キティオンのゼノン――自然=理性に従って生きる(ストア派・アパテイア) — Epoché
古代 ヘレニズムとローマの哲学 約 17 分 本文 約 7,000 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 目的・善・情念の 3 つ 目的 ゼノンは生の目的を「自然と一致して生きること」とし、それは徳に従って生きることだとした、と伝えられる(『哲学者列伝』7.87)。ストア派の言う自然とは、世界を秩序づける理性(ロゴス)である。ただしストバイオスは「自然と」を付けたのはクレアンテスだと伝え、どちらが本人の言い方かは決められない。 善 善いのは徳だけ、悪いのは悪徳だけである。命・健康・富・評判は、幸福を左右しない「善でも悪でもないもの(アディアフォラ)」である。その中に、ふつうは選ぶのがふさわしい「選ばれるもの」、退けられるもの、どちらでもないものがある。この区別の筋が通るかは古代から論争がある。 情念 情念は、価値や、それへの反応についての誤った判断に関わる。典型は、病気や富を幸福を左右する善悪と思い込むことである。賢者はそこから自由であり(アパテイア)、それは無感動ではない。本当の善を喜び・願い、本当の悪を理性的に避ける「よい感情」はある。 はじめに ゼノンは、キュプロス島の町キティオンの人です。前 334 年ごろに生まれ、前 262 年ごろに亡くなったとされます。アテナイに来てキュニコス派のクラテスに学び、ソクラテスの対話篇を熱心に読みました。プラトンのアカデメイアやメガラ派からも影響を受けています [1] 。 前 300 年ごろ、ゼノンはアテナイの広場(アゴラ)に面した彩色柱廊(ストア・ポイキレー)で教えはじめました。学派の名「ストア派」は、この柱廊に由来します。学派は後継者のクレアンテス、クリュシッポスに受け継がれ、ローマ時代のセネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスまで続きました。 ゼノンの著作は、一つも完全な形では残っていません。私たちが読むのは、後代の書き手の報告です [1] 。この課では、ゼノンと初期ストア派が、よい生をどう考えたかを読みます。前の課のエピクロスと同じころ、同じアテナイで説かれた、もう一つの答えです。 この課の問い 健康や富がなくても、人は幸福でありうるのでしょうか。怒りや恐れから自由になるとは、何も感じない人になることなのでしょうか。ゼノンは、生の目的は「自然と一致して生きること」であり、それは徳に従って生きることだと説いた、と伝えられます。 この課のことば ロゴス ギリシア語で「ことば」「理(ことわり)」。ストア派では、世界全体に行きわたって世界を秩序づける理性のことで、神ゼウスと同じものとされます。人の理性はその一部です。 アディアフォラ ギリシア語で「どちらでもないもの」。善でも悪でもないもののことです。命・健康・富・評判と、その反対の死・病気・貧しさなどが入ります。 選ばれるもの(プロエーグメナ) 善でも悪でもないもののうち、自然にかない値打ちがあって、ふつうはその反対より選ぶのがふさわしいもの。健康・富・評判などです。善ではありません。 情念(パトス) 理性の言うことを聞かず行き過ぎた衝動。価値や、それへの反応についての誤った判断に関わります。苦痛(心の苦悩)・恐れ・欲望・快楽の四つに大きく分かれます。 アパテイア ギリシア語で「情念がないこと」。何も感じないことではなく、誤った判断による動揺がないことです。賢者は、本当の善を喜び・願い、本当の悪を理性的に避ける「よい感情」を持つとされます。 柱廊の哲学――自然=理性に従うとは、どう生きることか 前の課のエピクロスは、町はずれの庭園で友と暮らし、心の乱れのない生を説きました。ほぼ同じころ、アテナイの広場に面した彩色柱廊では、キティオンから来たゼノンが道行く人々に語っていました。この章では、自然と一致して生きるとは何か、なぜ徳だけが善なのか、情念から自由になるとはどういうことか、を順に見ます。 自然と一致して生きる――自然とは世界を治める理性 ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』は、ゼノンが『人間の本性について』で初めて、生の目的(テロス)を「自然と一致して生きること」と言った、と伝えます(7.87) [2] 。それは「徳に従って生きること」であり、自然が私たちを徳へと導くからだ、というのです。ただしストバイオスの伝えでは、ゼノンは「一致して生きること」とだけ言い、「自然と」は後継者のクレアンテスが付け加えたとされます [1] 。どちらが本人の言い方かは決められません。 短い言い方は、心が割れず、迷って揺れないこと、つまり自分自身と一致していることを表します [1] 。