エピクロス――よい生とは心の平静である(快楽主義・アタラクシア) — Epoché
古代 ヘレニズムとローマの哲学 約 17 分 本文 約 7,000 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 快楽・欲求・死の 3 つ 快楽 快楽がよい生の目的だが、それは放蕩者のぜいたくではなく、「体が苦しまず、魂が乱れないこと」である(『メノイケウス宛ての手紙』10.131)。満ち足りた状態の「静的な快」がいちばん上の快とされるが、動的な快との区別の細部には解釈の争いがある。 欲求 欲求には、自然で必要なもの、自然だが必要でないもの、空しい思い込みから生まれる空しいものがある(10.127。例は『主要教説』29 の古注などによる)。自然なものは手に入れやすく、パンと水も飢えた人には最高の快を与える(10.130–131)。 死 善いことも悪いことも感覚の中にあり、死は感覚がなくなることだから、「死は私たちにとって何ものでもない」(10.124–125)。魂も原子からなり、体が壊れると散って感覚を失う、という原子論(『ヘロドトス宛ての手紙』10.63–65)がこの論証を支える。 はじめに エピクロスは前 341 年ごろ、エーゲ海のサモス島で、アテナイ市民の子として生まれました。前 307/306 年ごろ、アテナイの町はずれに「庭園(ケーポス)」を開き、仲間と共に暮らしながら教えました。庭園はアカデメイアへ向かう道の辺りにあったとされますが、位置には異説もあります。 エピクロスは多くの本を書きましたが、ほとんどは失われました。まとまって読めるのは、3 世紀のディオゲネス・ラエルティオスが『哲学者列伝』第 10 巻に書き写した三通の手紙と、短い格言集『主要教説』です [1] 。別の写本には『ヴァチカン格言集』も伝わります。ただし『ピュトクレス宛ての手紙』には弟子の作ではないかという疑いがあり、格言集には近い弟子の言葉も混じります [1] 。この課で中心に読む『メノイケウス宛ての手紙』(10.122–135)は、倫理学の要約です [1] [2] 。135 の末の占いの話などは、手紙ではなく伝記作者の地の文です。 前の課では、町の真ん中で慣習と闘ったディオゲネスを読みました。その後のアテナイで、エピクロスは「快楽こそが目的だ」と説きます。ところがエピクロスが勧めたのは、パンと水で足りる暮らしでした。この課では、快楽とは何か、どの欲求を満たすべきか、死をどう考えるか、の三つを順に読みます。 この課の問い 人は快いことを求めて生きます。それなら、いちばんよい生とは、楽しみをできるだけ多く味わう生なのでしょうか。エピクロスは「快楽が目的だ」と言いながら、パンと水で足りる暮らしを勧め、死を恐れるなと説きました。快楽を求めることと、静かに満ち足りて生きることは、どうして一つになるのでしょうか。 この課のことば アタラクシア ギリシア語で「乱れのないこと」。不安や恐れで心がかき乱されていない、静かな状態です。 アポニア ギリシア語で「苦痛のないこと」。体に痛みや、飢え・渇きの苦しさがない状態です。 動的な快と静的な快 のどが渇いて水を飲んでいる途中の快が「動的」、渇きが消えて満ち足りた状態の快が「静的」です。この飲み水の例はキケロが伝えるもので、区別の細部には争いがあります。「静的」は、心や原子が止まるという意味ではありません。 空しい欲求 空しい思い込み(ケノドクシア)から生まれる欲求です。不死や限りない富のように、本当の必要に応えず、決して満たされません。 原子論 世界のすべては、それ以上分けられない小さな粒(原子)と、何もない空間(空虚)からできている、という考えです。レウキッポスとデモクリトスが展開し、エピクロスが受け継ぎました。 庭園(ケーポス) エピクロスがアテナイの町はずれに開いた学びの場です。仲間はここで友として共に暮らし、学派は「庭園の人々」と呼ばれました。 庭園の快楽主義――快楽を求めるのに、なぜ静かな生になるのか エピクロスは快楽をよい生の目的としました。ところが、その教えから出てくるのは、享楽の生ではなく、静かで簡素な生です。快楽の中身、欲求の見分け方、死の恐れの取り除き方の三つの節で、そのつながりを見ます。 快楽が目的――ただし「苦しまず、乱れない」こと 生き物は、生まれつき快に引かれ、苦痛を避けます。エピクロスは、何がよく何が悪いかを見分ける基本の手引きを、抽象的な原理ではなく、この快と苦痛の感覚に求めました [1] 。そのうえで、快楽を生の目的と言うとき、それは放蕩者の快楽ではなく、「体が苦しまず、魂が乱れないこと」だと手紙で断っています(『メノイケウス宛ての手紙』10.131) [2] 。