ウルストンクラフト――女性にも理性と教育の権利がある(女性の権利の擁護) — Epoché
近代 啓蒙思想 約 18 分 本文 約 7,500 字 図 4・表 1 原典 1 節 この課の要点 原因・目標・制度の 3 つ 原因 女性が弱く不幸に見えるのは、生まれつきではなく、女性を人間としてより「女」として見て、男性に気に入られるように育てる誤った教育のせいだ。豊かすぎる土に植えた花のように、美しさのために強さと役に立つ力が犠牲にされ、実を結ぶ前にしおれる(『女性の権利の擁護』序論)。同時に、女性自身にも態度を改めることを求めた。 目標 育てられる理性が人を獣から分ける印なら、女性もまず、性別にかかわらず「人間としての性格」を得ることを目ざすべきで、徳に性別はない。女性は見た目でなく自己統御と知識に自分の値うちを置く、理性ある自立した存在になれる(序論・SEP)。 制度 そのためには男女が共に学ぶ教育、自分で暮らしを立てる職、市民の権利と、女性自身の代表まで要る。結婚は財産の結びつきではなく、友情に基づくものに変わらねばならない。個々の女性の幸福と社会の道徳の立て直しは一つのことだ、とウルストンクラフトは考える(SEP)。 はじめに メアリ・ウルストンクラフトは、1759 年にロンドンで生まれたイギリスの著述家です [1] 。独学に近い形で学び、当時の女性に開かれたわずかな仕事を渡り歩いたのち、出版者ジョゼフ・ジョンソンのもとで書評と翻訳によって暮らしを立てます [1] 。 1790 年、バークが『フランス革命の省察』で恩人の牧師プライスを攻撃すると、彼女は反論の『人間の権利の擁護』を書き、政治の書き手として名を上げました [1] 。1791 年 9 月には『女性の権利の擁護』を書き始め、翌 1792 年に出します [1] 。同じ年の暮れに革命下のフランスへ渡り、1797 年、のちに『フランケンシュタイン』を書く娘メアリを産んで、その出産がもとで亡くなります [1] 。 この編のルソーの課では、人が法に従いながら、なお自分自身にしか従わず、自由でいられる社会の形を読みました。けれども、ルソーが思い描いた市民は男性だけでした [3] 。ウルストンクラフトは、その外に置かれた女性の側から、理性と教育と権利を問い直します。 この課では『女性の権利の擁護』の序論を中心に、女性を弱くしたものの診断、理性と徳に性別はないという主張、教育・職・代表の提案を、一つの章で読みます。 この課の問い 女性がか弱く見えるのは、生まれつきなのでしょうか。それとも、受けてきた教育のせいなのでしょうか。理性が人を獣から分ける印なら、なぜ女性だけが、理性を育てる教育と権利から外されてきたのでしょうか。 この課のことば 理性 ものごとを筋道立てて考え、何が正しいかを自分で見分ける力。ウルストンクラフトは、育てることのできる理性こそ人を獣から分ける印だとし、女性にも同じだけ与えられていると考えます。 自己統御 欲望や気分に振り回されず、理性で自分を治めること。ウルストンクラフトは、女性の値うちは見た目ではなく、この自己統御と知識から来るべきだと言います。 徳 人としての良い性格。ウルストンクラフトは、男の徳と女の徳の二種類があるという考えを退け、徳は一つで性別がない、と言います。 感受性 ものに感じやすく、涙もろく、繊細な心。十八世紀には女性の美点としてほめられましたが、ウルストンクラフトは、理性を育てないままほめられると、弱さの言いかえになる、と批判します。 たしなみ 裁縫・歌・ダンス・絵・外国語の片言など、娘が結婚相手に気に入られるために身につける芸事。ウルストンクラフトは、これが体と心の強さを犠牲にして教えられている、と言います。 女性の権利の擁護――女性が弱いのは自然のせいか、教育のせいか ウルストンクラフトは、バークへの反論『人間の権利の擁護』の中で、すでに家族と結婚の話に踏み込んでいました。人間の権利を求めるだけでは足りず、道徳の通った社会を望むなら、結婚の前と中での男女の関係が変わらねばならない、と考えたのです [1] 。そして 1791 年の秋に『女性の権利の擁護』を書き始め、1792 年に出しました [1] 。この章では、誤った教育の診断、徳に性別はないという主張、理性ある市民としての女性の姿を、順に読みます。 豊かすぎる土の花――女性を弱くしたのは誤った教育である ウルストンクラフトは、問いを二つに分けるところから始めます。人と人の間に見える大きな違いは、自然が作ったのでしょうか。それとも、これまでの文明がひどく偏っていたせいでしょうか(序論 第 1 段落) [2] 。彼女は後の方、つまり違いは作られたものだ、という側から論を進めます。 教育の本を読み、親と学校を観察した末に、彼女は確信します。