長い言い方は、さらに自分の理性を世界全体に合わせることを求めます。ここでの「自然」は野山のことではありません。世界全体に行きわたり、それを秩序づける理性(ロゴス)で、ストア派はこれをゼウスと同じものとしました (図 1) 。人の本性は全体の本性の一部なので、自分と一致することが、そのまま世界と一致することになります。この説明はクリュシッポスの説とみられます(7.87–88) [1] [2] 。 柱廊のゼノンと後代の書き手 理性(ロゴス)が世界に行きわたる ゼノン 聞き手たち 目的=自然と一致して生きる(7.87) 柱廊と人々の様子は本教材の絵 「ストア派」の名はこの柱廊から 数百年後の報告 後代の書き手 弟子の説と共に まとめて伝えた 著作は残らない 図 1 アテナイの彩色柱廊で語るゼノンと、数百年後にその言葉を書き留めた書き手です(本教材の絵)。ストア派の「自然」は野山ではなく、世界に行きわたる理性です。ゼノンの言葉は、後継者の説とまとめた後代の報告で読みます。 では徳とは何でしょうか。ストア派では、徳は人間の理性がすっかり完成した状態で、どの徳も知識の一種です。一つを持てば全部を持つとされます [1] 。だから自然と一致して生きるとは、よく考え、判断を正して生きることです。ストア派は哲学を論理学・自然学・倫理学に分け、卵や畑にたとえて一つの全体としました(7.39–40) [2] 。卵なら殻が論理学、白身が倫理学、黄身が自然学です。自然と一致して生きるには、世界を知ることが欠かせないのです。 ゼノンが哲学に入ったいきさつも、この考えに合う話として伝えられます。商人として航海中に難破し、アテナイの本屋でクセノフォン『ソクラテスの思い出』を読んだのがきっかけだったといいます(7.2–3) [2] 。のちに「難破したときに、よい航海をした」と語ったとされます(7.4) [2] 。すでにアテナイにいて難破を聞いたという異伝もあります(7.5)。 ここで間違えやすい 「自然に従う」を、文明を捨てて野山で暮らすことや、思いつくままに欲求を満たすことと取らないようにしましょう。ストア派の自然は世界を秩序づける理性で、従うとは判断を正すことです。ゼノンが学んだキュニコス派も、自然と訓練を重んじた人々でした。ストア派はそこに、世界の理性を知る自然学と論理学を組み合わせた、と本教材は整理します。 よいのは徳だけ――健康も富も「善でも悪でもないもの」 ストア派によれば、善いのは徳(思慮・正義・勇気・節制など)だけで、悪いのはその反対の悪徳だけです。命・健康・快楽・富・評判と、その反対の死・病気・貧しさ・不評は、善でも悪でもないもの(アディアフォラ)とされました(7.101–103) [2] 。熱いものの特徴が温めることであるように、善いものの特徴は益することです。ところが富や健康は、使い方しだいで益しもすれば害しもします。だから善ではない、というのです [1] 。 ここで「善でも悪でもない」とは、幸福を形づくるかどうかの意味です。健康が体に役立たない、という主張ではありません。徳は知識であり、知識は自分の判断にかかっているので、自分の力の内にあります。徳が幸福に足りるなら、幸福も自分の力の内にあります [1] 。アリストテレスは外の善も幸福に関わると考えましたが、ストア派はこれを退け、拷問にかけられていても徳ある人は幸福だ、とまで言いました(キケロ『善と悪の究極について』3.42) [1] 。 では、健康と病気のどちらでもよいのでしょうか。主流のストア派はそう考えませんでした。善でも悪でもないものは三つに分かれます (図 2) 。キケロによれば、ゼノンは、自然にかない値打ちのあるものを「選ばれるもの(プロエーグメナ)」と名づけました(3.51)。ふつうはその反対より選ぶのがふさわしいものです。反対が「退けられるもの」です。髪の数が奇数か偶数かのように、どちらでもないものもあります(7.104–106) [2] 。 善でも悪でもないもの 命・健康・富・評判とその反対。 幸福を増やしも減らしもしない 選ばれるもの 健康・富・評判など。自然にかない 値打ちがあり、ふつうは選ぶ 退けられるもの 病気・貧しさ・不評など。ふつうは 避ける どちらでもないもの 髪の数が奇数か偶数かなど。選びも 避けもしない 図 2 善でも悪でもないもの(アディアフォラ)の三つの分け方です(『哲学者列伝』7.104–106 の伝えによる) [2] 。善は徳だけ、悪は悪徳だけで、ここには入りません。上から、選ばれるもの・退けられるもの・どちらでもないものの順です。 これに対し、善でも悪でもないものはすべて全く同じだ、とする人々もいました。代表はキオスのアリストンです(7.160) [2] 。主流の説はこれを退けました。