西洋哲学の見取り図――古代から現代までの大きな流れ — Epoché
はじめに 総説 約 24 分 本文 約 10,600 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 問いの軸・受け渡し・地図の限界の 3 つ 問いの軸 本教材では、各時代を「主に何を問うたか」で見る。古代は自然の始まりから魂と善い生き方へ、中世は信仰と理性の関係へ、近代は知識の確実さへ、現代は言語・実存・社会・科学・心へと、中心の問いが移っていく。 受け渡し 問いは時代ごとに捨てられるのではなく、受け継がれながら形を変える。アリストテレスは先人の説を自分の四つの原因で見直し(『形而上学』A3 983a24–b6)、中世はその書物を翻訳と注釈で受け取り、近代はその権威を疑うところから始め直した。 地図の限界 どの見取り図も後の人が組み立てたものである。古代のディオゲネス・ラエルティオスは哲学の始まりを「イオニア派」と「イタリア派」の二つの系譜で描いたと伝え(1.13–14)、「ソクラテス以前」という呼び名も 18 世紀の発明である。時代の境は重なり、地図は道案内であって、領土そのものではない。 はじめに 前の課では、哲学を「問いを立て、理由を挙げ、反論で吟味する」営みとして見ました。この課では、その営みが古代ギリシアから現代まで、二千五百年あまりをどう流れてきたかを眺めます。これから先の課で出会う哲学者たちを、ばらばらの人名としてではなく、一つの大きな流れの中に置いて読めるようにするための課です。 長い歴史を見渡すとき、人名と学説を年代の順に並べるだけでは、なかなか頭に入りません。そこで本教材は、時代ごとに「主に何を問うたか」という問いの軸で見ることにします。本教材の整理では、古代は自然の始まりから魂と善い生き方へ、中世は信仰と理性の関わりへ、近代は何を確かに知りうるかへ、現代は言語・経験・社会・科学・心へと、中心の問いが移っていきます。 ただし、問いは時代が変わるたびに捨てられたわけではありません。受け継がれながら、形を変えていきました。第 1 章では、「古代」「中世」「近代から現代へ」の三つの区切りで、問いがどう手渡されたかを一節ずつ確かめます。「原典を読む」では、古代の人自身が描いた哲学の見取り図を、ギリシア語の原文から訳して読みます。「比べてみる」では、「原因と結果はどう結びつくか」という一つの問いが、時代ごとに形を変える様子をたどります。 もう一つ、心に留めておきたいことがあります。どの見取り図も、後の人が見通しのために組み立てたものです。地図は道案内には役立ちますが、土地そのものではありません。この課の年表も、そのつもりで使ってください。なお、「前 6 世紀」は紀元前 6 世紀を表し、「前」の付かない「270 年」などは紀元後の年を表します。 この課の問い 二千五百年あまりの西洋哲学を、人名の長い列としてではなく、一つの大きな流れとして見るには、どうすればよいのでしょうか。各時代は主に何を問い、その問いは次の時代にどう受け継がれ、どう問い直されたのでしょうか。 この課のことば 時代区分 長い歴史を「古代・中世・近代・現代」のように区切ること。区切りは後の人が見通しのために引いた線で、その時代の人が自分で名乗ったものではありません。 ソクラテス以前 ソクラテスより前の、またはソクラテスの影響を受けていない初期ギリシアの思想家たち。この呼び名は 18 世紀に作られ、19 世紀にディールスが広めました。 始まり(アルケー) 万物がそこから生じ、そこへ還っていく元のもの。初期ギリシアの思想家たちが探した「原理」です。 学派の系譜(ディアドケー) 師から弟子へ、誰が誰を継いだかを並べる、古代の哲学史の書き方。ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』がその代表です。 注釈 権威ある古い書物の一節ずつに、説明や問いを書き添えること。中世の哲学の多くはこの形で書かれ、解釈の中から新しい考えが生まれました。 翻訳運動 ある言語の書物を、長い時期にわたり集中して別の言語に移す営み。中世には、ギリシア語からアラビア語へ、アラビア語やギリシア語からラテン語への大きな波がありました。 問いの受け渡し――西洋哲学は何を問い継いできたか 前の課で見た三つの動きは、どの時代にも働いています。違うのは、何を問いの中心に置いたかです。この章では、古代から現代までを三つの区切りに分け、中心の問いがどう手渡され、どう問い直されたかを見ていきます。 人物一人ひとりの細かい説は、後の課に任せます。ここで目を向けるのは、ある時代の答えが、次の時代の問いの材料になっていく様子です。 古代――自然の始まりから、魂と善い生き方へ 最初に哲学したとされるのは、前 6 世紀のギリシア、イオニア地方のミレトスなどの町の人々です。