不幸の大きな源は教育がなおざりにされていることで、とりわけ女性は、一つの 早まった結論 から生じた多くの原因によって弱く惨めにされている、と(同) [2] 。 早まった結論とは、男性の書いた教育書が、女性を人間としてより「女」として見て、理性ある妻よりも魅惑的な愛人に育てようとしてきたことです(同) [2] 。女性は人間の種の一部ではなく、ただ雌として扱われてきた、とも言います(第 2 段落) [2] 。 その結果を、彼女は豊かすぎる土に植えた花にたとえます。美しさのために強さと役に立つ力が犠牲になり、熟す前にしおれるのです(第 1 段落) [2] (図 1) 。花が弱いのは土のせいで、種のせいではありません。 豊かすぎる土の花 美しさのために強さが犠牲に 眺める目 実は結ばない 花の比喩は本人の文です ふつうの土で育った草 強く、役に立ち、実を結ぶ 風 倒れない 草の場面は本教材の描き方です 図 1 序論 第 1 段落の花のたとえの絵です(本教材の絵)。一つ目は派手に咲いても茎が弱く実を結ばない花、二つ目はふつうの土で育ち、風に倒れず実を結ぶ草です。比喩は本人の文で、草と眺める人は本教材の描き方です。 実際の娘たちの姿も同じです。彼女たちは人生の最初の年月を、 たしなみ の片言を覚えるのに費やします。体と心の強さは、結婚によって身を立てるという、女性が世に出るただ一つの道のために犠牲にされます(第 12 段落) [2] 。こうして作られた弱さは、強さの天敵である狡さと、相手を支配したがる気持ちを生みます。子どもじみたしぐさで欲望をそそりながら、敬意を失わせるのです(第 15 段落) [2] (図 2) 。 早まった結論 女性を人間より「女」として見る(序論 第 1・2 段落) 誤った教育 気に入られるための芸事。理性は 育てない(第 1・12 段落) 作られた弱さ 体と心の強さが美しさの犠牲になる(第 12 段落) 狡さと支配欲 人為の弱さが狡さと 子どもじみたしぐさを生む(第 15 段落) 「やはり弱い」 結果が生まれつきに見え、最初の結論が 裏づけられる 理性を育てる教育 性を問わず「人間としての性格」を得る (第 9 段落) 図 2 序論の診断を流れにしたものです(本教材の整理)。五つ目の段から一つ目へ戻ると、教育の結果が生まれつきに見えて、最初の結論が裏づけられたように思える悪循環になります。点線の段は、ウルストンクラフトが代わりに目ざす道です。 この診断は、一人一人の女性の不幸にとどまりません。娘を中身のない飾りに育てる親は、道徳の破れた社会を作り、その堕落は家族の中で次の世代へ受け継がれる、と彼女は見ていました [1] 。 ここで間違えやすい 男女には何の違いもない、と彼女が言い切ったと取らないようにしましょう。序論で彼女は、体の力では一般に男性がまさることを認め、「気高い特権」とまで呼びます(第 3 段落) [2] 。退けるのは、その差を口実に理性と徳まで劣るものとして女性を育てることです。また責めをすべて男性に向けたのでもなく、男性の崇拝に酔い、愛をかき立てることばかりに心を向ける女性の態度も批判し、女性自身にも変わることを求めました(第 1・3 段落) [2] 。 人間としての性格――理性と徳に性別はない では、女性はどう扱われるべきでしょうか。ウルストンクラフトは、育てることのできる 理性 こそ人を獣から高める尊い区別だ、という考えから出発します(序論 第 2 段落) [2] 。理性が人の印なら、女性もまず人間として扱われねばなりません。 そこで彼女は宣言します。女性を、永遠の子どものように一人で立てない者と見てその魅力をおだてるのではなく、理性ある被造物として扱いたい、と(第 8 段落) [2] 。心の感じやすさ、感情の繊細さ、趣味の洗練といった「女らしい」ほめ言葉は、ほとんど弱さの言いかえです。哀れみと、それに似た愛を受けるだけの者は、やがて軽蔑されるようになる、とまで言います(同) [2] 。当時の美点だった 感受性 への、正面からの批判です。 目標は次の一文に込められています。優美さは徳に劣り、ほめられるべき志の第一の目あては、性の区別にかかわらず「人間としての性格」を得ることだ、というのです(第 9 段落) [2] 。体の力の差から、女性がある程度男性に頼るのは避けられないとしても、なぜ「徳に性を与える」偏見でそれを大きくするのか、と彼女は問います(第 14 段落) [2] 。 徳 は一つで、男の徳と女の徳が別にあるのではありません。 「男まさりの女」という非難にも、彼女は言い返します。狩りや射撃や賭け事への熱中を指すなら、自分も非難に加わります。