それでも古代の批判者は、健康が幸福に関わらないならなぜ求めるのか、関わるならそれは善ではないか、と迫りました。近年は、先を知らない私たちにとって、健康を選ぶことがゼウスの意志に従う責任ある仕方だから、と読む解釈もあります [1] 。 本教材の作例で考えましょう。二人の医者が正しく判断して手を尽くし、一人の患者は治り、もう一人は亡くなったとします。ストア派に従えば、判断と行いの善さで二人に違いはありません。患者の回復は、医者の幸福を増やしも減らしもしません。それでも、二人とも治すことを目指したのは正しいのです。 ここで間違えやすい 「健康も富もどうでもよいのだから、投げやりに生きよ」という教えだと取らないようにしましょう。主流のストア派は、健康などをふつうは熱心に求めるのがふさわしいとしました。どうでもよいのは、それが幸福を左右するかどうか、という一点だけです。 情念とアパテイア――動揺は誤った判断から生じる ストア派は情念(パトス)を、理性の言うことを聞かず行き過ぎた衝動、理性と自然に反する魂の動きと定めました。『哲学者列伝』はこれをゼノンの定義として伝えます(7.110) [2] 。情念は、価値や、それへの反応についての誤った判断に関わります。典型は、病気や富を、幸福を左右する善や悪だと思い込むことです [1] 。 心臓の病だと知って嘆くとき、私は「病気が今ここにあり、それは悪い」という考えに同意しています。けれども病気は、退けられるものではあっても悪ではありません。嘆きは評価の誤りなのです [1] 。情念は理性そのものの誤った同意から来るので、判断を正せば生じなくなります。 情念は四つに大きく分かれます (表 1) 。善と思うか悪と思うか、対象が今あるか先に来るかで分かれるのです(7.110–112) [1] [2] 。ここでの苦痛は心の苦悩のことで、体の痛みそのものは善でも悪でもないものに入ります。なお、情念を判断そのものとしたのはクリュシッポスで、ゼノンは判断に続く心の縮みや膨らみとした、とガレノスは伝えます。ガレノスは批判する側の伝え手です。 この表で分かること: 四つの情念は、善と思うか悪と思うか、対象が今か先かで分かれます。誤りは価値づけや反応の判断にあります。賢者には今ある悪へのよい感情がありません。賢者自身に悪徳がないからです。 情念 何をどう判断しているか 賢者のよい感情 欲望 先に来るものを善と思う 願い(ブーレーシス) 快楽 今あるものを善と思う 喜び(カラー) 恐れ 先に来るものを悪と思う 用心(エウラベイア) 苦痛(心の苦悩) 今あるものを悪と思う 対応するものはない 表 1 四つの情念と三つのよい感情(『哲学者列伝』7.110–116 の伝えによる) [1] [2] 。用心は、本当の悪を理性的に避ける感情です。 では賢者は何も感じないのでしょうか。そうではありません。賢者は、本当の善を喜び・願い、本当の悪を理性的に避ける「よい感情(エウパテイア)」を持ちます(7.116) [2] 。今ある悪へのよい感情がないのは、賢者自身に悪徳がないからです。同意の前に思わず起こる「前感情」は賢者にもある、とする説も後に生まれました [1] 。 後代のヒッポリュトスは、荷車につながれた犬のたとえを、ゼノンとクリュシッポスに帰しています [3] 。犬はついていこうとすれば自分から走り、そうでなければ引きずられます。原典は運命と意欲の一致の話です。本教材はこれを情念の説明に借ります (図 3) 。起こることを悪と思い込んで逆らうか、正しく判断して沿うかで、心の乱れが分かれます。変えられることを変えなくてよい、という意味ではありません。 ついて走る犬 起こることに沿う――乱れない 自分から行く 起こること(世界の成り行き) どちらの犬も同じ所へ行く 引きずられる犬 悪と思い込み逆らう――乱れる 動揺 行きたくない! 起こること(世界の成り行き) 情念への当てはめは本教材の応用 図 3 荷車につながれた犬のたとえです(本教材の絵)。一つ目は綱をたるませて自分からついて走る犬、二つ目は逆らって引きずられる犬で、どちらも行き先は同じです。ヒッポリュトスがゼノンとクリュシッポスに帰す後代の伝えで、原典は運命と意欲の話です。情念の説明に使うのは本教材の応用です。 ここで間違えやすい 英語の stoic から、ストア派の賢者を、感情を押し殺して耐える人と取らないようにしましょう。SEP はこれを戯画と呼びます [1] 。退けるのは誤った判断に関わる情念で、喜びのようなよい感情ではありません。 資料の注意:ゼノンの言葉はどう残ったか ゼノンの言葉は、ディオゲネス・ラエルティオス、ストバイオス、キケロなど後代の報告で伝わります [1] 。後継者のクレアンテス、クリュシッポスの説とまとめて報告されることが多く、どこまでがゼノン本人の説かを区別