彼らの新しさは、何を答えたかより、どう答えたかにあります。スタンフォード哲学百科事典(SEP)の「ソクラテス以前の哲学」の項は、その最も根本の特徴を、世界をそれ自身に内在する原理で説明しようとしたことに見ます [1] 。 比べる相手は、それより前の詩人ヘシオドスの『神統記』です。そこでは、カオスから神々が次々に生まれ、激しく争い、最後にゼウスが勝って秩序を打ち立てます。神々の誕生の物語が、そのまま世界の成り立ちの説明でした。天気から暮らしの細部まで、神々が外から介入します。人は限られた力しか持たないので、それを受け入れるしかなく、最後まで理解することはできません [1] 。 初期の思想家たちはこの描き方を退け、世界を、それ自身として理解できる秩序ある配置( κόσμος 、コスモス)と見ました [1] 。「万物は何から生じ、何へ還るのか」と問い、水・空気・限りのないもの・数・原子など、世界の内にある元のもので答えようとしたのです (図 1) 。答えはばらばらでも、「世界はそれ自身の原理で理解できるはずだ」という前提は共有されていた、と本教材は読みます。 物語で説明する ゼウス 大地と天 カオス 神々が 外から働く 麦畑と雨 聴き手 詩人 世界そのものの原理で説明する 始まり(アルケー)は何か 水の甕 芽 種 パン 鍋 土 生じ、還る 探究者 タレスが水とした理由は アリストテレスの推測 図 1 哲学の始まりを、答え方の変化として描いた二枚の絵です(本教材の作例で、特定の記録の再現ではありません)。一つ目の絵では、詩人が歌う神々の誕生と争いの物語が世界の説明になり、出来事は外から働く神々の力で起こります。二つ目の絵では、探究者が、世界の内にある一つの元のものから、生じることと還ることを説明しようとします。 アリストテレスは、この流れを自分の側から振り返りました。『形而上学』A 巻第 3 章で、彼はまず原因を四つに分け(983a26 以下)、そのうえで、自分より前に「真理について哲学した人々」も取り上げて確かめようと言います(983b1–6)。そして、最初に哲学した人々の多くは、素材のかたちの始まりだけを万物の始まりと考えた、とまとめます(983b6–8) [4] 。後の人が、先人の答えを自分の問いの枠で並べ直す営みは、すでにここで始まっています。 やがて問いの向きが変わります。答えが食い違うと、「変化や運動は本当にあるのか」「感覚は信じられるのか」と、答え方そのものが問われるようになりました。さらにソクラテスとプラトンは、「正義とは何か」「善く生きるとはどういうことか」「魂とは何か」を問いの中心に据えます。 プラトンの対話篇『パイドン』には、この転換を象徴する場面があります。死を前にしたソクラテスが若い頃を振り返り、アナクサゴラスの本に期待して失望した、と語るのです。知性が万物を秩序づけると聞き、なぜそれが最も善いのかを教えてくれると思ったのに、空気や水による説明しか無かった、と。自分がいま牢獄に座っているのも、骨や筋肉のせいではなく、とどまって罰を受けるのが善いと判断したからだ、と彼は言います。本教材はこれを、自然の問いを捨てたのではなく、「何が善いか」も問うべきだという問い直しとして読みます。ただし、これはプラトンの描く場面で、歴史上のソクラテスの経歴そのままとは限りません。 その後、アリストテレスは自然・論理・倫理・政治を一つの体系にまとめました。ヘレニズムの時代には、エピクロス派・ストア派・懐疑派などの学派が、それぞれの仕方で善い生き方を説きます。後期ローマ帝国では、プロティノス(270 年没)が打ち立てた新しいプラトン主義が、それらの学派に代わって主流になりました [2] 。 ここで間違えやすい 「神話から理性へ」と一直線に移った、と考えないようにしましょう。ソクラテス以前の思想家の何人かは、倫理や善い生き方についても考えていました。「ソクラテス以前」という呼び名は、道徳を問うたソクラテスと、自然の探究に打ち込んだ先人たち、という対比のために 18 世紀に作られ、19 世紀にディールスが広めたものです。年代の名としても正確ではありません。最後の人々はソクラテスやプラトンと同時代だからです [1] 。また、彼らの著作は一冊も完全には残っていません。後の哲学者や編纂者が伝える引用(断片)と報告(証言)に頼るしかないのです [1] 。 中世――信仰と理性、古い書物を注釈しながら考える 中世の哲学というと、ラテン語のヨーロッパだけを思い浮かべるかもしれません。けれども SEP の「中世哲学」の項は、ギリシア語・ラテン語・アラビア語・ユダヤの四つの伝統を挙げます。その主な根は、後期古代のアテネとアレクサンドリアにあった、プラトン派と呼ばれる二つの学校にありました [2] 。 