アリストテレス――正しい推論には形がある(三段論法) — Epoché
古代 アリストテレス 約 23 分 本文 約 10,200 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 定義・形・限界の 3 つ 定義 アリストテレスによれば、推論とは、いくつかのことが置かれると、それとは別の何かが、それらがそうであることによって必然的に帰結する言論である(『分析論前書』I.1、24b18–20)。前提が真なら結論が偽ではありえない、という現代の「妥当な論証」に近いが、結論が前提と別でなければならないなど、違いもある。 形 本課では、量をはっきり言う全称・特称と、肯定・否定を組み合わせた四つの型の言明を扱う(原典には量を言わない不定の言明もある)。三つの項のうち中項が二つの前提をつなぎ、その並び方が三つの格になる。アリストテレスは項に Α・Β・Γ の文字を当て、「Α がすべての Β に、Β がすべての Γ について述べられるなら、Α はすべての Γ について述べられる」と、中身を抜いた形で書く(『分析論前書』I.4、25b–26a)。 限界 形が正しくても、前提が偽なら結論の真は保証されない。アリストテレス自身、ただの推論と、真で第一の前提からの論証(アポデイクシス)を分ける。また、ある前提の組から推論が成り立たないことを、具体的な項の組(反例)を挙げて示した。現代の論理学から見ると、文と文の結合を扱わないなどの限りもある。 はじめに アリストテレスは、前 384 年ごろ、マケドニアに近い北ギリシアの町スタゲイラに生まれました [3] 。17 歳ごろアテナイに出て、前 347 年にプラトンが亡くなるまで、およそ二十年をプラトンの学園アカデメイアで過ごします [3] 。その後アテナイを離れた時期を経て、前 335 年ごろ再びアテナイに戻り、自分の学園リュケイオンを開きました [3] 。没年は前 322 年ごろです [3] 。 アリストテレスの仕事は、自然学・形而上学・倫理学・政治学と、とても広い範囲に及びます。その中で、論理学にかかわる六つの著作は、後代の注釈家たちによって「オルガノン(道具)」の名でまとめられました。これは本人がつけた書名ではありません [1] 。学問を進めるための道具、という見方がこの名に込められています。 この課で読むのは、その一つ『分析論前書』です。SEP は、アリストテレスの論理学の著作を、私たちの手に残る最も古い論理学の形式的な研究だとしています [1] 。最も古いのに、すでに高度に仕上がった理論で、何世紀にもわたって大きな敬意を集めました。カントは、アリストテレス以来、論理学に大事なものは何も加わっていないとまで考えたほどです [1] 。 この課では、まずアリストテレスが「推論」をどう定義したかを見ます。次に、推論の正しさが話の中身ではなく組み立ての「形」で決まることを、本人が項に文字を当てて書いた箇所から確かめます。最後に、形の正しさだけでは何が保証されないのか、そして形が成り立たないことをどう示すのかを考えます。 この課の問い ある話が「筋が通っている」とき、正しいのは中身なのでしょうか、それとも話の組み立てなのでしょうか。前提を認めたら結論も認めざるをえない、という強制の力は、どこから来るのでしょうか。 この課のことば 推論(シュロギスモス) いくつかのことが置かれると、それとは別の何かが必然的に出てくる言論。語のもとは「ともに」と「数える・推し量る」で、数え合わせて答えを出すような働きです。日本語では「三段論法」と訳されることが多いのですが、アリストテレスの語はもっと広い意味です。 前提と結論 推論のはじめに置かれる言明が前提(プロタシス)、そこから必然的に出てくるものが結論(シュンペラスマ)です。「すべての人間は動物である」のように、何かについて何かを肯定するか否定します。 項と中項 言明を主語と述語に分けたときの語が項(ホロス)で、「人間」「動物」などです。二つの前提に共通して出て、結論には出ない項を中項と呼びます。ほかの二つの項(端項)をつなぐ橋の役をします。 全称と特称 「すべての〜は」「どの〜も…ない」と全体について言うのが全称、「ある〜は」と一部について言うのが特称です。 格(スケーマ) 中項が二つの前提で主語の位置に来るか、述語の位置に来るかによる、推論の三つの並び方です。「格」の語はアリストテレス自身が使っています。 完全な推論 置かれたこと以外に何も足さなくても、必然的に出てくることがそのまま見える推論。第一格の推論がこれにあたります。 推論の形――結論は何によって「必然的に」出てくるのか 前の編で読んだソクラテスは、問いと答えのやりとりで、相手の考えを確かめました。