるようにすれば、委員長が気に入らない生徒を狙い撃ちにすることは難しくなります。モンテスキューの言う「事物の配置」とは、こうした役割の並べ方のことです。 ここで間違えやすい モンテスキューは、三つの権力を互いに一切関わらせるなと言ったのではありません。同じ第 6 章で、執行権は「阻止する権能」によって立法に加わるべきだとし、立法府を二つの部分に分けて互いの阻止する権能で縛り合わせ、その両方を執行権が、執行権を立法権が縛る配置を描いています [2] 。分けたうえで、つなぎ目に止める手段を置くのです。 野心には野心で――マディソンと抑制と均衡 1787 年 9 月 17 日、米国の憲法会議は合衆国憲法の案をまとめました [7] 。この案を擁護してニューヨーク州の人々に宛てた論説が『ザ・フェデラリスト』です。マディソンの紹介によれば、反対する人々は、案は立法・執行・司法を混ぜ合わせ、自由のための大事な備えを無視していると批判しました。第 47 篇でマディソンは、立法・執行・司法の全権力が同じ手に集まることは、一人でも少数でも多数でも、世襲でも自薦でも選挙によるものでも、「専制の定義そのもの」だと認めます [5] 。 そのうえでマディソンは、モンテスキューの意味を読み直します。モンテスキューが手本にした英国の国制でも、三つの部門は完全には分かれていません。だから彼の言う意味は、部門が互いの行為に部分的に関わったり統制したりしてはならない、ということではありません。ある部門の全権力が、別の部門の全権力を持つ同じ手で行使されるとき、自由な国制の基本原理が覆される、ということだ、とマディソンは読みます [5] 。 第 51 篇では、憲法に境界を書き込むといった外側の備えだけでは足りないので、政府の内部の構造を工夫し、各部分が互いの関係によって互いを持ち場に保つようにすべきだと論じます [6] 。各部門は自分の意思を持ち、ほかの部門の者の任命や報酬にできるだけ頼らないようにします。ただし司法は特別な資格が要るので、選び方には例外を認めます [6] 。そのうえで要になるのが、各部門を運営する者に、他部門の侵入に抵抗する「憲法上の手段と個人の動機」を与えることで、「野心には野心で対抗させなければならない」という一文が続きます(資料で読みます) [6] 。 立法 執行 司法 互いに引き合い 持ち場を守る 離れようとすれば、ほかの二人が引き戻す 図 2 互いの関係で、互いを持ち場に保つ(本教材のたとえで、マディソン本人の絵ではありません)。三人はそれぞれ他の二人と縄でつながっています。一人が持ち場を離れて前に出ようとすると、ほかの二人の縄が引き戻します。第 51 篇は、政府の内部の構造を工夫して、各部分が互いの関係によって互いを持ち場に保つようにすべきだと述べました [6] 。 マディソンは、どの部門にも等しい自衛の力を与えることはできないとも認めます。共和政では立法権が必然的に優越するので、立法府を選び方の違う二つの院に分け、弱い執行権は強めます。ただし、議会への絶対的な拒否権は、ふつうの時には断固と使われず、非常の時には裏切って濫用されるかもしれないので、安全でも十分でもないかもしれない、と述べています [6] 。 合衆国憲法はこれを具体的な手段にしました。両院を通った法案は大統領に送られ、大統領は異議を付けて差し戻せます。差し戻された法案は、各院の 3 分の 2 が再び可決すれば法律になります(第 1 条第 7 節) [7] 。最高裁判所の裁判官は、大統領が指名し、上院の助言と同意を得て任命します(第 2 条第 2 節) [7] 。下院が弾劾の訴追を、上院が裁判を受け持ち、有罪には出席議員の 3 分の 2 が要ります(第 1 条第 2・3 節) [7] 。さらに、合衆国の官職にある者は在職中どちらの院の議員にもなれません(第 1 条第 6 節) [7] 。本教材の整理として言えば、人を分け、手段は少しずつ重ねるという、第 47 篇の読みが形になっています。 拒否権は実際に使われています。米国下院の史料局によれば、最初の通常の拒否権は 1792 年 4 月 5 日のワシントンによるもので、議会が初めて乗り越えたのは 1845 年 3 月 3 日でした [8] 。2026 年 1 月 9 日更新の集計では、通常の拒否権は合わせて 1,533 回、そのうち議会に乗り越えられたのは 112 回です [8] 。議会の閉会で法案を返せないときの「握りつぶし拒否権」は乗り越えられません [8] 。図 3 は近年の大統領の数です。史料局は、拒否の脅しだけでも、法案が大統領に届くずっと前に中身が変わることがある、と説明しています [8] 。数が多いか少ないかの理由は、この集計からは分かりません。 通常の拒否権 乗り越えられた数 レーガン 39 9 ブッシュ(父) 29 1 クリントン 36 2 ブッシュ(子) 12 4 オバマ 12 1 トランプ(1期目) 10 1 バイデン 13 0 0 10 20 30 40 出典:米国下院 History, Art & Archives「Presidenti al Vetoes」(2026 年 1 月 9 日更新) 図 3 米国大統領ごとの通常の拒否権の数と、議会が各院の 3 分の 2 で乗り越えた数(レーガンからバイデンまで、回)。乗り越えられない握りつぶし拒否権は含みません。トランプは 1 期目(第 115〜116 議会)の数です。米国下院 History, Art & Archives「Presidential Vetoes」(2026 年 1 月 9 日更新) [8] 。 ここで間違えやすい マディソンは、抑制と均衡だけで政府を統制できるとは言っていません。第 51 篇は、人民への依存が政府に対する第一の統制で、抑制と均衡はそれを補う備えだとしています [6] 。また、分立と抑制と均衡は同じではありません。分立は役割を分けること、抑制と均衡は分けた機