体の苦痛のなさをアポニア、心の乱れのなさを アタラクシア と呼びます。目的が「〜がない」という否定の形で言われることが多いのは、このためです(10.128) [1] [2] 。 では、目の前の快はいつでも選ぶべきでしょうか。手紙の答えは否です。今の快が後に大きな苦しみを招くこともあれば、今の苦しみが後に大きな快をもたらすこともあります。だから、損と得を見比べる理性の計算で、どの快を選び、どの苦痛を引き受けるかを決めます(10.129–130) [2] 。酒宴やごちそうの卓は快い生を生まない、と手紙が言うのはこの意味です(10.132) [2] (図 1) 。食の楽しみをすべて禁じる文ではありません。 庭園:パンと水と友 心は静か(アタラクシア) 友 友 エピクロス 自然で必要な欲求を満たす 宴:酒とごちそう 心は乱れる(タラケー) その場の快の後に苦しみ 翌朝 頭痛 図 1 一つ目の絵は庭園の簡素な食卓、二つ目の絵はぜいたくな宴です(本教材の絵)。宴の様子は手紙 10.132 が挙げる酒宴とごちそうの卓により、二つ目の絵の隅の小さな枠は、同じ客の翌朝の場面です。 エピクロスは快を二つに分けて論じたと、ディオゲネス・ラエルティオスは伝えます(10.136) [2] 。キケロは、渇いた人が水を飲んでいる途中の快と、渇きが消えた後の満ち足りた状態の快を対比して、この区別を説明します(『善と悪の究極について』2.9–10) [3] 。前者が動的な快、後者が 静的な快 で、エピクロスは静的な快をいちばん上に置きました。ただし SEP は、動的な快を香りや音のような必要でない快と読む別の解釈を示し、区別の細部には争いがあるとします [1] 。 この考えは、キュレネ派の快楽説とぶつかります。キュレネ派は体の動きとしての個々の快を重んじ、苦痛がないだけの状態は快ではなく、快でも苦でもない中間だとみました(『哲学者列伝』2.86–90) [2] 。後のキケロも、この点を突いてエピクロスを批判しています [1] 。 ここで間違えやすい 「エピクロス主義=美食と享楽のすすめ」と取らないようにしましょう。手紙は、快楽とは酒宴やごちそうのことではないと、誤解する人々に向けてはっきり断っています(10.131–132) [2] 。また、快楽のために徳を軽んじたのでもありません。思慮深く、美しく、正しく生きることなしに快く生きることはできない、とも言っています(10.132) [2] 。 欲求の三つの分け方――パンと水で足りる暮らし エピクロスは欲求を三つに分けます。自然で必要な欲求、自然だが必要でない欲求、そして自然でも必要でもない 空しい欲求 です(10.127) [2] (図 2) 。ただし 10.127 が示すのは分け方だけです。具体的な例は、『主要教説』29(10.149)に付いた古い注や、不死への渇望に触れる 10.124 から補われます [2] 。SEP も同じ例を挙げます [1] 。 欲求 何を求めるかで三つに分かれる 自然で必要 飢えにパン、渇きに水。手に 入れやすく、満たせば静まる 自然だが必要でない おいしい料理や酒。後の苦痛を 増やさないなら楽しむ 空しい 不死・限りない富・名声。空しい 思い込みから生まれ、満たされない 図 2 欲求の三つの分け方です(10.127 の分類に、『主要教説』29 の古注などの例を添えた本教材の整理)。上から自然で必要・自然だが必要でない・空しい、の順に並び、下へ行くほど満たしにくくなります。 空しい欲求は、 空しい思い込み (ケノドクシア)から生まれます。不死は人間には手に入らず、富や名声も、本当に求めている安心を与えてくれません。だから空しい欲求は決して満たされず、人はそのために、避けたいはずの危険に自ら身をさらします。SEP は、これが文明の暮らしの乱れの主な源だとまとめます [1] 。 これに対して、自然なものは手に入れやすいのです。手紙によれば、簡素な食事も、欠乏の苦しみが消えれば、ぜいたくな食事と同じ快をもたらします。大麦のパン(マーザ)と水も、飢えた人には最高の快を与えます(10.130–131) [2] (表 1) 。また手紙は、いつも少ないもので暮らせと命じるのではなく、多くを持たないときに少ないもので足りるように、と言います(10.130) [2] 。 この表で分かること: 自然で必要な欲求は満たしやすく、空しい欲求は決して満たされません。間の欲求は、後の苦痛を増やさないなら楽しみます。 欲求 例 満たしやすさ どう扱うか 自然で必要 飢えにパン、渇きに水 手に入れやすい 損得を見比べたうえで満たす 自然だが必要でない おいしい料理や酒 ときに手に入る 後の苦痛を増やさないなら楽しむ 空しい 不死、限りない富、名声 決して満たされない 思い込みと見抜いて捨てる 表 1 分け方は 10.127、例は『主要教説』29 の古注と SEP の整理によります [1] [2] 。 