しかし人間の性格を高める才能と徳を身につけることを指すなら、女性が日ごとにもっと「男らしく」なってほしい、と言うのです(第 4 段落) [2] 。 教材の作例で考えてみましょう。同じ家の兄には「なぜそうなるのか、自分で考えなさい」と言い、妹には「考えなくていいから、にこにこして言われたとおりにしなさい」と言って育てます。十年後、兄は自分で判断し、妹は人の顔色を見て動くようになります。周りは「やはり女の子は理屈に弱い」と言います。ウルストンクラフトが指摘するのは、この「やはり」が、育て方の結果を生まれつきと取り違えていることです。 教育を受けた女性は、良い伴侶・妻・母・市民になり、何よりも理性に治められ、 自己統御 を持つ完全な人間になる、と彼女は考えました [1] 。ただし情念を押しつぶすのではありません。十分に育った人では、理性と情念と欲求が調和して働く、というのが彼女の見方です [1] 。 この主張は、当時の教育論、とりわけルソーの『エミール』(1762 年)への批判を含みます [1] 。自分で自分に課した法に従う自由を、ルソーは女性にまで広げませんでした。そこを突く批判だ、と読むのが本教材の読み方です。 ここで間違えやすい ウルストンクラフトが、女性は男性を手本にして女性らしさを捨てよ、と説いた、と取らないようにしましょう。彼女の言う「男らしく」は、狩りや賭け事をまねることではなく、人間の性格を高める才能と徳を得ることだと、本人がわざわざ断っています(序論 第 4 段落) [2] 。手本は男性ではなく、性別を問わない「人間としての性格」です(第 9 段落) [2] 。また、感情を捨てよと言ったのでもなく、理性と情念の調和を説きました [1] 。 教育・職・代表――理性ある市民として生きる 理性ある自立した女性になるには、教育が要ります。心と体の両方を鍛えることです [1] 。『女性の権利の擁護』は、学校の学科の具体的な改め方から、女性に市民と政治の権利を認め、女性自身の選んだ代表を持たせることまで、多くの提案を含みます [1] 。 教育の提案の中心は、第 12 章の国の教育の案です。男の子と女の子が、同じ学校で一緒に学ぶ昼間の学校を考えています(第 12 章) [2] (図 3) 。ただし、すべてを最後まで同じにするのではありません。9 歳を過ぎると、午後は進む道に合わせて、男女別に学ぶ案も添えています(同) [2] 。男女を初めから別の目的で育てるのとは、出発点が逆です。 批判された女子教育 鏡と刺繍と、閉じた扉 人に気に入られるように 男の子 の部屋 批判の要約を絵にした作例です 共に学ぶ教室(第 12 章) 男女が同じ学校で学ぶ案 3 + 4 = 7 なぜそうなるのか 自分で考えよう 男の子と女の子 9 歳を過ぎると午後は分かれる案も 図 3 二つの教室です(本教材の作例)。一つ目は、ウルストンクラフトが批判した女子教育の像で、鏡と刺繍の前に座る女の子の奥で、男の子の部屋の扉が閉じています。二つ目は第 12 章の案で、男の子と女の子が同じ机で学びます。ただし案には、9 歳を過ぎると午後は進む道に合わせて分かれて学ぶことも含まれます。人物とせりふは本教材の作例です。 次は暮らしです。女性は、夫を亡くしても自分と子どもを養えるよう技能を教えられ、お金のためだけに結婚や再婚をせずに済むようにすべきだ、と彼女は言います。助産を男性の手から女性に取り戻し、女性は看護だけでなく医師にもなれる、とも主張します [1] 。 本教材の作例を一つ挙げます。夫を急に亡くした二人の女性がいます。一人は芸事しか習っておらず、帳簿も読めず、子どもを養うために再婚を急ぐしかありません。もう一人は読み書きと算数と助産の技を学んでいて、働きながら子どもを育て、再婚するかどうかを自分で決められます。教育と職は、女性が自分の意志で生き方を選ぶための土台なのです。 そして政治です。女性は政治と人類全体の関心事にまで目を広げるべきで [1] 、女性にも自分たちの代表があるべきだ、という提案が第 9 章に出てきます [2] 。家族の中も変わらねばなりません。結婚は体の魅力ではなく友情に基づくべきで、夫婦は互いにある程度の慎みを保つのがよい、と彼女は書きます [1] 。 ここで彼女は、権利だけを求めたのではありません。権利には義務が伴います。しかし、自然の権利を認められていない者に、義務を果たせと求めることはできない、とも言います [1] 。理性ある女性は自分の本当の義務を見分け、見かけと限りない欲求の世界から離れられる、と考えたのです [1] 。 ここで間違えやすい ウルストンクラフトが、今日の意味での男女の完全な平等や、女性参政権の運動の綱領をそのまま掲げた、と取らないようにしましょう。彼女は序論で、偏見を育てなければ、女性は「従属した、しか