ピコ・デラ・ミランドラ――人間は自分のあり方を選べる(人間の尊厳) — Epoché
近代 ルネサンスと科学革命 約 19 分 本文 約 7,800 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 生涯・選ぶ自由・調和の 3 つ 生涯 伯爵家の生まれで、ボローニャ、パドヴァ、フィレンツェ、パリで学び、23 歳で、他者の教説 402 と自分の名による 498 の計 900 の命題を印刷して、ローマでの公開討論を呼びかけた。教皇が討論を止め、命題は断罪され、31 歳で没した(SEP 1・2.1)。 選ぶ自由 『演説』で神はアダムに「定まった座も固有の姿も与えなかった」と語る。人は世界の真ん中に置かれ、自分の意志で獣へ堕ちることも、神的なものへ生まれ変わることもできる(『演説』文 18〜23)。ただし SEP の著者は、ピコの勧める行き先は人であることを超えて天使になることだと読み、近代の自由の宣言とする読みはカント以後のものだとする(SEP 2.4)。 調和 プラトンとアリストテレスは、言葉の上で食い違って見えても意味と中身では一致する、とピコは主張した。さらにアラビア・ユダヤの哲学やカバラまでを一つの交響にまとめようとした(『結論』・『演説』文 213・SEP 1・2.1)。 はじめに ジョヴァンニ・ピコ・デラ・ミランドラ(1463–1494)は、北イタリアのミランドラとコンコルディアを治める伯爵家に生まれた哲学者です [1] 。31 歳で亡くなるまでの短い生涯で、のちの時代に最もよく知られることになったのは、一つの演説の原稿でした。 ピコは 23 歳のころ、900 の命題をローマで印刷し、誰とでも公開で討論すると呼びかけました。その討論の幕開けに書いた演説は、教皇が討論を止めたため行われず、生前は出版されず、題もありませんでした。『人間の尊厳についての演説』という呼び名は、没後に付いたものです [1] 。 演説の冒頭で、神はアダムに語りかけます。定まった座も固有の姿も与えなかったので、お前は自分の選びで自分の姿を形づくるのだ、と [2] 。この場面は近代の自由と尊厳の宣言として読まれてきましたが、SEP の著者コペンヘイヴァーは、それをカント以後の読み方だと批判します [1] 。 当時、世界のものは石から植物、獣、人、天使、神へと上下の段に並び、それぞれに決まった座があると考えられていました。ピコの演説は、人だけをどの段にも固定しませんでした。では、段に固定されない人は、どこへ向かうのでしょうか。この問いへの答えをめぐって、読み方が二つに分かれます。 前の課のクザーヌスは、人が神をどこまで知りうるかを問いました。この課では、人間そのものが何なのかを、ピコの言葉と二つの読み方から考えます。 この課の問い 石や獣や天使には、それぞれ決まった居場所と姿があります。人にも、生まれたときから決まった位置があるのでしょうか。それとも人は、自分が何になるかを自分で選べるのでしょうか。選べるとしたら、どこへ向かって選ぶのでしょうか。 この課のことば 存在の階梯 石や植物から獣、人、天使、神へと、世界のものが上下の段に並んでいるという見方。中世からルネサンスに広く共有されました(本教材の説明)。 900 の命題(『結論』) ピコが 1486 年末にローマで印刷した、短い命題の冊子。他の人々や学派の名の下に並べた教説 402 と、自分の名で示した 498 を合わせて 900 あります。根拠は付けず、討論で守るための宣言でした。 『演説』 900 の命題の討論のために書かれ、行われなかった演説の原稿。題は没後に付きました。 調和(コンコルディア) 言葉の上では対立して見える学派も、意味と中身では一致している、という主張。ピコはプラトンとアリストテレスから始めて、あらゆる学派の調和をめざしました。 カバラ ユダヤ教の聖書解釈と神秘の伝統。ピコは『演説』で、ヘブライ語で「受け取ること」を意味する語だと説明します。キリスト教徒としてこれを初めて詳しく論じたのがピコでした。 ケルビム 天使の位の一つ。ピコは『演説』で、人はまずケルビムの生き方をまねて、上へ昇るべきだと説きます。 人間の尊厳――人は自分で自分の座を選べるのか 15 世紀のイタリアでは、ギリシア語の古典が読み直され、フィレンツェではプラトン主義が甦りつつありました。その中で 20 代の伯爵が、人間とは何かを、神がアダムに語る場面として描きました。この章では、生涯と 900 の命題の企て、アダムへの言葉、諸伝統の調和の順に読みます。 生涯と 900 の命題――ローマでの公開討論の計画 14 歳ごろボローニャで教会法を学び始め、2 年ほどでやめてフェラーラ、続いてパドヴァへ移ります。