国境と世代を越える正義――地球規模の責任 — Epoché
思想 自由・平等・正義 約 25 分 本文 約 11,200 字 図 4・表 2 この課の要点 国境・世代・責任の分け方の 3 つ 国境 正義の義務が同じ国の人どうしで強まるのか、すべての人に等しく及ぶのかで、ナショナリズム・国家主義とコスモポリタニズムが分かれます。 世代 まだいない人にも権利が言えるかが問われ、非同一性問題に対して、閾値で害を定める考えやロールズの貯蓄の原理が応答します。 責任の分け方 原因・受益・能力・つながりのどれを根拠にするかで、気候変動や遠くの貧困について誰がどれだけ負うかの答えが変わります。 はじめに 店で千円の服を買うとき、その千円を寄付に回せば遠い国の誰かの命を救えるかもしれない、と言われたらどう感じるでしょうか。あるいは、夏の暑さが年々厳しくなるというニュースを見て、自分が年を取ったころや、まだ生まれていない子どもたちの暮らしを思い浮かべたことはないでしょうか。どちらの問いにも、「自分と遠く離れた人に、私はどんな責任を負うのか」という共通の芯があります。 この課程の『分配的正義』の課では、ロールズの原初状態を使って、一つの社会の中での公正な分け方を考えました。そこでは、同じ制度の下で協力し合う人々の間の正義が問われていました。けれども、私たちの暮らしは国境の外の人々の労働や資源と結びつき、今の決定は将来の人々の暮らしを左右します。正義の考えをそのまま国の外と未来に広げてよいのか、それとも広げると何かが変わるのでしょうか。これがこの課の問いです。 ここでの「遠さ」には二つの種類があります。一つは空間の遠さで、国境の向こうに住み、顔も名前も知らない人です。もう一つは時間の遠さで、まだ生まれておらず、こちらに何かを言い返すこともできない人です。二つの遠さは、どちらも「同じ社会で互いに協力し、互いに要求し合う仲間」という、正義を考えるときのふつうの前提を揺さぶります。そのため、近くの人への正義の議論をそのまま持ち出すだけでは足りず、義務の根拠そのものを問い直す必要が出てきます。 これは「どうあるべきか」を問う規範の課です。本教材は、どの立場が正しいかを決めません。それぞれの立場が何を根拠にし、どこで反論を受けるかを並べます。日本の憲法と法律の条文は、立場を裏づける証拠としてではなく、問いが身近な制度の言葉にも現れている例として引きます。読み終えたときに、遠くの人への責任をめぐる議論を聞いたら「この人は、責任の根拠を能力・加担・つながりのどれに置いているか」「国境や世代で義務の強さが変わると考えているか」と問い返せるようになることが、この課の目標です。 この課の問い 正義の求めは、同じ国の人や同じ時代の人の間で止まるのでしょうか。遠い国の貧しい人や、まだ生まれていない人に、私たちはどんな理由で、どれだけの責任を負うのでしょうか。 この課のことば コスモポリタニズム 国籍などの所属に関係なく、一人ひとりの人間を道徳的な配慮の最後の単位として等しく扱う立場です。「世界市民」の考えとも言います。 国家主義(ステイティズム) 平等を求める正義の義務は、同じ国家の強制や権威の下にある人どうしに強くかかり、国外には同じ強さでは及ばないとする立場です。 消極的義務 人を害さない義務です。困っている人を助ける義務(積極的義務)と区別されます。たとえば、物を盗まない義務は消極的、寄付する義務は積極的です。 非同一性問題 政策の選び方によって将来生まれる人そのものが入れ替わるため、「その政策がその人を害した」と言いにくくなる問題です。 正義にかなう貯蓄 ロールズが、各世代が後の世代のために残すべきものを定めるために立てた原理です。ここでの貯蓄はお金だけでなく、制度や資本も含みます。 汚染者負担原則 多く排出した者が多く費用を負うべきだとする考えです。気候変動の費用の分け方の候補の一つとして論じられます。 地球規模の責任――正義は国境と世代で止まるか この章では、一つの社会の中で考えてきた正義を、国の外と未来へ広げたときに何が新しく問題になるかを見ます。国境の問い、世代の問い、そして二つが重なる気候変動の問いの順に進みます。 正義は国境で止まるか――国際的正義とグローバルな正義 正義を国の外に広げようとすると、まず「誰と誰の間の正義か」が問題になります。哲学では、国家(あるいは国民)どうしの間の正義を問う「国際的正義」と、国家という殻を突き抜けて一人ひとりの人間の間の正義を問う「グローバルな正義」が区別されます [1] 。国際的正義は国家を主な単位にするので、国際法が国家に義務を課すのと同じように、誰が何をすべきかがはっきりします。グローバルな正義は国家を動かせない前提とはしないので、企業や国際機関、消費者や市民など、国家以外の担い手の責任も見えてきます。