少ないもので足りる人は、友と共に静かに暮らせます。エピクロスは友愛を重んじ、友愛はそれ自体として「選ぶべきもの」だと言いました(『ヴァチカン格言集』23)。この語は写本では「徳(卓越性)」と読め、本教材は校訂者ウーゼナーの読みに従います [1] 。また、快の限界を理性で測るなら、限りない時間と限りある時間は等しい快をもつ、とも言います(『主要教説』19) [1] 。こうして満ち足りた人の静かな快は、神々の幸福にも劣らないとされました(10.135) [2] 。 ここで間違えやすい 欲求の分け方を、「欲を全部捨てよ」という禁欲の教えと取らないようにしましょう。自然で必要な欲求はきちんと満たし、必要でない快も、後の苦痛を増やさないなら楽しんでかまいません(10.129–130) [2] 。避けるのは、満たされることのない空しい欲求です。また「神々に劣らない」は、不死まで手に入るという意味ではありません。 死は私たちにとって何ものでもない――原子論に支えられた論証 「死は私たちにとって何ものでもない、と考えることに慣れなさい」とエピクロスは言います(10.124) [2] 。理由は短く、善いことも悪いことも感覚の中にあり、死は感覚を失うことだからです。私たちがいるとき死はなく、死が来たとき私たちはもういません。だから死は、生きている人にも死んだ人にも関わりません(10.125) [2] 。この論証は、原典を読むの章でエピクロス自身の言葉で読みます。 この論証を下で支えているのが 原子論 です。『ヘロドトス宛ての手紙』によれば、魂もとても細かな原子からなり、体じゅうに広がっています(10.63)。魂は体とともに感覚し(10.64)、体が壊れると魂の原子は散って、感覚の力を失います(10.65) [2] 。だから死後に罰を受ける自分も、失った生を悔やむ自分も残りません (図 3) 。エピクロスは、レウキッポスとデモクリトスが展開した原子論を受け継ぎ、発展させました [1] 。デモクリトスの課で見た、原子と空虚の世界です。 ① 魂も原子 とても細かな粒が体じゅうに広がる (10.63) ② 体が壊れる 魂の原子が散り、感覚の力がなくなる (10.65) ③ 善悪は感覚に 善いことも悪いことも感覚の中にある (10.124) ④ 死は何ものでもない 私たちがいるとき死はなく、死がある とき私たちはいない(10.125) ⑤ 心の平静 死の恐れが消え、心が乱れない (アタラクシア) 図 3 死の恐れが消えるまでの道筋です。『ヘロドトス宛ての手紙』10.63–65 と『メノイケウス宛ての手紙』10.124–125 を組み合わせた本教材の整理で、原典の一続きの文ではありません。 SEP によれば、私たちが死を恐れるのは、「死」という名前があるために、死んでいる状態を体験できる何かのように思い込むからです [1] 。エピクロスは、言葉を基本の意味で受け取り、「空しい音」に惑わされるなと言いました(『ヘロドトス宛ての手紙』10.37–38) [2] 。これは言葉一般についての戒めで、死の名に当てはめるのは SEP の解釈です。 手紙は、正しい知識は限りない時間を付け加えるのではなく、不死への渇望を取り去ることで、死すべき生を楽しめるものにすると言います(10.124) [2] 。不死を求める空しい欲求を捨てることで、前の節の欲求の話とここがつながります。後のローマの詩人ルクレティウスは、生まれる前の時間と死んだ後の時間を鏡のように並べました(『事物の本性について』3.832–842、3.972–977) [4] 。前を怖がらないなら後も怖がる理由はない、というこの考えは、ルクレティウスのものです。 ここで間違えやすい 「死は何ものでもない」を、命を粗末にしてよいという意味に取らないようにしましょう。賢い人は生を拒まず、死を恐れもしない、と手紙は言います(10.126) [2] 。また、この論証が向けられているのは死んでいる状態への恐れで、死ぬまでの病や痛みへの恐れまで消すものではありません。 原典を読む 第 1 章の三つ目の節で見た、死についての論証を、『メノイケウス宛ての手紙』の一節で読みます。原文はギリシア語で、本教材が訳しました。 エピクロス『メノイケウス宛ての手紙』10.124–125 死は私たちにとって何ものでもない エピクロスが弟子メノイケウスに倫理の要点を書き送った手紙から、死について語る一続きの段落を読みます [1] 。 1 死は私たちにとって何ものでもない、と考えることに慣れなさい。 2 善いものも悪いものも、すべて感覚のうちにあり、死とは感覚を奪われることだから