パドヴァの師エリア・デル・メディゴは、ユダヤ人で、イブン・ルシュド(アヴェロエス)の流れをくむアリストテレス学者でした [1] 。1482 年にパドヴァを去るころにはフィチーノのプラトン主義に惹かれ、1484 年にはポリツィアーノやロレンツォ・デ・メディチと手紙を交わしています。1485 年には、スコラ哲学の本拠パリにも渡りました [1] (図 1) 。 1463 年 ミランドラの伯爵家に生まれる 1477 年ごろ ボローニャで教会法を学ぶ 1480 年ごろ パドヴァで エリア・デル・メディゴに学ぶ 1484 年 フィレンツェの文人たちと交わる 1485 年 スコラ哲学の本拠パリへ 1486 年末 ローマで 900 の命題を 印刷・演説を書く 1487 年 討論の中止、900 の命題すべてが 断罪 1488 年 フランスで一時拘束、夏に トスカーナへ 1489 年 『ヘプタプルス』をロレンツォに 献じる 1494 年 11 月 17 日に没(31 歳) 1496 年 甥が遺稿集に「きわめて優美な 演説」として収める 1557 年 バーゼル版で『人間の尊厳に ついて』の題 図 1 ピコの生涯と、『演説』のその後です(年は SEP によります。1477 年ごろと 1480 年ごろは目安)。強調は討論が止められた年です。 こうして集めた学びを、ピコは一つの企てにまとめます。1486 年の末、ローマで 900 の短い命題を印刷し、翌年の初めに、誰とでも公開で討論すると呼びかけたのです [1] 。冊子は二つの部に分かれます。第 1 部の 402 は、トマス・アクィナス、イブン・ルシュド、プロクロス、カバラの学者たちなど、他の人々や学派の名の下に並べた教説です。第 2 部の 498 は、ピコが自分の名で示し、責任を負った命題でした [1] 。どれも短く、根拠は付いていません。討論で守り、また攻めるための宣言だったのです [1] 。 討論は開かれませんでした。教皇インノケンティウス 8 世は 13 の命題を審査させ、委員会は 7 つを断罪、6 つを疑わしいとしました。ピコが急いで書いた『弁明』は教皇をさらに怒らせ、900 の命題すべてが断罪されます。ピコはフランスへ逃れましたが、教皇の求めで一時捕らえられ、1488 年の夏にはロレンツォの客としてトスカーナに戻りました [1] 。1493 年には教皇アレクサンデル 6 世の赦しを得て、晩年はドミニコ会士サヴォナローラに傾きます。1494 年 11 月 17 日、フランス軍がフィレンツェに入ったのと同じ日に、31 歳で亡くなりました [1] 。 討論を始めるための演説は、語られないまま残りました。1496 年に甥のジャンフランチェスコが遺稿集を出したとき、扉の題は「きわめて優美な演説」にすぎません。『人間の尊厳について』という題が表に出るのは、1557 年のバーゼルの著作集です(中の頁には 1504 年版から) [1] 。甥は、叔父がこの演説を若気の過ちとして悔いていたとも伝えます。ただし甥の『伝記』は、叔父を世を捨てた聖人のように描くために手紙を選んで並べた、偏った伝え方だと SEP の著者は見ています [1] 。 ここで間違えやすい 『人間の尊厳についての演説』を、ピコがその題で書き、人々の前で行った名演説だと思わないようにしましょう。討論が止められたので演説は行われず、生前は出版もされず、題もありませんでした。「尊厳」の題は没後の付け方です [1] 。SEP の著者によれば、演説の主題はそもそも「尊厳( dignitas )」ではありません [1] 。主題は、次の節で見る天使への昇りでした [1] 。 アダムへの言葉――定まった座も、固有の姿もない 演説は、人間ほど驚くべきものはない、という古い言葉から始まります。では、なぜ驚くべきなのでしょうか。ピコは答えを、天地創造の場面に置きます [2] 。神は世界を作り終えたあと、その美しさを見て驚く者がほしいと思いました。けれども、すべての座はすでに上・中・下の段に割り振られ、新しい子に与える型も、座る席も残っていませんでした(『演説』文 12〜15) [2] 。そこで神は、自分だけのものを何も持てない者には、ほかの者たちに別々に与えたものすべてを共通に持たせる、と決めます(文 17) [2] 。 こうして神はアダムに、定まった座も、固有の顔も、特有の務めも与えなかったと語ります。アダムは自分の裁量で自分の本性を定め、下の獣へ堕ちることも、上の神的なものへ生まれ変わることもできるのです(文 18〜23) [2] 。獣は生まれたときから、これから持つものを母の袋から持って出てきます。最上の霊である天使も、初めから永遠の姿になっています(文 26〜27) [2] 。人だけが、まだ何者でもないまま生まれるのです。