ファシズムと全体主義――大衆を動員する支配 — Epoché
思想 イデオロギー 約 26 分 本文 約 11,500 字 図 4・表 2 資料 1 節 この課の要点 思想・分析・日本の 3 つ 思想 ファシズムは自由主義・社会主義・多数決の民主主義に反対し、すべてを国家の中に置く考えを「全体主義的」と自称しました。 分析 全体主義は、アーレントやフリードリヒらが独ソを念頭に練った分析の概念で、リンスは動員とイデオロギーの弱い権威主義体制と区別しました。 日本 戦時の日本をファシズムと呼べるかは、丸山眞男の「上からのファシズム」論から戦時動員体制論まで、評価が分かれてきました。 はじめに 「ファシスト」という言葉は、いまでは相手を責める悪口としてもよく使われます。1944 年にイギリスの作家オーウェルは、使われ方を見るかぎり「ファシズム」という語はほとんど無意味になっている、と書きました。ほとんどの英国人は「いじめっ子」をその同義語として受け入れるだろう、とまで言っています [9] 。ただしオーウェルは、同じ文章で、乱れた用法の下には埋もれた意味があり、ファシズムは政治と経済の体系でもある、と続けています [9] 。この課は、その埋もれた意味を掘り出す試みです。 この課程の前の課では、自由主義・保守主義・社会主義を見てきました。いずれも 19 世紀に形を整えた思想です。ファシズムは第一次世界大戦の後のイタリアで生まれ、自由主義にも社会主義にも、多数決の民主主義にも反対すると名乗りました。そして自らを「全体主義的」と呼びました [1] 。のちにこの「全体主義」という言葉は、ナチ・ドイツとスターリンのソ連を比べる学問の概念に変わっていきます [2] [4] 。 この課では、まずファシストが自分をどう規定したかを見ます。次に、ムッソリーニとヒトラーが首相の座に就いた道筋を確かめます。そのうえで、アーレントらが練った全体主義の概念と、それを独裁や権威主義体制から区別する考え方を学びます。最後に、戦時の日本をどう捉えるかという、今も評価の分かれる問いに当てはめます。悪口としての言葉を、確かめられる道具としての言葉に戻すことが、この課の目当てです。 この課の問い ファシズムは何を目ざした思想・運動で、「全体主義」という言葉は誰がどんな意味で使ってきたのでしょうか。それはただの独裁と何が違うと考えられてきたのでしょうか。 この課のことば ファシズム 第一次世界大戦の後のイタリアで生まれた運動と思想。国民の一体と国家を、個人・階級・多数決より上に置きます。名は束ねた棒「ファッショ」から来ています。 全体主義 社会のすべてを一つの考えのもとに置こうとする支配。イタリアのファシストの自称として広まり、のちにナチ・ドイツとソ連を比べる分析の言葉になりました。 権威主義体制 政治学者リンスが、全体主義とも民主主義とも違う型として定義した非民主的な体制。限られた範囲で多元性を認め、人々を広く動員しません。 大衆 階級や団体に結びつかず、ばらばらにされた多数の人々。アーレントは、全体主義の運動がここから支持者を集めたと見ました。 動員 人々を集会・組織・運動に駆り出し、支配に参加させること。ただ従わせる(服従)のとは違い、積極的な参加を求めます。 ファシズムと全体主義――大衆を動員する支配とは何か 前の課までに見た自由主義・保守主義・社会主義は、19 世紀に形を整えた思想でした。この章では、第一次世界大戦の後に現れ、その三つすべてに反対すると名乗った思想と、それを分析するために後から作られた概念を見ます。ファシストの名乗り、権力に就いた道筋、学者の分析、日本への当てはめの順に進みます。 核の考え――国家の外には何もない ファシズムとは何かを考える手がかりとして、まずファシスト自身の言葉を見ます。1932 年に刊行された『イタリア百科事典』は、項目「ファシズム」の冒頭に「教義」の部を置きました [1] 。この部はムッソリーニの名で知られ、前半の「基本の理念」は哲学者ジョヴァンニ・ジェンティーレが書いたとされます [10] [11] 。そこでファシズムは、自らを反個人主義の考えと規定し、国家の側に立つと宣言しています [1] 。 項目が何に反対したかを、順に見ていきます。第一は自由主義です。この課程の『自由主義』の課で見たとおり、自由主義は個人から出発して国家を考えます。項目はこれを裏返し、自由主義は個人のために国家を否定したと述べ、国家こそ個人の真の現実だと主張します [1] 。第二は社会主義です。項目は、階級闘争で歴史を固めてしまう社会主義に反対し、利害を国家の中で調停する「コーポラティブな体系」を唱えます [1] 。第三は多数決の民主主義です。国家は数ではなく、多数派をなす個人の総和ではない、と項目は書きます [1] 。