ネーゲル――主観的な経験は今の物理の言葉で説明できない(コウモリ・視点) — Epoché
現代 心の哲学と技術の哲学 約 16 分 本文 約 6,700 字 図 3・表 2 原典 1 節 この課の要点 基準・視点・溝の 3 つ 基準 ある生き物に意識があるのは、その生き物であることが「どのようなことか」があるときだ、とネーゲルは論じた(「コウモリであるとはどのようなことか」1974)。この経験の主観的な性格は、心を働きで説明する理論から抜け落ちる、とネーゲルは言う。 視点 コウモリは反響で世界を捉える。コウモリにも経験があると考えてよいが、人間が思い描けるのは「自分がコウモリのように振る舞ったらどうか」までで、その経験を内側から完全につかむことはできない。粗い・部分的な理解まで否定するのではない。 溝 科学は視点を外して客観的な記述へ進むことで成功してきたが、経験は視点を外すと肝心の所を失う。だからネーゲルは、物理主義が真でありうるとしても、それがどう真なのかを今の私たちの概念では理解できない、と結んだ。 はじめに アメリカの哲学者トマス・ネーゲル(1937〜)は、1974 年、学術誌 The Philosophical Review に短い論文「コウモリであるとはどのようなことか」を載せました [1] 。 前の二つの課では、心を外から確かめられる言葉で語る道を読みました。前の課のパトナムは、心の状態を働きで定めました [5] 。ネーゲルは、働きをすべて書き出しても抜け落ちるものがある、と問いました [2] 。 抜け落ちるとネーゲルが考えたのは、経験の 主観的な性格 です。経験する当人にとってそれがどう感じられるか、という面です。ネーゲルは、この面を捉えない理論は、心を説明したことにならない、と論じました [1] [2] 。 ただしネーゲルは、心は物ではない、と結論したわけではありません。世界の事実は最終的にすべて物理の事実だという 物理主義 が、真でありうることは認めます。そのうえで、それがどう真でありうるのかを、今の私たちの概念では理解できない、と言うのです [3] 。 この課の問い コウモリは、自分の出した高い音の跳ね返りを聞いて、暗い洞窟で虫を捕らえます。コウモリの脳と体の仕組みを、物理学と生物学でどれほど詳しく調べ上げても、それで「コウモリにとって世界がどう感じられているか」まで分かるのでしょうか。 この課のことば 「〜であるとはどのようなことか」 その生き物の側から見て、世界がどう感じられ、どう現れているか。英語の what it is like の訳です。ある生き物であることが「どのようなことか」があるとき、その生き物には意識がある、とネーゲルは言います。 主観的な性格 経験が、経験する当人にとってどう感じられるかという面。痛みの痛さや、ターコイズの青緑の見え方などです。 視点 経験を内側から持つ当人の立ち位置。似た種類の視点に立てる者どうしは、互いの経験をある程度思い描けます。 客観的な記述 誰の視点にも頼らず、どの観察者にも同じように確かめられる仕方で事物を書くこと。物理学や神経科学の記述がその典型です。 物理主義 心のことがらも含めて、世界の事実は最終的にすべて物理の事実である、という立場。ネーゲルはこれを偽とは言いません。 説明の溝 脳で起こる客観的な出来事と、当人が感じる経験とのあいだを、分かる形でつなぐ説明が無いこと。レヴァインの名づけです。 主観的な経験――コウモリであるとはどのようなことか 前の課までに読んだライルとパトナムは、心を外から確かめられる言葉で語ろうとしました。ネーゲルは 1974 年、その道では捉えられないものがある、と問いました [2] 。この章では、意識とは何かの基準、コウモリの例と視点の問題、客観的な記述の限界とそれへの応答、を順に読みます。 意識の基準――その生き物であることが「どのようなことか」 ネーゲルは、ある生き物に意識があるのは、その生き物であることが「どのようなことか」があるとき、そのときに限る、と論じました(「コウモリであるとはどのようなことか」1974) [1] [2] 。英語では something that it is like と言います。その生き物の心の側から見て、世界がどう感じられ、どう現れているか、という面のことです [2] 。ネーゲルはこれを、経験の主観的な性格と呼びました [1] 。 意識という語には、多くの意味があります。目が覚めている、周りに反応できる、自分を意識している、などです [2] 。ネーゲルの基準は、そのうち最も主観的な意味をつかもうとします。言葉や、自分についての考えを求めないので、言葉を持たない動物にも当てはまります [2] 。 この基準は、心の状態にも当てはめられます。