エピクテトス――自分次第のものだけを気にかける(判断と自由) — Epoché
古代 ヘレニズムとローマの哲学 約 15 分 本文 約 5,800 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 区別・判断・自由の 3 つ 区別 あるものは自分次第で、あるものは自分次第でありません。判断・衝動・欲求・忌避は自分次第で、生まれつき自由で妨げられない。体・持ち物・評判・官職は自分次第でなく、弱く、他人のものである(『提要』1.1–1.2)。 判断 人を乱すのは物事ではなく、物事についての判断である(『提要』5)。つらい印象には、まず「おまえは印象であって、見えているものそのものではない」と言い、吟味せよ(『提要』1.5)。 自由 自分次第のものだけを自分のものと考えるなら、誰もその人を強いることも妨げることもできない(『提要』1.3)。奴隷の身を経たエピクテトスは、自由を身分ではなく望み方の問題として語った。 はじめに エピクテトスは、50 年代に小アジアの町ヒエラポリスで生まれました [1] 。ある時期、ローマで、皇帝ネロに仕えた有力な役人エパフロディトスの奴隷でした [1] 。名前そのものが、ギリシア語で「手に入れられた者」を意味します。また、ある時期、ストア派の哲学者ムソニウス・ルフスのもとで学びました [1] 。 やがて自由の身になり、ローマで自ら教え始めます。89 年ごろにドミティアヌス帝が哲学者をローマから追うと、ギリシア北西部のニコポリスに移って学校を開き、135 年ごろに亡くなるまで若者を教えたとみられます [1] 。足が不自由でしたが、その理由は関節の病とも、奴隷のときの虐待とも伝えられ、はっきりしません [1] 。 本人の著作は知られていません。教えは、弟子のアリアノスが講義を書き留めた『語録』(今は 4 巻が残る)と、その要点を短くまとめた手引き『提要(エンケイリディオン)』で伝わります [1] 。この課では、『提要』の書き出しにある一つの区別から出発して、判断と自由についての考えを読みます。 この課の問い 前の課のセネカは、皇帝ネロの側近として富と権力の中にいました。一方、ネロに仕えた役人の奴隷という身分から哲学者になった人もいます。体も身分も思いどおりにならなかったその人は、何があっても奪われない自由があると説きました。それは何で、どうすれば手に入るのでしょうか。 この課のことば 自分次第のもの({grc:ἐφ' ἡμῖν}) 自分の力の内にあるもの。判断・衝動・欲求・忌避のように、自分の心の働きで決まるものです。たとえば、ある知らせを「悪い知らせだ」と認めるかどうかは自分次第です。 自分次第でないもの 自分の働きでないもの。体・持ち物・評判・官職のように、他人や成り行きで変わるものです。自分の体も、病気になるかどうかを決められないので、こちらに入ります。 印象(ファンタシア) 物事が心に映ったときの「こう見える」という姿です。駅で人にぶつかられて「わざとだ」と見える、というのが一例です。認める前に吟味できます。 判断(ドグマ) 「これは悪い」「これは恐ろしい」という、物事についての考えです。エピクテトスは、人を乱すのは物事ではなく、この判断だと言います。 意志(プロアイレシス) 選び、決める力です。エピクテトスは、これこそが人の本当の自分で、生まれつき妨げられないものだと考えました。 自分次第のもの――何があっても奪われない自由はどこにあるか 前の課のセネカは、ストア派の「同意は自分の力の内にある」という考えを、怒りの手当てに生かしました。エピクテトスは同じ流れの中で、この考えを一つの鋭い区別に仕上げます。区別そのもの、判断の吟味、自由の順に読みましょう。 二つに分ける――自分次第のものと、そうでないもの 『提要』は、いきなり一つの区別から始まります。存在するものには、自分次第のものと、自分次第でないものがある、というのです。自分次第なのは判断・衝動・欲求・忌避で、ひとことで言えば自分の働きであるものです。自分次第でないのは体・持ち物・評判・官職で、自分の働きでないものです(『提要』1.1) [2] 。前者は生まれつき自由で妨げられず、後者は弱く、他人のものです(1.2) [2] 。 この表で分かること: 『提要』1.1 の例のうち、体も「自分の働きでない」側に入るのが要点です。 『提要』1.1 の例 区分 性質(1.2) 読み方(本教材) 判断 自分次第 自由・妨げられない 「悪い」と認めるかどうか 衝動 自分次第 自由・妨げられない 動こうと決めるかどうか 欲求・忌避 自分次第 自由・妨げられない 何を望み、何を避けるか 体 自分次第でない 弱い・他人のもの 病やけがは決められない 持ち物 自分次第でない 弱い・他人のもの 失われることがある 評判・官職 自分次第でない 弱い・他人のもの 他人の考えや任命で決まる 表 1 『提要』1.1–1.2 の区別 [2] 。