二つは補い合うこともできますが、論争では競い合う枠組みとして扱われがちです [1] 。 (図 1) 正義の義務は誰に及ぶか 国境で義務の強さや種類が 変わるか 国際的正義(ロールズ) 民衆の間の八つの原理、まともな 制度まで援助 国家主義 強制と権威のある国内で平等の義務 ナショナリズム 同胞の共同体が特別の義務を生む コスモポリタニズム すべての人の利益を等しく考慮する 図 1 正義の義務は誰に及ぶかをめぐる四つの立場(本教材の整理。SEP「Global Justice」による [1] )。上の問いに、四つの立場がそれぞれ答えています。 国際的正義の代表は、ロールズの『万民の法』(1999 年)です。ロールズは「民衆(peoples)」の間のふるまいを律する八つの原理を立てました。民衆とは、文化・歴史・伝統・感情などを共有する人々の集まりで、多くの人が「国民」と呼ぶものに当たり、ほぼそれぞれが国家を持つと想定されています。原理には、民衆の独立と平等、自決の権利と不干渉の義務、条約を守ることが含まれます。さらに、一定の人権の尊重、戦争での適切なふるまい、自決を可能にする制度を築くのを援助する義務などもあります [1] [2] 。ロールズは、すべての民衆がまともな暮らしを可能にする制度を持てば、その後に残る地球規模の不平等は道徳的に問題ではないと考えました。批判者は、力や富の差が貿易の慣行のような国際制度のルールを有利に決める力に変わり、遠くの人がまともな暮らしを送る力を脅かしうると指摘します [1] 。 国の内と外で義務の強さを分ける議論には、二つの系統があります。一つはナショナリズムです。ミラーやタミールらは、国民の共同体が愛着やアイデンティティ、人生の意味の源になり、同胞を助ける特別の義務を生むと論じます。グディンは、同胞の関係そのものに特別な価値はないものの、国境は義務を特定の担い手に割り当てるのに役立つとして、道具として擁護しました [1] 。もう一つは国家主義(ステイティズム)です。国内には市民を縛る強制的な法の構造があり(ブレイク)、正義を強制する権威があります(ネーゲル)。それが平等を求める義務を生むので、国外には同じ義務は及ばない、と考えます。これに対し、強制は国際的な制度にも広く見られるのだから、同じ理屈で地球規模の平等の義務が生じる、という反論があります(コーエンとセイベルら) [1] 。 反対の端に立つのがコスモポリタニズムです。古代のディオゲネスは自らを「世界市民」と呼んだとされ、最初のコスモポリタンとして広く知られています。現代のコスモポリタンは、すべての人間が道徳的配慮の最後の単位であり、国籍などの所属に関わらず利益を等しく考慮されるべきだとします [1] 。ヌスバウムは、人は人類という地球規模の共同体と、重なり合う多くの共同体に属していると説きます。ポッゲは、地球規模のルールや組織の設計と運営に関わる人は、国への忠誠を脇に置き、地球上のすべての人の必要と利益を等しく考慮すべきだと述べます。ただし、この要求はそうした場面にだけ当てはまるとしています [1] 。 日本の憲法の言葉にも、国境を越える視点が現れています。日本国憲法の前文は「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と書き、続けて「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と述べます [9] 。ここでは文言だけを見て、前文がどのような法的効力を持つかという議論には立ち入りません。前の文は「全世界の国民」の権利という個人の側から、後の文は「いづれの国家も」という国家の責務の側から語っています。グローバルな正義と国際的正義の二つの言い方が、一つの文書の中に並んでいると読むこともできます(本教材の読み)。 ここで間違えやすい 「コスモポリタニズムは家族や同胞を大切にすることを否定する」と考えるのは誤解です。ポッゲやタンは、等しい考慮を地球規模の制度の設計に求め、その枠の中で同胞への配慮が働く余地を認めています [1] 。本教材の整理では、争点は国外の人への義務が「あるかないか」よりも、その強さと種類が国境で変わるかどうかにあります。 遠くの貧困への責任――助ける義務か、害をやめる義務か 地球規模の正義の問題のうち、最も目に見えるものの一つが世界の貧困です [1] 。この問いに大きな影響を与えた議論が二つあります。 一つ目は、シンガーの論文「飢えと豊かさと道徳」(1972 年)です。通りがかりの浅い池で幼い子が溺れていて、あなたはわずかな手間と不便で救えるとします。救うべきだと、ほとんどの人が考えるでしょう。