55年体制――自民党の長期政権 — Epoché
国際と日本 日本の政治 約 24 分 本文 約 10,100 字 図 5・表 2 資料 1 節 この課の要点 成立・仕組み・終わりの 3 つ 成立 講和の後、保守は吉田派と反吉田派に割れていました。1955年10月の社会党の統一に続き、11月に日本民主党と自由党が合併して自民党ができました 仕組み 中選挙区制では、過半数を目指す党は同じ選挙区に何人も候補を立てます。自民党は1958〜1990年の各回で第1党を保ち、党内は派閥・後援会・族議員で候補者を分けました 終わり 1993年に内閣不信任案が可決され、総選挙で自民党は第1党ながら過半数に届かず、8党会派の細川内閣が成立しました。翌年に選挙制度が改められました はじめに 1955年11月15日、二つの保守政党が合併して自由民主党が生まれました [1] 。そのひと月前の10月13日には、左右に分かれていた日本社会党が再び一つになっていました [1] 。国立国会図書館の解説は、こうしてできた自民党と社会党の向かい合う形を「二大政党対立の図式(いわゆる55年体制)」と呼んでいます [1] 。 自民党はその後、1993年8月9日に細川護熙を首相とする内閣が成立するまで、内閣を手放しませんでした [7] 。結党から数えると、本教材の計算でおよそ38年です。その間も衆議院の総選挙は数年ごとに行われ、野党もありました。選挙のたびに政権が代わりうる仕組みの中で、なぜ一つの党だけが内閣をつくり続けたのでしょうか。 この課程の『敗戦と占領』の課では、日本国憲法の下で国会が国権の最高機関となり、首相を国会が指名する仕組みができたことを見ました。この課は、その仕組みが実際にどう動いたのかを、1955年から1993年までの政党の歩みで確かめます。 順番は四つです。まず、自民党ができるまでの背景を見ます。次に、衆議院の選挙の仕組み(中選挙区制)と、選挙ごとの議席の数を見ます。三つ目に、自民党の中で働いた派閥・後援会・族議員という担い手を見ます。最後に、1993年に自民党が政権を離れた経緯と、その後に残ったものを見ます。資料の章では、13回の総選挙の党派別の当選者数をグラフで読みます。 この課の問い 選挙で政権が代わりうる仕組みの中で、なぜ自民党だけが38年近く内閣をつくり続けられたのでしょうか。その形は、なぜ1993年に崩れたのでしょうか。 この課のことば 55年体制 1955年にできた、自民党と社会党が向かい合う政治の形の呼び名です。この課では、自民党を中心とする政権が続いた1993年までの時期(1983〜86年は新自由クラブとの連立)を指して使います 保守合同 保守系の政党どうしが一つにまとまることです。ここでは1955年の日本民主党と自由党の合併を指します 中選挙区制 1つの選挙区から主に3〜5人を選ぶ、1993年まで衆議院で使われた選挙の仕組みです。有権者は候補者1人の名前を書きます 派閥 党の中の、有力な政治家を中心にした議員の集まりです。部活の中の仲良しグループに似ていますが、選挙の公認やお金、役職の世話までしました 後援会 特定の政治家を応援する人々の集まりです。地域や団体ごとに支持者をまとめ、選挙で票を固めます 族議員 農業や建設など、特定の政策分野に詳しく人脈を持ち、その分野の政策に強い影響を持つ議員のことです 55年体制――一つの党が38年近く政権を担えたのはなぜか この章では、自民党の長い政権を四つの面から見ます。どのように生まれたか、どんな選挙の仕組みの中で議席を得たか、党の中で誰がどう動いたか、そしてなぜ終わったかです。 あらかじめ断っておくと、長く政権が続いた理由を一つに決めることはできません。ここでは、史料の解説・統計・研究者の説明から確かめられることと、そこから本教材が推し量ることを分けて書きます。 背景――占領の終わりと、保守・革新の組み直し 自民党の誕生は、占領の終わりとともに始まった政界の組み直しの結果でした。1951年9月の講和条約の締結を前に、鳩山一郎ら有力な政治家の公職追放が解かれ、吉田茂に反対する勢力が集まる動きが強まりました [1] 。同じ1951年、日本社会党は講和条約と日米安保条約をめぐって左右に分裂しました [1] 。保守も革新も、一つにまとまっていなかったのです。 保守の側の対立は、与党の中の争いとして表に出ました。当時の与党は、吉田茂が率いる自由党でした [1] 。吉田首相は1952年8月28日、反吉田派の準備が整わないうちに衆議院を解散しました(「抜き打ち解散」) [1] 。翌1953年には、吉田の「バカヤロー」発言をきっかけに出された内閣不信任案が、分党派自由党をつくった反吉田派22名の賛成で3月14日に可決され、衆議院は解散されました [1] 。