右の列の言い換えは本教材によります。 目を引くのは、体が「自分次第でない」側に入ることです (表 1) 。体はいちばん身近なものですが、病気やけがは自分では決められません。線は「身近な自分の物か否か」ではなく、「自分の働きか否か」に引かれています [1] 。エピクテトスにとって本当の自分は、選び決める力である意志で、体の具合も持ち物も評判も「外のもの」です [1] 。善いのは意志のよいあり方だけで、外のものはそれ自体では善でも悪でもありません(『語録』1.8.16) [1] [3] 。 あるものは自分次第、あるものは違う 外の条件(自分次第でない) 風・波/手・舵・帆 思い通りに動くかどうか 自分次第:状況をどう判断し どう舵を取ろうと決めるか 本教材の作例。舵を取っても 思い通りに進むとは限らない 図 1 嵐の海で舵を取る船乗り(本教材の作例)。自分次第なのは、状況をどう判断し、どう舵を取ろうと決めるかだけです。風や波だけでなく、手・舵・帆や、船が思いどおりに動くかどうかも外の条件です。 嵐の海の船乗りで考えてみましょう (図 1) 。これは本教材の作例です。風向きや波の高さは選べません。それだけでなく、舵を握る手も、舵や帆も、船が思いどおりに動くかどうかも、外の条件に属します。手はしびれるかもしれず、舵は折れるかもしれません。自分次第なのは、状況をどう判断し、どう舵を取ろうと決めるか、という所だけです。『語録』にも航海のたとえがあります。船長や船員、出航の日を選ぶまでは自分の仕事でも、嵐が来れば自分の手を離れる、という話です(2.5.10–13) [3] 。図では、その役割を船乗りに変えています。 それでも、外のものを放り出せという話ではありません。外のものは意志が扱う材料で、材料はどちらでもないが、その使い方はどちらでもないことではない、とエピクテトスは言います(『語録』2.5.1) [1] [3] 。 ここで間違えやすい 「自分次第でないものは気にしなくてよい」を、体や仕事をなげやりにしてよいと取るのは誤りです。外のものも注意深く使えと、エピクテトスは言います(『語録』2.5.6) [1] 。避けるべきなのは、それが手に入るかどうかに、自分の善し悪しと心の平静を懸けることです。 人を乱すのは判断――「おまえは印象にすぎない」 『提要』5 は、こう述べます。人を乱すのは物事ではなく、物事についての判断(ドグマタ)だ、というのです。死が恐ろしいのなら、ソクラテスにもそう見えたはずです。恐ろしいのは、死は恐ろしいという判断のほうなのです [2] 。人は動物と違い、心に映った印象をそのまま認めず、本当か偽りかを確かめてから同意できます(『語録』1.6) [1] 。 だから、つらい印象が来たら、まず「おまえは印象であって、見えているものそのものではない」と言え、と『提要』1.5 は勧めます [2] 。次に一つ目の区別で調べ、それが自分次第でないものなら「私には関わりがない」と答えます。『語録』には「印象よ、少し待て。おまえが何で、何を表しているのか見せてみよ」という言い方もあります(2.18.24) [1] [3] 。同意の前に間を取る練習です。 「ひどいことだ」と判断する なんてひどい。 大事な物を失った 割れた土の器 心が乱れる 印象を吟味する おまえは印象だ。 割れる物だと知っていた 割れた土の器 落ち着き、少し寂しい 図 2 同じく土の器が割れた二つの場面(『提要』3 をもとにした本教材の作例)。一つ目の絵の人は「ひどいことだ」と判断して崩れ、二つ目の絵の人は、割れる物を好きだったのだと吟味して落ち着いています。出来事は同じで、分かれたのは判断です。 『提要』3 には器の例があります。土の器が好きなら、「私は土の器が好きなのだ」と言い聞かせておけば、割れても乱れない、というのです [2] 。『語録』3.24 でも、ガラスの杯は割れるものだと知って愛でよ、という趣旨が語られます [1] [3] 。図2の二枚は、この例をもとにした本教材の作例です (図 2) 。一つ目の絵の人は「ひどいことだ」と判断して崩れ、二つ目の絵の人は、割れる物を好きだったのだと吟味して片づけに向かいます。出来事は同じで、分かれたのは判断です。 ここで間違えやすい 判断を正すことを、何も感じない石の像になることだと取るのは誤りです。エピクテトスは、像のように無感覚であれとは言いません(『語録』3.2.4) [1] 。ゲッリウスが伝える断片では、賢い人でも急な危険に一瞬震え、青ざめることはあるが、それを恐ろしい悪だとは認めないとされます(断片 9) [1] [3] 。