ヘーゲル――意識は経験を通して自らを高めていく(精神現象学・弁証法) — Epoché
近代 ドイツ観念論 約 18 分 本文 約 7,300 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 全体・経験・否定の 3 つ 全体 真なるものは全体である。蕾が花に、花が実に取って代わられるように、知の形は互いを打ち消しながら、一つの生きた全体の段階になる(『精神現象学』序文)。 経験 意識は自分の中に尺度を持ち、自分の知と対象とを比べる。ずれに気づくと、知だけでなく対象も尺度も変わり、新しい対象が生まれる。この弁証法的な動きを、ヘーゲルは経験と呼ぶ(序論)。 否定 崩れた形は空しい無になるのではなく、何が崩れたかを中身に持つ限定された否定として、次の形に止揚される(序論 §79)。ただし、これを「正・反・合」の型で読むのは、ヘーゲルの議論の多くに合わない。 はじめに ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770〜1831)は、シュトゥットガルトに生まれました。テュービンゲンで哲学と神学を学び、のちの詩人ヘルダーリンや、この編で読んだシェリングと友になります [1] 。1800 年ごろから、カントが始めフィヒテが進めた批判哲学の問題へ向かいました [1] 。 1801 年にシェリングのいるイェーナへ移り、最初の哲学書『フィヒテとシェリングの哲学体系の差異』を出します [1] 。長い間、5 歳年下のシェリングの追随者と見られましたが、その評判を破ったのが『精神現象学』(1807 年)です [1] 。のちにベルリン大学の教授となり、ドイツの哲学界の中心に立ちました [1] 。 この課では、『精神現象学』の序文・序論と、感覚的確信から悟性までの歩みを読みます。主人と奴隷の場面は次の課です。 この課の問い フィヒテは自我から、シェリングは自然と精神の同一から、知の確かな出発点を立てようとしました。では、出発点を先に決めずに、何が本当に知ることなのかを確かめることはできるでしょうか。外から持ち込む物差しがないなら、知は何によって試されるのでしょうか。 この課のことば 精神現象学 ふだんの意識が、知ることのいくつもの形を通り抜けて、哲学の立場にまで育っていく道筋を描いた書(1807 年)。哲学そのものというより、読者をそこへ導く入口として書かれました。 意識の形(形態) 「何が確かに知られるのか」の基準を一つ持った、知のあり方。感覚的確信・知覚・悟性などが順に現れ、どれも自分の基準を確かめようとして崩れます。 尺度 知が正しいかを測る物差し。ヘーゲルは、意識は自分の中に自分の尺度を持っている、だから外から物差しを持ち込まなくてよい、と考えます。 経験 意識が自分の知と対象を比べ、ずれに気づいて、知だけでなく対象の見え方まで変わり、新しい対象が生まれてくる動き。ふつうの「経験」より広い意味です。 限定された否定 崩れた結果を、からっぽの無ではなく、「何が崩れたか」を中身に持つ否定として受けとること。規定的否定とも訳されます。 止揚 ドイツ語 aufheben の訳。打ち消すと同時に保つ、という二つの意味を持ちます。前の段は捨てられるのでなく、後の段の中で働き続けます。 精神現象学と弁証法――意識は自分で自分を試し、どう高まっていくのか この編のフィヒテとシェリングの課で見たように、二人は知の確かな出発点を、自我や絶対者としてはじめに据えました。ヘーゲルは『精神現象学』で、出発点を先に決めません。ふだんの意識が自分を確かめては崩れ、次の形へ移っていく道筋を、そのままたどります。この本は、主人公が失敗から学んで育つ教養小説にたとえられてきました [1] 。この章では、序文の「真なるものは全体」、序論の尺度と経験、感覚的確信から悟性までの歩みを、順に読みます。 真なるものは全体――蕾も花も実も、植物の真の姿の一部 『精神現象学』の序文は、ふつうの本の序文と違い、序文で結論を述べても役に立たない、という話から始まります。哲学の書物の目的や結果だけを並べても、事柄そのものは伝わりません。大事なのは、結果に至るまでの展開の全体だ、とヘーゲルは言います [2] 。 その考えを示すのが、蕾・花・実のたとえです (図 1) 。蕾は、花が開くと消えます。花は、実が成ると、植物の偽りの姿だったと言われます。三つは互いを押しのけ合い、両立しません。けれども植物という一つの生き物から見れば、どの段階も欠かせず、どれも同じように必要です [2] 。ヘーゲルはこれを、哲学の説どうしの争いに当てはめます。違う体系を、一方が正しく他方が誤りという矛盾としてだけ見るのは、真理が進んでいく段階を見落とすことだ、というのです [2] 。 