ある状態にあることが当人にとって「どのようなことか」があれば、その状態は意識のある状態です。SEP の解説は、これを、ある状態が感じを持つとは何かを、一人称の内側から捉える考え方だと読んでいます [2] 。 本教材の作例で確かめましょう(SEP のクオリアの項目が挙げる色見本の例によります [3] )。塗料店で、まぶしいターコイズの見本と、くすんだ茶色の見本を並べて見るとします。光の波長も、目の細胞の反応も、「青緑です」と答える口の動きも、外から測れます。けれども、ターコイズを見ているとき自分にそれがどう見えているか、という感じそのものは、測った数字の表のどこにも書かれていません。ネーゲルの言う「どのようなことか」は、この表に載らない側のことです。 ここから、働きの理論への批判が出てきます。心の状態を入力・出力・ほかの状態との関係で定める説明は、働きの説明として正しくても、その状態にあることがどのようなことかには触れずに書けてしまいます。だからネーゲルは、主観的な性格を捉えない理論は、心を説明したことにならない、と考えました [1] [2] 。 ここで間違えやすい 「どのようなことか」を、「何に似ているか」と取らないようにしましょう。問われているのは、コウモリの経験を人間の経験のどれかにたとえることではなく、その生き物にとってそれがどう感じられるか、です。また、この基準は、言葉を話せる生き物にだけ意識を認めるものでもありません [2] 。 コウモリの視点――完全にはつかめない ネーゲルが例に選んだのは、コウモリです [1] 。コウモリは哺乳類なので、経験があると考えるのにためらいは少ない動物です。けれども感覚の仕方は、人間とまるで違います。自分の出した高い音の跳ね返りを聞き分けて、物の距離や大きさ、形や動きを知るのです。この 反響定位 という感覚が、問いをはっきりさせます [1] [2] 。 では、コウモリの身になって思い描いてみましょう。ネーゲル自身が挙げる例では、腕に膜があって飛び回り、反響で周りを知り、昼は足で逆さまにぶら下がって過ごす自分を想像します [1] 。けれども、それで分かるのは、私がコウモリのように振る舞ったら私にとってどうか、です。コウモリにとってコウモリであることがどのようなことか、ではありません [1] (図 1) 。 コウモリ コウモリにとってどう感じられているか 跳ね返りを聞く 高い音を出す 夕暮れの洞窟の入口 コウモリになったつもりの人 私がコウモリのように振る舞ったらどうか コウモリの視点へは移れない 図 1 一つ目の絵では、コウモリが反響で虫を捉えている様子は外から描けても、コウモリにとってそれがどう感じられるかの吹き出しは空白のままです。二つ目の絵では、人がいくら姿や振る舞いをまねても、吹き出しに浮かぶのは人間の自分の姿だけです。届かないのは内側から完全につかむことで、粗い・部分的な理解まで否定する絵ではありません。反響定位するコウモリと、コウモリの身になって思い描く例はネーゲル本人のもので、梁や吹き出しの描き方は本教材の作例です。 なぜ届かないのでしょうか。思い描くときの材料は自分の経験だけで、それに足したり引いたりしても、反響で世界を聞くという別の視点には移れないからです [1] 。私たちは、似た種類の視点に立てる相手の経験なら、ある程度思い描けます。主観的な事実は、ある種類の視点に結びついている、とネーゲルは言います [1] [2] 。 ただし、ネーゲルは、コウモリの経験について何一つ分からない、と言ったのではありません。SEP の整理では、私たちは似た経験をすることができないので、そうした経験の本性については、せいぜい部分的な理解しか持てない、という主張です [2] 。ネーゲル自身も論文の注で、反響を手がかりに周りを知る人間がいることに触れ、粗い・部分的な理解の余地を認めています [1] 。 分けるべきなのは、経験を内側から完全につかむことと、外から粗く分かることです。ネーゲルが届かないと言うのは前者です。自然科学の外からの知識をどれだけ集めても、コウモリが自分の経験について内側から分かることを、私たちが同じように分かるようにはならない、というのです [2] 。 ここで間違えやすい ネーゲルが、コウモリには意識が無い、と言ったと取らないようにしましょう。むしろ、コウモリには経験があり、そこには私たちが内側から完全にはつかめない事実がある、と言うのです [2] 。もう一つの誤解は、反響定位の仕組みの知識がまだ足りないだけだ、と取ることです。仕組みを知り尽くしても、その経験を持つ視点に立てないことは変わりません [2] 。 