そして、すべてが国家の中にあるという意味で、ファシズムは「全体主義的」だと名乗りました [1] 。この一節は、資料で確かめる章で原文から読みます。 束ねた棒(ファッショ)のたとえ 1 本の棒は折れる 束は折れにくい 外の集団は 認めない 図 1 束ねた棒「ファッショ」のたとえ(本教材の絵)。1 本の棒は折れても、束ねた棒は折れにくい。団結の象徴は、束の外に何も残さない考えにもつながります [1] [4] 。 運動の名も、この考えを映しています。政治学者の小山吉亮によれば、ファシズムの名は、古代ローマで権力や団結の象徴とされた束ねた棒「ファッショ」から来ています [4] 。イタリア語のファッショは団体の名としても使われ、さまざまな団体がこの名を名乗っていました。運動が大きくなるにつれ、ファシズムといえばムッソリーニの運動を指すようになったのです [4] 。項目は、束ねた棒の印を「統一、力、正義の象徴」と説明しています [1] 。1 本の棒は折れても束は折れにくい、というたとえです (図 1) 。本教材の整理として付け加えると、このたとえには、束ねる紐の外に棒を残さないという面もあります。項目は、国家の外に個人も集団もあってはならないと書くからです [1] 。 では、研究者はファシズムをどう定義してきたでしょうか。政治学者の板橋拓己によれば、ファシズムには研究者のあいだで合意された学術上の定義がありません [5] 。1960 年代にドイツの歴史家ノルテは、反自由主義・反資本主義・反ブルジョワ・反共産主義という否定の言葉の束でファシズムを定義しました [5] 。1991 年に研究者グリフィンは、ファシズムを政治イデオロギーの一種とし、その神話の核心を「再生をめざす大衆動員志向のウルトラナショナリズムの一形態」と定義しました(板橋の訳) [5] 。この定義は使い勝手がよく、多くの研究で使われました [5] 。 これに対して、アメリカの歴史家パクストンは、単一の本質を探す定義は、動いている対象を「凍結された『彫像』」のように描いてしまうと批判しました [5] 。また歴史家パスモアは、自著の第 2 版(2014)で定義から出発すること自体を退け、過去の人々がファシズムという言葉をどう使ったかを探るべきだとしました [5] 。定義をめぐるこの対立は、考えてみるの章でもう一度扱います。 ここで間違えやすい ファシズムを「極端なナショナリズム」とだけ見るのは不十分です。グリフィンの影響を受けた研究は、国民が生まれ変わるという再生の神話と、大衆を動員する性格を核に置きます [5] 。ただし、これも研究者のあいだで合意された定義ではありません [5] 。 歴史の文脈――大戦の後の運動と、首相への任命 ファシズムは、第一次世界大戦の後のイタリアで運動として始まりました。ムッソリーニは 1914 年の秋まで社会主義者で、社会党の新聞『アヴァンティ!』の編集長でした [1] 。大戦への参戦を唱えて党を離れたのち、1919 年 3 月にミラノでファッショを結成し、各地に同じ名の団体が続きました [1] 。出来事の流れは図2にまとめました。 1919 3 月、ミラノでファッショを結成 1922 ローマ進軍の後、国王が ムッソリーニを首相に任命 1923 批判者アメンドラが「全体 主義的」の語を使う 1925 1 月 3 日の議会演説から独裁を 固める 1932 百科事典の項目で「全体 主義的」と自称 1933 ヒトラーが首相に(1 月)、 授権法(3 月) 1940 第 2 次近衛内閣の新体制、 大政翼賛会が発足 1951 アーレント『全体主義の起原』 図 2 ファシズムと「全体主義」という言葉の歩み(主な出来事)。運動の結成から首相への任命、独裁の固まり、自称、分析の概念へと進みました [1] [4] [6] [7] [8] [10] 。 なぜ大戦の後に、こうした運動が支持を集めたのでしょうか。政治思想家アーレントは、全体主義を可能にした大事な要因として、崩れた政治の構造と、社会と経済の変動・革命・戦争の中で方向の感覚を失った、根なしの大衆を挙げました [2] 。彼女によれば、全体主義の運動は、古い利益政党のように階級を組織するのでも、意見をもつ市民を組織するのでもなく、大衆を組織しました [3] 。そして大戦の後、反民主主義の波がヨーロッパを覆い、ファシズムの運動はイタリアから中欧・東欧のほとんどの国に広がった、と書いています [3] 。 イタリアでは、1922 年 10 月、ファシストが「ローマ進軍」と呼ばれる示威の行進を行いました。月末、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ 3 世はムッソリーニを首相に任命し、ムッソリーニは連立政権を作りました [10] 。