真なるものは全体である 春の初め 春 夏 打ち消す 打ち消す 蕾 花 実 一つの木の生涯(全体) 蕾・花・実は本人の例。絵は本教材 図 1 序文の蕾・花・実のたとえを絵にしたものです(本教材の絵)。どの段階も前の段階を打ち消しますが、三つとも同じ一本の木の生涯に欠かせません。真なるものは、その移り変わりの全体です。 そこから、序文の名高い一文が出てきます。「真なるものは全体である」。全体とは、はじめから出来上がって置かれているものではありません。自分を展開し、終わりに至って本当の姿になるものです [2] 。だから真理は、最初に一言で言える命題としては示せません。『精神現象学』が答えを先に掲げず、意識の歩む道のりをたどる形で書かれたのは、このためです [1] 。 ヘーゲルは同じ序文で、真なるものを、動かない土台(実体)としてだけでなく、自分を動かし展開していくもの( 主体 )としても捉えることが肝心だ、と言います [2] 。この言葉を、神が自分を現し知っていく話として神学的に読むかどうかは、研究者の間で分かれます [1] 。 反対にヘーゲルが退けるのは、区別をすべて消して「絶対者の中ではすべてが一つだ」と言うだけの哲学です。それは、すべての牛が黒く見える夜のようなもので、何も見分けられない、とヘーゲルは皮肉ります [2] 。シェリングは序文の辛辣な一節を自分への批判と受けとり、二人の友情は途切れました [1] 。このたとえがシェリングを指すと読まれることは多いのですが、序文は名を挙げていません。 ここで間違えやすい 「真なるものは全体」を、「どの意見にも一理あり、最後は丸く収まる」という意味に取らないようにしましょう。ヘーゲルが言うのは、前の段階が後の段階によって本当に打ち消されながら、全体の中で欠かせない段階として残る、ということです。どの段階も、そのまま正しいわけではありません。 尺度と経験――意識は自分の物差しで自分を測り、物差しごと変わる では、外から物差しを持ち込まずに、どう知を調べるのでしょうか。ヘーゲルの答えは、ふだんの意識がたどる道を、そのまま見ていくことです。ふだんの意識は、自分の知をそのまま本物だと思っています。その知が本物でないと分かっていくのは、意識にとっては自分の真理を失っていくことです。SEP は、どの意識の形も、自分の中から生まれる一種の懐疑によって崩れていく、と整理します [1] 。ただしそれは、疑えない土台を探すデカルトの懐疑とは違い、思考を次の段へ進める古代の懐疑に近いものです [1] 。 意識は、何かを知っていると同時に、それが自分の知とは別に、それ自体としてあるとも考えています。月を見る人は、月を見ているという自分の知と、そこにある月そのものとを分けています。この「それ自体としてあるもの」が、意識にとっての真、つまり知を測る 尺度 になります [2] 。比べる二つがどちらも意識の中にそろっているので、比べるのは意識自身です。だから私たちは、外から物差しを持ち込まずに、ただ見ていればよいのです [2] (図 2) 。 ① 意識の知 意識は、対象を何かとして知っている ② 尺度 意識にとって、それ自体としてある 対象。知を測る物差し ③ 比べる 比べるのは意識自身。外から物差しを 持ち込まない ④ ずれに気づく 知が対象に合わない。知を改めると、 対象も尺度も変わる ⑤ 経験 古い対象の正体を知った、新しい真の 対象が生まれる 道の終わり 絶対知。何を意味するかは解釈が 分かれる 図 2 序論の尺度と経験の考えを、一つの流れにしたものです(本教材の整理)。⑤で生まれた新しい対象は、次の意識の形で再び①〜④の試験を受けます。点線の段は、道の終わりにまだ先にある立場です。 比べてみて、知が対象に合わないと分かったとします。意識は知を改めます。ところが、その対象は、前の知にとっての対象でした。知が変わると、対象も同じままではいられません。こうして試験は、知を試すだけでなく、知を測っていた尺度まで試すことになります [2] 。この箇所は、原典を読む章でドイツ語から読みます。 教材の作例で考えてみましょう。小さな子が「月はぼくについてくる」と信じています。ところが、反対の方へ歩く友だちも「月はわたしについてくる」と言います。二人に同時についてくることはできません。そのとき変わるのは考えだけではありません。「ついてくる月」はもう無く、目の前にあるのは「とても遠いので、どこから見ても同じ方に見える月」です。子の物差しも、「見えるとおりが本当」から、「見る人が変わっても成り立つことが本当」へと変わっています。 古い対象がそれ自体ではなかったと分かると、そこから新しい真の対象が意識に生まれてきます。ヘーゲルは、この弁証法的な運動こそ、本来の 経験 だと言います [2] 。