シンガーはここから、重要なもの、あるいはそれと同等のものを犠牲にせずに悪いことが起こるのを防げるなら、防がないのは悪い、という原理を引き出します。この原理には、相手が近くにいるか遠くにいるかという条件が入っていません。だから、同じようにわずかな負担で悲惨な状況から救える遠くの貧しい人にも、私たちは広い援助の義務を負う、とシンガーは論じます [1] [3] 。 (図 2) 近くの池:わずかな手間で救える 負担は靴が汚れるくらい 遠い国:寄付で救える 寄付 海の向こうへ 距離は原理に入らない 図 2 シンガーの池の例(本教材のたとえの絵)。上の絵は近くの池で溺れる子を、下の絵は海の向こうの子を寄付で救える場面です。シンガーの原理では、どちらも「大きな犠牲なしに悪いことを防げる」点で同じだとされます [3] 。 議論の筋を段に分けてみます。第一に、池の場面で救う義務を認めます。第二に、その義務を説明するのは「大きな犠牲なしに悪いことを防げる」という点だとします。第三に、距離や国籍はこの点を変えないとします。第四に、だから遠くの貧困にも同じ義務がある、と結論します。反論を立てるなら、第二と第三の段がねらい目です。本教材の作例として言えば、義務を生むのは目の前にいることや、自分しか救えないことではないか、という問い返しがありえます。SEP はシンガーへの批判の文献として、リヒテンバーグの著作を挙げています [1] 。 二つ目は、ポッゲの『世界の貧困と人権』(2002 年、第 2 版 2008 年)です。ポッゲによれば、先進国は貧しい人々に強制的な地球規模の秩序を押しつけ、その秩序は予見でき、避けることもできる大きな害を生んでいます。だから先進国にはその秩序を改める重い責任がある、とポッゲは論じます [1] [4] 。例として挙げられるのが、二つの国際的な特権です。借入の特権は、政府が国の名でお金を借り、国が返済の義務を負うことです。資源の特権は、政府が国の資源を誰にいくらで売るかを決められることです。実効的に権力を握った集団は、住民を本当に代表していなくても正統な政府と認められ、この二つの特権を使えます。そのため、利益を目当てに力で権力を奪う誘因が生まれ、抑圧的な政府が居座りやすくなる、とポッゲは見ます [1] [5] 。ポッゲにとって世界の貧困は、人道の義務を果たしていないという問題にとどまらず、害されないという消極的な権利の侵害なのです [5] 。 (図 3) シンガー:助ける 義務 ポッゲ:害をやめる 義務 型:積極的義務 (援助) 型:消極的義務 (不加害) 根拠:わずかな 犠牲で防げる 根拠:不正な 秩序への加担 例:池で溺れる子 例:資源と借入の 特権 問われる点:距離は 関係ないか 問われる点:貧困の 原因と言えるか 図 3 シンガーとポッゲの義務の型の比べ(本教材の整理。SEP による [1] [5] )。上から同じ観点の順に並べています。 シンガーは助ける能力に、ポッゲは問題への加担に、義務の根拠を置きます [1] 。ポッゲの議論には強い批判があります。批判者の多くも、世界の貧困が不正義であることは認めています。そのうえで、制度が貧困を「引き起こした」と言えるかを問います [5] 。パッテンは、理想の正義の下で貧しい人が得るはずの状態を、比べる基準にこっそり持ち込んでいると批判します。リッセは、関わりがなかった場合を基準にすると、人類の大半は歴史を通じて極度の貧困の中にあったので、豊かな国との関わりはむしろ貧しい人の富を増やしたとも見られる、と指摘します。J. コーエンは、開発経済学では地理や資源の配分、政治文化のような国内の要因も挙げられるのに、ポッゲの分析は「貧しい国の責任か、豊かな国の責任か」の二択になっていると論じます [5] 。ポッゲは、比べる基準は、これほど大きな人権の欠損を生まない合理的な別の制度の組み合わせだと応じています。この論争は、政治哲学と実証の社会科学が混ざり合う場所で続いています [5] 。 ここで間違えやすい ポッゲの議論を「豊かな国はもっと慈善をすべきだ」という主張と読むのは誤りです。ポッゲが言うのは、害を与えない義務に違反しているということで、助けないこと(不作為)を問うシンガーの議論とは義務の型が違います [1] [5] 。また、どちらの議論も、ここで紹介した範囲では、一人ひとりが具体的にいくら払うべきかまでを決めてはいません。 まだいない人への責任――将来世代の権利と非同一性問題 国境の次は時間の壁です。資源の使い方や国の借金、環境の扱いといった今の決定は、まだ生まれていない人の暮らしを左右します。けれども、いま存在しない人に権利があると言えるのでしょうか。SEP の「世代間正義」の項目は、この点への三つ