ファシストは後にこれを権力の奪取として祝いました。しかし概説(Wikipedia)は、公の権威がファシストの脅しに屈した結果の、憲法の枠の中での権力の移転だったと説明しています [10] 。1924 年に社会党の議員マッテオッティがファシストに殺されると政治の危機が起き、1925 年 1 月 3 日の議会演説を境に、ムッソリーニは独裁を固めていきました [1] [10] 。反対派の議員は議会から締め出され、検閲が導入されました [10] 。 ドイツでは、ヒトラーが 1933 年 1 月 30 日にヒンデンブルク大統領から首相に任命されました [10] 。同じ年の 3 月に議会が可決し、24 日に公布された授権法(正式には「国民と国家の苦難を除くための法律」)は、第 1 条で、法律は憲法の定める手続きのほか政府も決められるとしました [8] 。第 2 条は、政府の決めた法律は憲法から外れてもよいとしました。ただし、議会と参議院の制度そのものと、大統領の権利は除かれています [8] 。つまり議会は、自らの立法の権限を政府に渡したことになります。 こうした動きを、パクストンは定義から出発せずに段階で捉えました。板橋によれば、パクストンはファシズムを 5 つの段階で分析しました [5] 。運動の創設、政党としての政治の体系への定着、権力の掌握、権力の行使、そして急進化あるいはエントロピー(崩れていく状態)です [5] 。本教材の当てはめとして言えば、1919 年のミラノは第 1 の段階に、1922 年の首相への任命と 1933 年の授権法は第 3 の段階にあたります。段階で見ると、すべての運動が最後まで進むわけではないことも見えてきます。 ここで間違えやすい 「ファシズムはクーデターで権力を奪った」と思われがちです。しかし両国とも、首相への任命は国王や大統領が既存の憲法の枠の中で行いました [10] 。そのうえでイタリアでは暴力による脅しが、ドイツでは授権法のような法律が、独裁への道を開きました [8] [10] 。 全体主義という概念――アーレント、六つの指標、権威主義との区別 「全体主義」という言葉は、イタリアで生まれました。小山によれば、初出とされるのは 1923 年で、ムッソリーニ政権を批判する側のアメンドラが、ファシストの「絶対的支配」を「全体主義的システム」と呼んだのが始まりとされます [4] 。その後、ファシストが自らを示す言葉として使うようになりました [4] 。ところが、ドイツの台頭と独ソ不可侵条約、第二次世界大戦を機に、独ソを同類とみる「全体主義体制」論が広まりました [4] 。こうして言葉は独ソを典型とする分析の概念に変わり、戦後に理論化が進みます [4] 。 代表はアーレントの『全体主義の起原』(1951)です。彼女はナチズムとスターリニズムの歴史的な発展と共通の特徴を調べ、全体主義を、専制・暴政・独裁など既知の圧政と本質的に違う、新しい支配の形と考えました [2] 。SEP の整理では、仕組みは次のとおりです (図 3) 。宣伝が、根なしの孤独な大衆から支持者を集めます。自然や歴史の法則で何でも説明すると称する一つの観念のイデオロギーが支配を支えます。組織はわざと流動的で、競い合う機関が重なり、その中心に秘密警察が座ります。そしてテロルと収容所が、人間を交換できる「反応の束」に変え、「余計なもの」にしようとします [2] 。ただしアーレントは原因を一つに定めず、反ユダヤ主義や帝国主義などの要素が全体主義に「結晶」した歴史をたどりました [2] 。 大衆 崩れた政治の構造の中で、根を失い 孤独になった多くの人々 宣伝とイデオロギー 自然や歴史の法則で何でも説明すると 称する一つの観念 運動の組織 競い合う機関が重なる流動的な階層。 中心に秘密警察 テロル 全面的な統制と極端な強制 収容所 「何でも可能だ」を確かめる実験室と された 図 3 アーレントの描いた全体主義の支配の仕組み(SEP の項目の整理を本教材が簡略にした図)。上から順に、支持者の集め方から支配の核心へ進みます。アーレント自身は原因の連鎖ではなく、要素が「結晶」したものとして描きました [2] 。 アーレントは、ムッソリーニのイタリアを全体主義に含めませんでした。1938 年までのファシズムは全体主義ではなく、普通のナショナリストの独裁だった、と書いています [3] 。全体主義の運動は数の力にあまりに頼るので、人口の比較的少ない国では難しく見える、とも述べました。「全体主義国家」という言葉を好んだムッソリーニでさえ、完全な全体主義の体制は作ろうとせず、独裁と一党支配で満足した、とも書いています [3] 。 もう一つの古典は、フリードリ