ふつう経験というと、外で偶然出会った事実で考えを正すことを思い浮かべます。ヘーゲルの経験では、新しい対象は、意識が自分の知と対象について行う動きの中から生まれます。この道を見守る「私たち」を、SEP は読者でもある「現象学的な私たち」と呼んでいます [1] 。 ここで間違えやすい ここでの「経験」を、観察や実験で外の事実を一つずつ集めることだと取らないようにしましょう。ヘーゲルの経験は、意識が自分の知と対象を比べて、知も対象も尺度も変わる動きです。崩れることは悲観の勧めではなく、次の形が生まれることと一つになっています。 意識の歩みと弁証法――「今は夜」と書いた紙は、昼には何を語るか 『精神現象学』の第 1 章から第 3 章は、意識の形が一つずつ現れては崩れる歩みです (表 1) 。最初の形は 感覚的確信 です。意識は、考えを交えずに今ここで受けとる「これ」こそ、いちばん確かな知だと思っています [1] 。 ヘーゲルはこの確信に、簡単な試験をさせます。夜に「今は夜である」と紙に書きとめます。書いても、真理は失われないはずです。ところが翌日の昼に読み返すと、この真理は気が抜けています [2] (図 3) 。残るのは、夜でも昼でもありうる一般的な「今」です。直接に受けとったつもりの中身も、実は概念に 媒介されている のだ、というのがこの章の教えだと SEP は整理します(§91) [1] 。 夜:「今」を書きとめる 真である 今は夜である 翌日の昼:同じ紙を読む 今 今は夜である 気が抜けた 紙と夜・昼は本人の例。絵は本教材 図 3 感覚的確信の章の「今は夜である」の例を絵にしたものです(本教材の絵)。一つ目の絵では、夜に書いた紙の言葉は真です。二つ目の絵では、翌日の昼に同じ紙を読むと、その言葉は気が抜けています。残るのは、夜にも昼にも使える一般的な「今」です。 そこで意識は、一般的なものを真とする 知覚 に移ります。知覚が真とするのは「多くの性質を持つ物」です(§112) [1] 。ヘーゲルは、白く、からく、立方体の形をした塩を例にします [2] 。ところが、物を性質の束と見るか、性質を担う土台と見るかで、意識は矛盾に行き当たります [1] 。そこから、現れの背後に力や法則を立てる悟性が現れます。SEP は、悟性を科学的な知に重ねています [1] 。 この表で分かること: 意識の形は、それぞれ「何が真か」の基準を持ち、それを確かめようとして自分でつまずきます。つまずきの中身が、次の形の基準になります。 意識の形 真とするもの どこでつまずくか 次に残すもの 感覚的確信(第 1 章) 目の前の「この、今、ここ」 言うと一般的なものになる 一般的なものが真 知覚(第 2 章) 多くの性質を持つ物 一つの物か、性質の束か 現れの背後の統一 悟性(第 3 章) 現れの背後の力と法則 背後に見たのは自分の働き 対象の中に自分を見る 自己意識(第 4 章) 自分自身の確信 次の課で読む (次の課へ) 表 1 『精神現象学』第 1〜4 章の意識の形(本教材の整理)。歩みの筋は SEP の整理によります [1] 。 この歩みを動かすのが、 限定された否定 です。崩れた結果に空しい無しか見ないのは、懐疑の一面だけを見ることです。結果を、それが出てきたものの否定として受けとれば、そこには中身があり、新しい形がすぐに生まれる、とヘーゲルは言います(序論 §79) [3] 。前の形自身の一面性が次の形を生むので、新しい考えを外から持ち込む必要はありません [3] 。 前の形は、捨てられるのではありません。ドイツ語の aufheben は「打ち消す」と「保つ」の二つの意味を同時に持つ、とヘーゲルは言い(§113)、この語を方法の要に置きます [3] 。日本語では 止揚 と訳されます。悟性の終わりで、意識は対象の背後に見ていたものが自分自身でもあると気づき、自己意識へと移ります [1] 。その先の場面は、次の課で読みます。 ここで間違えやすい 弁証法を「正・反・合」の三拍子の型だと覚えないようにしましょう。教科書でよく使われる型ですが、SEP によれば、ヘーゲルの議論の多くの移り行きはこの型に合わず、古くから批判があります [3] 。対立する意見の中間をとる妥協でもありません。ある形が、それ自身の一面性から崩れて次の形へ移ることです。 解釈の注意:道の終わりの「絶対知」 『精神現象学』の道は、ヘーゲルが 絶対知 と呼ぶ立場で終わり、そこから本来の哲学が始まります [1] 。伝統的な読みは、これを西洋の文明の成長と、神が自分を現し知る物語とを重ねたものと見て、ヘーゲルがカント以前の形而上学に戻ったと考えます。一方、カント以後の哲学として読む研究者(たとえばピンカード)は、どんな主張も理由を問われ、正され得る社会の成り立ち