鍵になったのは、プロティノスの弟子ポルピュリオス(232 年頃–305 年頃)です。師のプロティノスは、アリストテレスをプラトンの敵と見ていました。ポルピュリオスはそれと違い、感覚で捉えられる世界を論じるアリストテレスの思想は、感覚を超えたものを論じるプラトンの思想と調和する、と考えました。そこで学校では、アリストテレスの著作を論理学から順に学び、その後でプラトンの対話篇へ進むようになります。四つの伝統のどれにも、このアリストテレスの課程が受け継がれました [2] 。 書物は、言語から言語へと手渡されました。これを 翻訳運動 と呼びます。8 世紀から 10 世紀初めには、ギリシア語の学術書や哲学書の多くがアラビア語に訳され、アリストテレスはほぼ全体が訳されました。12・13 世紀には、トレドやシチリアなどで、アラビア語の書物がラテン語に訳され、アリストテレスの残りの著作もギリシア語からラテン語に移されます。それより早く、6 世紀の初めには、ボエティウス(524 年頃没)がアリストテレスの主な論理学書をラテン語に訳していました [2] (図 2) 。 巻物のリレー――言語から言語へ ① 後期古代の学校 アテネ・アレクサンドリア 巻物:アリストテレス 余白はまだ白い ギリシア語→アラビア語 ② 書庫 8〜10 世紀初め アラビア語で注を書く ヘブライ語の学者は多く 訳された要約で学ぶ アラビア語→ラテン語 ③ トレドやシチリア 12・13 世紀 ラテン語に訳される ギリシア語からも 注釈と問題 ④ 大学の講堂 余白は注でいっぱい 問題:……か 点線の脇道:ボエティウス(524 頃没)が 主な論理学書をギリシア語からラテン語へ 図 2 中世の哲学が、古代の書物を言語から言語へ手渡し、そのたびに注釈を書き加えて受け継いだことを、巻物のリレーとして描いた絵です(本教材の作例)。上から下へ渡るごとに、巻物の余白の注が増えていきます。左端の点線は、ボエティウスがギリシア語からラテン語へ論理学書を訳した脇道です。 受け取った人々は、書物をただ読んだのではありません。中世の哲学の多くは、アリストテレス、聖書、クルアーン、そしてペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』(1155 年頃)などへの 注釈 の形で書かれました。『命題集』は、大学の神学部で聖書と並ぶ定番の教科書でした。注釈の目的はたいてい本文の解釈でしたが、解釈の営みがしばしば、本文からは離れた新しい思考を生んだのです [2] 。 今の哲学者は、たいてい「問題」を立て、先人の説をそれを解く道具として使います。中世の哲学はそれと違い、古く権威ある書物から出発することが多かったのです。ラテン語圏の大学では、本文の区切りごとに問いを立てて論じる「問題注解」という形が広まりました。本文は、注釈者が自分の論じたいことを掛ける釘にすぎないこともありました [2] 。 本教材の作例で、教室の様子を想像してみます。13 世紀の大学で、教師がアリストテレスの書物の一節を読み、「問題:魂は体が滅びた後も残るか」と問いを立てます。まず「残らないと思われる」理由をいくつか挙げ、次に反対の側の権威ある言葉を引きます。続けて「私は答える」と自分の考えを述べ、最後に初めの理由に一つずつ答えます。これは、トマス・アクィナスの『神学大全』の各項などに見られる、典型的な形の一つです。問題注解のすべてが、この順序に従うわけではありません。 本教材の読み方では、この時代の中心の問いは「信仰(啓示)と理性はどう関わるか」です。キリスト教・イスラーム・ユダヤ教の世界では、聖典に示された真理が、まず受け入れるべきものとしてありました。そこへ、啓示とは別の道筋で世界を説明するギリシアの書物が届きます。理性で論証できることと、信じるしかないことの境はどこか。両者が食い違うように見えるとき、どう読むか。中世の編では、アンセルムス、イブン・ルシュド、トマス・アクィナスが、それぞれの仕方でこの問いに答えます。 ここで間違えやすい 中世を「信仰が理性を押さえつけた暗黒の時代」や「ラテン語のヨーロッパだけの話」と考えないようにしましょう。アリストテレスはほぼ全体がアラビア語に訳され、12 世紀より後のアラビア語圏では、イブン・スィーナー(アヴィセンナ)がアリストテレスを考え直した著作が、注釈の対象になりました [2] 。また、中世と近代の境は一夜で切り替わりません。ラテン語圏では、アリストテレスへの直接の注釈が、17 世紀の後半まで高等教育の中心であり続けました [2] 。この課程がアウグスティヌス(354–430)を、年代では古代の末に当たるのに中世の編に置くのも、年代より問いの向き(信仰と理性)で編を分けているからです。 近代から現代へ―