与党の一部が野党と組んで自分の党の内閣を倒したことになります。 1954年には、造船疑獄事件で与党自由党の幹部に捜査が及びました。4月に法務大臣の指揮権が発動されて逮捕は中止されましたが [1] 、吉田政権への批判は強まりました。11月には反吉田系の保守新党として日本民主党が結成され、鳩山が総裁になりました [1] 。12月6日、日本民主党は左右の社会党とともに内閣不信任決議案を出し、吉田は解散をあきらめて翌日に総辞職しました。10日には日本民主党だけの鳩山内閣が成立しました [1] [7] 。 1951年 講和を前に鳩山らの追放解除。 社会党が左右に分裂 1952年 吉田首相が「抜き打ち解散」 1953年 不信任案が可決され 「バカヤロー解散」 1954年11月 反吉田系の日本民主党が結成、 総裁は鳩山 1954年12月 吉田内閣が総辞職し、鳩山内閣が 成立 1955年2月 総選挙。民主党は第一党だが 過半数に遠い 1955年10月 社会党が再び合同 1955年11月 日本民主党と自由党が 合併し自民党が結成 図 1 講和から自民党の結成までの年表です。強調したのは、社会党の統一と自民党の結成です。 鳩山首相は1955年1月24日に衆議院を解散し、2月27日に総選挙が行われました [3] 。日本民主党は第一党になりましたが、過半数には遠く及びませんでした [1] 。少数の与党は、法律や予算を通すたびに他の党の賛成を集めなければなりません。そのうえ、左派社会党の伸びと、社会党の左右合同の動きがありました。国立国会図書館の解説によれば、これを受けて経済界などからも保守合同を期待する声が高まり、4月には民主党の三木武吉が保守合同に積極的な考えを表明しました [1] 。 1955年10月13日、社会党は党大会で再び合同しました [1] 。続いて11月15日、日本民主党と自由党が合併して自由民主党の結成大会が開かれました [1] 。 (図 2) は、この合同の形を示します。 1955年2月の総選挙の後 第一党の日本民主党も過半数に 遠く及ばない 日本民主党 1954年11月に 反吉田系の新党と して結成。総裁は 鳩山一郎 自由党 吉田茂が率いた党。 1954年12月まで 政権を担った 自由民主党 1955年11月15日に結成。総裁は 決めず、翌年4月に鳩山を選ぶ 図 2 1955年の保守合同の形です(本教材の整理)。上の総選挙の結果から、二つの保守政党が下の自民党へ合流しました。 結成の時点で、自民党は一枚岩ではありませんでした。結成大会では総裁を決めずに4人の総裁代行委員を選び、鳩山を総裁に選んだのは翌年4月のことです [1] 。吉田茂は結成の当日、新党には当面参加しないと腹心に書き送り、入党したのは1956年2月1日でした [1] 。本教材の見方では、自民党は対立していた複数の集まりが一つの看板の下に入った党として出発しました。この点は、後で見る派閥を考える手がかりになります。 ここで間違えやすい 「55年体制」は、1955年に法律や憲法で決められた制度だと思われがちです。実際には、社会党の統一と保守合同によってできた政党の配置を、後から呼んだ名前です。条文があるわけではありません。 仕組み――中選挙区制と、議席の数で見た自民党 55年体制の時期、衆議院の選挙は中選挙区制で行われました。上神貴佳の説明では、この制度は「単記非委譲投票制(SNTV)」の一種で、日本では一つの選挙区から主に3〜5人を選ぶ形でした。最後に使われた1993年の総選挙では、全国の選挙区から合わせて511人が選ばれました [5] 。有権者は候補者の中から一人に投票し、候補者は得票の多い順に議席を得ます [5] 。 この仕組みでは、一つの選挙区から複数の議員が選ばれるので、過半数の議席を目指す政党は同じ選挙区に何人も候補者を立てなければなりませんでした [5] 。逆に言えば、各選挙区に一人ずつしか候補を立てない党は、全員が当選しても議席は選挙区の数までで、過半数には届きません。これは本教材の推論ですが、議席の数を読むときの手がかりになります。 では、実際の議席を見てみましょう。1958年の総選挙では、当選者の総数467のうち、自民党は287、社会党は166でした [2] 。「二大政党対立」と呼ばれても、本教材の計算では自民党は社会党の約1.7倍の議席を得ており、二つの党は対等ではありませんでした。 野党の側は、その後いくつもの党に分かれていきます。1959年10月、日米安保条約の改定などをめぐる党内の対立から社会党の右派が離党し、1960年1月24日に民主社会党(のちの民社党)を結成しました [1] 。1960年の総選挙では民主社会党が17議席を得ています [2] 。