その人には「あらゆる生の芽」が植えられていて、どの種を育てるかで、植物にも、獣にも、天使にもなります(文 28〜30) [2] (図 2) 。ピコはこの人をカメレオンにたとえました(文 32) [2] 。 世界の真ん中に置かれた人 昇ることも できる 神的なものへ 堕ちることも できる 獣へ 知性の種→天使 理性の種→天の生き物 定まった座も 固有の姿もない 感覚の種→獣 植物の種→植物 錠前の印=定まった座 梯子と錠前は本教材の描き方 図 2 『演説』文 18〜30 の場面を絵にしたものです(本教材の絵)。ほかのものは梯子の段に定まった座を持ちますが、人だけはどの段にも固定されません。上への実線と下への点線は、上と下が同じ重さでないことを示します。段の者・種・獣と天使は原典の言葉、梯子の形と錠前は本教材の描き方です。 この場面は、近代の自由と人間の尊厳の宣言として読まれてきました。カント派の哲学史家テンネマンがピコにカントのような自由と尊厳の道徳を見て、1860 年にブルクハルトがこの読みをルネサンス像の柱にしました。新カント派のカッシーラー、1937 年のガリンの研究がそれを受け継ぎます [1] 。 SEP の著者は、ガリンらの通説に反して、この読みを退けます。演説は、人がなりたいものになれると言ったすぐ後で、人がなるべきものは人間ではなく天使だと告げるからです。まずケルビムの生き方をまね、道徳哲学・弁証術・自然哲学・神学、さらに魔術とカバラを経て、最後は神との一致の中で自分を失うことが、ピコの目標だったと著者は読みます [1] 。自由と尊厳を説く演説は、ピコではなくカント以後の私たちが書いたものだ、というのです [1] 。本教材は、冒頭の場面が選ぶ自由を語ることは原文どおりに認めつつ、その自由が向かう先を見落とさない読み方をとります。 ここで間違えやすい 「人は自分のあり方を選べる」を、どんな生き方を選んでもよいという今日の自己決定と同じだと取らないようにしましょう。ピコにとって獣への下りは「堕ちる」ことで、神的なものへの上りは「生まれ変わる」ことです。上と下は同じ重さではありません。近代の自由の先がけとして読むのは後代の、とくにカント以後の読み方です [1] 。 諸伝統の調和――プラトンとアリストテレス、そしてカバラ 『結論』の第 2 部は、調和を宣言する命題で始まります。自然についても神についても、プラトンとアリストテレスが、言葉では食い違って見えても、意味と中身では一致しない問いはない、というのです [1] 。ピコは同じ調和を、イブン・シーナーとイブン・ルシュド、トマスとスコトゥスのあいだにも見いだそうとしました [1] 。 ピコは「逆説」と呼びましたが、この主張は新しくありません。6 世紀の新プラトン主義者シンプリキオスは、アリストテレスを読む者は言葉だけでなく意味を見て、二人の調和を探すべきだと書いていました [1] 。ピコ自身も『演説』で、ボエティウスはこの調和を約束して果たさず、シンプリキオスも約束ほどには果たさなかった、と認めています(文 213〜214) [2] 。 『結論』で目立つ伝統は三つです (表 1) 。ペリパトス派は、キリスト教・イスラーム・ユダヤのスコラのアリストテレス主義を指すピコの呼び名です。プラトン派は、プロティノスからプロクロスまでの古代末の新プラトン主義です。そしてカバラです [1] 。ピコは『演説』で、カバラとは、モーセに与えられた律法の真の解釈が口から口へと受け継がれたものだと説明します(文 267) [2] 。これはピコによる説明で、伝承の道筋を歴史として確かめたものではありません。ピコはカバラに、三位一体とキリストの教えを見いだそうとしました [1] 。 この表で分かること: ピコが『結論』で一つに合わせようとしたのは、出どころも言葉も違う三つの伝統でした。 伝統 主な名 ピコが学んだ道 ピコが見たもの プラトン派 プロティノス・プロクロス フィチーノのフィレンツェ 存在の上へ昇る形而上学 ペリパトス派 トマス・イブン・ルシュド・マイモニデス パドヴァの師、注釈家カブロル スコラの神学と論証 カバラ ピコによれば、モーセからの口伝え イタリアのユダヤ人学者たちの訳と教え 聖書の言葉と神の名に隠れた教え 表 1 分け方と学んだ道は SEP によります [1] 。「ピコが見たもの」は本教材のまとめです。カバラの出どころは、ピコ自身の説明です(『演説』文 267) [2] 。 三つの伝統は、ピコの計画の中で一つの所へ向かいます (図 3) 。SEP の著者は、ピコの大きな計画を、魔術とカバラを用いて人が天使へと自分を変え、魂を救えると人々に説くことだったと読みます [1] 。アダムへの言葉の「昇ることもできる」は、