プラトンは、見えるものから変わらないものへと昇っていく道を語りました。けれども、問答の中で「だからこうなる」と言われたとき、なぜそれを認めざるをえないのか。前の編の課では、この問いそのものには踏み込みませんでした。 プラトンの学園で学んだアリストテレスは、この問いに、話の中身ではなく、話の組み立ての「形」から答えようとします。この章では、推論の定義、推論の形、そして形の正しさの限りを、順に見ていきます。 推論とは何か――置かれたことから、別のことが必然的に出てくる言論 アリストテレスは『分析論前書』I.1 で、推論(シュロギスモス)を次のように定義します。「いくつかのことが置かれると、置かれたものとは別の何かが、それらがそうであることによって必然的に帰結する言論(ロゴス)」(24b18–20) [1] [2] 。置かれたものが前提(プロタシス)、必然的に帰結するものが結論(シュンペラスマ)です [1] 。アリストテレスは続けて、「それらがそうであることによって」とは、帰結が生じるのに外から何の項も足す必要がないことだ、と言い足します(I.1) [2] 。 定義の核は「必然的に帰結する」という言い方です。SEP は、これを現代の「論理的帰結」に近いものと読みます [1] 。前提がすべて真で結論が偽、ということがありえないとき、結論は前提から必然的に帰結します。この意味で、この定義は「妥当な論証」一般の定義と言えます [1] 。 ただし、現代の定義とまったく同じではありません。一つ目に、帰結するものは置かれたものと「別」でなければなりません。前提をそのままくり返すだけの論証は、推論になりません。二つ目に、「いくつかのこと」と複数形で言うので、前提が一つだけの論証を除くと読んだ古代の注釈家もいました。三つ目に、「それらがそうであることによって」の一句を、前提と結論の関わり(関連性)を求めるものと読む解釈もあります [1] 。 シュロギスモスは、日本語の「三段論法」や英語の syllogism より、ずっと広い語です。SEP によれば、アリストテレスの定義からすると「妥当でない推論」という言い方は、それ自体が矛盾です [1] 。そのため SEP の筆者は、この語を syllogism でなく deduction (演繹)と訳します。アリストテレスは、広い意味の妥当な論証はみな、後で見る「格」の中の推論か、その連なりに直せる、と論じようとしました [1] 。 では、なぜ正しさは形で決まるのでしょうか。本教材の作例で考えます (図 1) 。菓子職人が、同じ木の型に、ある日はきれいな生地を、別の日は傷んだ生地を詰めます。型が正しく彫られていれば、何を詰めても型どおりの形が出てきます。ただし、ただし、傷んだ生地を詰めれば、形はきれいでも、食べられる保証のない菓子ができます。推論の形は型に、前提の中身は生地にあたります。 きれいな生地を詰める 前提 前提 結論 すべての人間は動物 すべてのギリシア人は人間 すべてのギリシア人は動物 型は同じ きれいな生地 型どおりの菓子 傷んだ生地を詰める 前提 前提 結論 偽 偽 すべての鳥は空を飛ぶ すべてのペンギンは鳥 すべてのペンギンは空を飛ぶ 型は同じ 傷んだ生地 形は同じ ペンギン 図 1 推論の形を、菓子の型にたとえた絵です(本教材の作例)。一つ目の絵では、正しい前提を詰めると、型どおりの正しい結論が出てきます。二つ目の絵では、偽の前提を詰めると、形はまったく同じでも、この例では出てくる結論も偽になっています(偽の前提から、たまたま真の結論が出ることもあります)。 正しい並び方(妥当な形)なら、中に入る語をどう取り替えても、前提が真なのに結論が偽という例は出てきません。逆に、ある並び方について一つでもそういう例が見つかれば、その並び方からは結論が必然的には出てきません。これは三つ目の節で見ます。正しさは、個々の中身でなく、並び方そのものについて確かめられるのです。 アリストテレスは推論のほかに、個々のものから普遍へ向かう「帰納(エパゴーゲー)」も議論の一つの種として認めます。ただし、それについては多くを語りません [1] 。SEP によれば、帰納、あるいはそれによく似た働きは、『分析論後書』で、学問の論証できない第一の原理を知る基になります [1] 。この課で扱うのは推論のほうです。 ここで間違えやすい 二つの誤解に気をつけましょう。一つは、シュロギスモスを、「大前提・小前提・結論」の三行で書く特定の形式のことだけだと取ることです。アリストテレスの定義はもっと広く、必然的に帰結する論証一般を言います。もう一つは、推論が「正しい」とは結論が真であることだ、と取ることです。正しいのは前提から結論への組み立てで、前提が偽なら結論も偽でありえます。