1967年には公明党が25 [2] 、1969年には47の当選者を出し [2] 、1972年には共産党が38を得ました [2] 。1976年には新自由クラブが17を得ています [2] 。本教材の整理では、自民党に対する野党の議席は、時を追うにつれて複数の党に分かれていきました。 一方で、自民党がいつも単独で過半数の当選者を出したわけではありません (表 1) 。過半数に要る数を総数から計算すると、総数511なら256、512なら257です。1976年の自民党の当選者は249 [2] 、1979年は248 [2] 、1983年は250で [2] 、いずれも選挙直後の当選者数では過半数に届いていません。それでも当選者数で比べると、1958年から1990年までの各回で、自民党は最も多くの当選者を出した党でした。なお、この表は選挙直後の数なので、その後に無所属の当選者が入党したかどうかなどは、この表だけでは分かりません。 この表で分かること: 当選者数で見ると、自民党が過半数に届かなかった回がある 総選挙 当選者の総数 自民党の当選者 過半数に要る数 1958年(第28回) 467 287 234 1976年(第34回) 511 249 256 1986年(第38回) 512 300 257 1993年(第40回) 511 223 256 表 1 総務省統計局「日本の長期統計系列」表27-8-a による選挙直後の当選者数です [2] 。過半数に要る数は、総数の半分を超える最小の整数として本教材が計算しました。 選挙の行われ方にも特徴があります。衆議院の一覧表で1958年から1993年までの13回の総選挙を見ると、議員の任期満了によるものは1976年12月5日の第34回だけでした [3] 。残りの12回は、いずれも衆議院の解散による総選挙です。 この時期の政治は、対立がなかったわけではありません。1960年5月19日、与党は警官隊を入れて会期の延長を可決し、翌20日未明に新しい日米安保条約を衆議院で承認しました [1] 。条約は6月19日に自然成立し、翌月に岸内閣は退陣して池田勇人内閣が成立しました [1] 。国立国会図書館の解説によれば、池田内閣は所得倍増論を打ち出して、政策目標を政治から経済へ移していきました [1] 。同じ年の11月の総選挙で、自民党は296の当選者を出しています [2] 。ただし、二つの出来事が近い時期に起きたことから、政策の転換が議席の理由だったとまでは言えません。 ここで間違えやすい 「自民党は55年体制の間ずっと、選挙で単独過半数を取っていた」と考えがちです。当選者数で見ると、1976・79・83年には過半数に届いていません。第1党であることと、過半数を持つことは別のことです。 担い手――綱領と、派閥・後援会・族議員 自民党は結党の時、綱領で「民主主義の理念を基調として諸般の制度、機構を刷新改善し、文化的民主国家の完成を期する」と掲げました [4] 。党の政綱には、平和主義・民主主義・基本的人権尊重の原則を守りながら「現行憲法の自主的改正をはかり」、占領期の法制度を見直すことも書かれています [4] 。憲法の改正をどう考えるかは、当時も今も立場が分かれる争点です。ここでは自民党がそれを掲げたという事実を確かめるにとどめます。 党の中には、意見の違う集まりが並んでいました。1956年の日ソ交渉では、党内の旧吉田派が早期の妥結に反対し、鳩山首相のソ連訪問にも反対の声をあげました [1] 。同じ年の12月14日の総裁選挙は決選投票となり、石橋湛山が岸信介を破りました [1] 。1958年の警察官職務執行法の改正案では、自民党の中からも廃案を求める声が上がり、自民・社会両党の党首会談で審議未了となりました [1] 。 こうした党内の集まりのうち、最もよく知られるのが派閥です。上神貴佳の説明によれば、自民党は何人かの指導的な政治家を中心とする議員の集団、すなわち派閥に分かれており、派閥の存在理由の一つは中選挙区制にありました [5] 。同じ選挙区で争う自民党の候補者は、それぞれ派閥のリーダーから支援を受けました。リーダーは候補者のために党の公認を取り、政治資金や役職の世話をする代わりに、総裁選挙では支持を求めました [5] 。かつての総裁選びは派閥を中心とするものでした [5] 。 派閥のリーダー 候補者のために公認を取り、 政治資金や役職を世話する 支援 自民党の候補者 同じ選挙区の自民党の別の 候補と競い、票を割る 当選を重ねる議員 大臣には当選5回が必要と され、配置は派閥の推薦による 見返り 総裁選挙 議員は自分の派閥のリーダーを 支持する 役職と 資金の 配分へ 図 3 中選挙区制の時期の、派閥