客観化の行き止まり――物理主義は偽ではないが、分からない ネーゲルによれば、科学は、人間の感覚の視点から離れ、より客観的な記述へ進むことで成功してきました [1] 。論文が挙げる稲妻の例で言えば、目に見える光の筋という見え方を外して、電気の放電という、誰の目にも頼らない記述へ移ります。見え方を外しても、稲妻そのものは残ります [1] (図 2) 。 稲妻 経験 目に映る光の筋 当人にとっての感じ 電気の放電の記述へ 脳の出来事の記述へ 稲妻そのものは残る 肝心の感じが消える 主観と客観をつなぐ概念は、まだ無い、とネーゲルは 言います。 図 2 稲妻と経験で、視点を外したときに何が残るかの対比です(本教材の整理。稲妻の例は論文にあります [1] )。上から、視点に結びついた見え方、視点を外した記述、そのあとに残るものの順です。 経験では、道が逆になります。調べたいのは当人の視点から見た感じそのものなので、視点を外すと、肝心の所が記述から消えてしまいます [1] [2] 。 それでもネーゲルは、心は物でない、とは結論しません。物理主義が真でありうることは認めます。ただ、主観と客観を一緒に捉える概念が今は無いので、それがどう真でありうるのかを理解できない、と言うのです [3] 。論文は、昔の人に物質はエネルギーだと告げても、意味の分かる仕方では受け取れないだろう、とたとえます [1] 。末尾では、想像に頼らずに経験の構造を書く、客観的な現象学も提案しています [1] 。 脳の出来事と感じのあいだをつなぐ説明が無いことは、のちにレヴァインが 説明の溝 と名づけました [2] 。溝があることは多くの人が認めますが、そこから何が言えるかで立場が分かれます (表 1) 。 この表で分かること: 説明の溝があることは多くの人が認めますが、そこから何が言えるかで立場が分かれます。ネーゲルは、物理主義は真でありうるが、今はつなぐ概念が無い、という中ほどの立場に立ちます。 立場 溝は埋まるか 世界に二種のものがあるか 代表 溝は世界の溝 埋まらない ある(物理でない質) 初期ジャクソン(1982/86)・チャーマーズ 主観的な物理の性質 埋まらない 無い(物理の中に主観がある) サール 概念がまだ無い いつか埋まりうる 分からない(物理でありうる) ネーゲル 人間には閉ざされている 人間には埋められない 無い マッギン 概念の特殊さのせい 埋まらないが害は無い 無い 現象的概念に訴える立場 表 1 説明の溝への立場の分かれ。分け方は SEP のクオリアの項目の整理によります [3] 。ジャクソンの行は、知識論証を出した初期(1982/1986)に限ります。ジャクソンはのちに立場を変え、物理主義を擁護する側に移りました。 物理主義の側からの代表的な応答もあります。「水がはねている」と知っていても「H2O の分子が動いている」とは知らない人がいるように、同じ事実を別の仕方で捉えているだけかもしれない、という答えです [4] 。初期のジャクソンの知識論証(白黒の部屋で色の科学を学び尽くしたメアリーの話)とともに、ネーゲルの議論はこの応答の的になってきました [4] 。溝がどう生じ、何を示すかには、今も合意がありません [3] 。 ここで間違えやすい ネーゲルが、心と脳は別の物だという二元論を証明した、と取らないようにしましょう。結論は、物理主義がどう真でありうるかを今は理解できない、という所にとどまります [3] 。また、後の課で読むチャーマーズのゾンビの議論とも同じではありません。そちらは、思い描けることから在りうることへ進み、物理主義を退けようとします [4] 。 原典を読む 第 1 章の二つ目の節で見たコウモリの段を、要点の形で読みます。著者は存命なので、訳ではなく本教材の要約で示します。 ネーゲル「コウモリであるとはどのようなことか」 コウモリの段 思い描けるのは、コウモリのように振る舞う自分 ネーゲルは意識の基準を示したあと、それがなぜ働きの説明で尽くせないのかを、コウモリの例で示します。下の三つの段は、主張・理由・たとえの順にまとめた本教材の要約です。 1 ネーゲルは、コウモリには経験があると考えてよいが、コウモリであることがどのようなことかを、人間は自分の視点からは完全にはつかめない、と論じます。 2 コウモリは哺乳類で、経験があると見なすのは自然だからです。 3 そう論じる理由は、私たちが思い描くときの材料が、自分自身の経験に限られるからです。 4 ネーゲルによれば、その材料に足したり引いたりしても、反響で世界を聞くという別の視点には移れません。 5 主観的な事実は、ある種類の視点に結びついている、とネーゲルは続く所で言います。 6 ただし、粗い・部分的な理解まで否定するのではない、とネーゲルは注で断っています。 7 たとえば、腕に膜があって飛び