これは三つ目の節で見ます。 三段論法の形――四つの言明、三つの項、第一格の完全な推論 アリストテレスによれば、真か偽かを言える言明はどれも、一つの主語について一つの述語を肯定するか、否定するかです [1] 。「かつ」「または」で結んだ文は、一つの言明とは認められません [1] 。主語が「人間」のような普遍のとき、述語は「すべて」について言われるか、「ある」ものについて言われます [1] 。 本課では、量をはっきり言う全称・特称と、肯定・否定を組み合わせた四つの型を扱います (表 1) 。全称肯定「すべての S は P である」、全称否定「どの S も P でない」、特称肯定「ある S は P である」、特称否定「ある S は P でない」です。なお原典には、「すべて」とも「ある」とも言わない不定の言明も挙がっています(『分析論前書』I.1) [1] [2] 。 この表で分かること: 本課で扱う言明は、全称か特称か、肯定か否定かの二つの分け方で四つの型になり、アリストテレスは「属する」という言い方でそれらを書きます(原典には量を言わない不定の言明もあります)。 言明の型 ふつうの言い方 アリストテレスの言い方 例 後代の呼び名 全称肯定 すべての S は P である P がすべての S に属する すべての快楽は善である A 全称否定 どの S も P でない P がどの S にも属さない どの快楽も善でない E 特称肯定 ある S は P である P がある S に属する ある快楽は善である I 特称否定 ある S は P でない P がある S に属さない ある快楽は善でない O 表 1 言明の四つの型(本教材の整理)。例は形を示すためのもので、快楽についてのアリストテレスの主張ではありません。A・E・I・O は後代の呼び名です。 アリストテレスは『分析論前書』で、「P が S について述べられる」の代わりに「P が S に属する(ヒュパルケイン)」という、少し人工的な言い方をよく使います。SEP は、これを術語として読むよう勧めます [1] 。表の中ほどの列が、その書き方です。 推論は、二つの前提が一つの項(中項)を共有し、結論がほかの二つの項(端項)を結ぶものです [1] 。結論の述語になる項を大項、主語になる項を小項と呼びます [1] 。中項が一方の前提では主語、他方では述語になるのが第一格、両方で述語になるのが第二格、両方で主語になるのが第三格です [1] 。 第一格について、アリストテレスは、最後の項が中の項の全体のうちにあり、中の項が最初の項の全体のうちにある(またはない)とき、端の項について完全な推論が必然的に成り立つ、と言います。そして項にギリシア文字を当てて、「Α がすべての Β について、Β がすべての Γ について述べられるなら、Α はすべての Γ について述べられる」と書きます(『分析論前書』I.4、25b–26a) [2] (図 2) 。 アリストテレスの 書き方 中身を入れると Α がすべての Β に 属する すべての人間は 動物である Β がすべての Γ に 属する すべての ギリシア人は 人間である ゆえに Α がすべての Γ に属する ゆえにすべての ギリシア人は 動物である Barbara は、この第一格の推論に中世がつけた「式の 名」で、アリストテレスの語ではありません。 図 2 第一格の推論を、アリストテレスの文字の書き方と、中身を入れた形で並べたものです。Α に動物、Β に人間、Γ にギリシア人を入れています(中身の語は本教材の作例)。Β が二つの前提をつなぎ、結論から消える中項です。 文字を使うことで、どんな語を入れても成り立つ「形」だけを示せます。教科書で A・B・C と書かれるのは、ギリシア文字の Γ を C に置き換えたものです。完全な推論とは、置かれたこと以外に何も足さなくても、必然的な帰結が見える推論です(I.1) [1] [2] 。ほかの格の推論は、主語と述語を入れ替える「換位」や、結論の否定を仮定して不可能を導く「背理」を使って、第一格に直して示されます [1] 。 換位の決まりを、アリストテレスは快楽と善の例で示します。「どの快楽も善でない」なら「どの善も快楽でない」。「すべての快楽は善である」なら、「ある善は快楽である」とまでは言えますが、「すべての善は快楽である」とは言えません。「ある快楽は善である」なら「ある善は快楽である」(『分析論前書』I.2、25a) [2] 。さらにアリストテレスは、すべての推論が第一格の二つの全称の推論に直せることを示しました。SEP は、これを現代の公理系の考え方に近いとみます [1] 。 ここで間違えやすい 「すべての人間は死ぬ。ソクラテスは人間である。ゆえにソクラテスは死