二つ目の絵の人が少し寂しげなのは、そのためです。 自由は望み方にある――奴隷の身を経た教師 『提要』1.3 は、区別を正しく守る人について、誰もその人を強いず、妨げず、その人は誰も責めず、敵も持たないと言います [2] 。逆に、外のものを望む人は、それを左右できる人に従うしかありません。自由でありたいなら、他人次第のものを望まず、避けもするな、と『提要』14 は言います [2] 。意志は生まれつき妨げられないものです(『語録』1.17.21) [3] 。足を鎖でつなぐことはできても、ゼウスでさえ私の意志には勝てない、という趣旨も語られます(1.1.23) [1] [3] 。 50 年代 小アジアのヒエラポリスに 生まれる 時期は不明 ローマでエパフロディトスの 奴隷となる 時期は不明 ムソニウス・ルフスに学び、 のち自由の身に 89 年ごろ 哲学者追放令でローマを 離れたとみられる その後 ニコポリスに学校を開き、 教え続ける 108 年ごろ 『語録』に残る講義の時期とする 説 135 年ごろ ニコポリスで亡くなる 図 3 エピクテトスの生涯。年の多くは推定です [1] 。ローマに来た時期は、68 年より前か 81 年より後かで分かれ、はっきりしません。 この言葉を語ったのは、奴隷の身を経た人でした (図 3) 。足が不自由だったことには、いくつかの伝えがあります。SEP は関節の病と虐待の二説を挙げ、病気によるとするスーダなどの別の伝えもあります [1] [4] 。主人に足をねじられても騒がず、折れると落ち着いてそれを指摘した、という有名な話は、オリゲネスが伝えるケルソスの言葉で、後代の逸話です [4] 。本人の言葉と、のちの伝えは分けて読みましょう。 自分次第のものは、自分で手を打てます。エピクテトスは、鼻水が出ないようにと神に祈る人に、それより拭け、手を与えられているではないか、と言います(『語録』2.16.13) [3] 。 ここで間違えやすい ここでの自由は、意志が害されないという倫理の自由で、体に害が及ばない保証ではありません。また、今の人の病気や障害や被害を、本人の判断のせいにする一般論に広げるのも誤りです。エピクテトスが語ったのは、境遇がどうであれ、自分が何を望み何を判断するかは奪われない、ということです。 原典を読む 一つ目の節で見た区別を、『提要』の書き出しで読みます。原文はギリシア語で、本教材が訳しました。 エピクテトス『提要』1.1–1.3 あるものは私たち次第であり、あるものはそうでない 『提要』の最初の数行が、全体の骨組みになっています。 1 あるもののうち、あるものは私たち次第であり、あるものは私たち次第でない。 2 私たち次第なのは、判断、衝動、欲求、忌避であり、ひとことで言えば、私たち自身の働きであるものすべてである。 3 私たち次第でないのは、体、持ち物、評判、官職であり、ひとことで言えば、私たち自身の働きでないものすべてである。 4 そして私たち次第のものは、生まれつき自由で、妨げられず、邪魔されない。私たち次第でないものは、弱く、奴隷のようで、妨げられ、他人のものである。 5 だから覚えておけ。生まれつき奴隷のようなものを自由だと思い、他人のものを自分のものだと思うなら、君は妨げられ、嘆き、心を乱され、神々をも人々をも責めるだろう。 6 だが、君のものだけを君のものだと思い、他人のものを、そのとおり他人のものだと思うなら、誰も君を強いることは決してなく、誰も君を妨げず、君は誰も責めず、誰をも訴えず、意に反して何一つせず、誰も君を害さず、君は敵を持たないだろう。害になることを何一つ被らないのだから。 τῶν ὄντων τὰ μέν ἐστιν ἐφ' ἡμῖν, τὰ δὲ οὐκ ἐφ' ἡμῖν. ἐφ' ἡμῖν μὲν ὑπόληψις, ὁρμή, ὄρεξις, ἔκκλισις καὶ ἑνὶ λόγῳ ὅσα ἡμέτερα ἔργα· οὐκ ἐφ' ἡμῖν δὲ τὸ σῶμα, ἡ κτῆσις, δόξαι, ἀρχαὶ καὶ ἑνὶ λόγῳ ὅσα οὐχ ἡμέτερα ἔργα. καὶ τὰ μὲν ἐφ' ἡμῖν ἐστι φύσει ἐλεύθερα, ἀκώλυτα, ἀπαραπόδιστα, τὰ δὲ οὐκ ἐφ' ἡμῖν ἀσθενῆ, δοῦλα, κωλυτά, ἀλλότρια. μέμνησο οὖν, ὅτι, ἐὰν τὰ φύσει δοῦλα ἐλεύθερα οἰηθῇς καὶ τὰ ἀλλότρια ἴδια, ἐμποδισθήσῃ, πενθήσεις, ταραχθήσῃ, μέμψῃ καὶ θεοὺ