ルソー――人は一般意志に従うことで自由になる(自然状態・社会契約) — Epoché
近代 啓蒙思想 約 28 分 本文 約 12,000 字 図 6・表 2 原典 2 節 この課の要点 自然・不平等・契約の 3 つ 自然 はじめの人は、ほかの人を必要とせず、ほとんど一人で暮らし、身を保つ自己愛と、他の者の苦しみを嫌う憐れみを持っていた。人を他の動物から分けるのは、本能に縛られない自由と、学んで変わっていく完成可能性である。ルソーはこれを、歴史の復元ではない推測の物語として描く(『人間不平等起源論』)。 不平等 人が集まって住むと、比べ合う自尊心が生まれる。農業と冶金、最初の私有とともに、持つ者と持たない者の不平等と依存が深まる。争いの不安から皆が国家と法に同意するが、それは富む者の利益に導かれ、不平等を固める偽りの契約だった(『人間不平等起源論』)。 契約 『社会契約論』は、各人が自分のすべてを自分も入る共同体全体に与える契約によって、皆の力で各人を守りながら、各人が「自分自身にしか従わず」以前と同じく自由でいられる形を探す(第 1 編 第 6 章)。自分が自分に課した法に従うことが道徳の自由だという(第 8 章)。ただし「自由であるよう強制される」(第 7 章)の言葉は、今も読み方が争われる。 はじめに ジャン=ジャック・ルソー(1712〜1778)は、独立した都市国家ジュネーヴの時計職人の子に生まれ、古代の共和政の歴史を読んで育った、と本人は後に語っています [1] 。16 歳で故郷を出て各地を転々とし、やがてパリでディドロらの『百科全書』に寄稿しました [1] 。 1749 年、獄中のディドロを訪ねる途中で懸賞論文の課題を新聞で目にし、人は生まれつき善いのに社会によって堕落する、という考えが一挙に浮かんだ、と後に書いています [1] 。こうして書いた『学問芸術論』で名を上げ、1755 年に『人間不平等起源論』を出します [1] 。 1762 年に出した『エミール』と『社会契約論』は、ジュネーヴなどで宗教の異端として断罪され、ルソーは逮捕を逃れてスイス、さらにイングランドへ渡りました [1] 。1778 年に没し、1794 年、革命政府が遺骸をパンテオンに移しました [1] 。 前の編のロックは、自然状態にも理性の法があり、人は所有を守るために同意で政府をつくる、と論じました。ルソーは、その自然状態の描き方から問い直します。第 1 章では『人間不平等起源論』で不平等の生まれを、第 2 章では『社会契約論』で、法に従いながら自由でいられる国家の形を読みます。 この課の問い 人が自然のままだったころ、本当に争いや所有はあったのでしょうか。不平等はどこから生まれたのでしょうか。そして、他人と力を合わせて生きるしかない今、人はどうすれば、法に従いながら、なお自分自身にしか従わず、自由でいられるのでしょうか。 この課のことば 自然状態 社会も言葉も所有も生まれる前の、人のはじめの状態。ルソーは実際の歴史ではなく、推測の物語として描きます。 自己愛({fr:amour de soi}) どの生き物にもある、自分の身を保とうとする本能。 憐れみ({fr:pitié}) 他の者(動物も含む)が苦しむのを嫌い、自分の身を危うくしない限りで、その苦しみを和らげようとする気持ち。 自尊心({fr:amour-propre}) 人と比べて自分がどう見られるかを気にし、認められたい、さらに人より上に見られたい、と求める気持ち。人が集まって暮らし始めてから生まれます。 一般意志 市民の団体を一つの全体として見たときの意志。共通の利益だけを見て、法の源になります。 全体意志 各人が自分の利益を求める意志(特殊意志)を、ただ足し合わせたもの。共通の利益を見る一般意志とは別のものです。 自然状態と不平等――人は生まれつき善いのに、どこで鎖につながれたのか ルソーは、自分の考えの中心には一つの考えがある、と繰り返し言いました。人は生まれつき善いが、社会によって堕落する、という考えです [1] 。それを最も詳しく展開したのが『人間不平等起源論』(1755 年)です [1] 。この章では、その筋を三つの段に分けて読みます。この本の言葉は、本教材の要約で示します。 自然の人――孤独で、自己愛と憐れみだけを持つ はじめに断っておくことがあります。ルソーは、自分が語る人類のはじめの姿を、実際にあった歴史の復元ではない、と断っています [1] 。人の心のうち、何が生まれつきで、何が社会のなかでつくられたのかを見分けるための、推測の物語です。ノイハウザーは、この物語をまさにそのための哲学の道具だと読み、ケリーは別の読みを示しています [1] 。 その物語によれば、はじめの人は、ほとんど一人で暮らしていました。食べ物や住まいを得るのに、互いを必要としないからです [1] 。ルソーはこの人を、樫の木の下で腹を満たし、最初に見つけた小川で喉をうるおし、食事をくれたその木の根もとで眠る者として描きます(『人間不平等起源論』第 1 部) [2] (図 1) 。たまたま出会えば子をつくり、子育ても短いものです [1] 。 自然の人:ほとんど一人で、足りている 『人間不平等起源論』第 1 部 自己愛:身を保つ 憐れみ:苦しみを嫌う 樫・小川・寝床は本人の描写。 小鹿と札は本教材の描き方。推測の像です。 図 1 『人間不平等起源論』の自然の人を絵にしたものです(本教材の絵)。樫の木の下で一人で足りていて、遠くの人とは離れ、互いを見ていません。囲いも家もなく、他人と比べる目もありません。 この人には、二つの情念があります。一つ目は 自己愛 です。どの生き物にもある、身を保とうとする本能で、食べ物・住まい・暖かさへ、まず目を向けさせます。 二つ目は 憐れみ です。自分の身を危うくしない限りで、他の者の苦しみを和らげようとさせる気持ちで、相手には動物も含まれます [1] 。『人間不平等起源論』では、憐れみは自己愛と並ぶ、もう一つの元の衝動とされます [1] 。どちらの情念も、他人と比べる気持ちを含まない点が大切です(本教材の読み方)。 では、この人は動物と何が違うのでしょうか。ルソーの答えは二つだけです。一つは 自由 で、本能の促しを退けることのできる力です。ルソーは動物を、決まった型どおりに動く仕組みのように描き、人はどんな暮らし方にも縛られない、と対比します [1] 。 もう一つは 完成可能性 で、学んで、欲求を満たす新しい手段を見つけていく力です [1] 。この二つは、人を理性と道徳へ導きえます。しかし同時に、欺きと依存と支配の社会へ人を落とす力にもなります [1] 。 ルソーは、ホッブズが自然の人に、社会のなかで生まれた情念を持ちこんで、自然状態を戦いとして描いた、と批判したと読まれています。互いに疑い合い、先に襲う人と、樫の下で足りている人とは、まるで違う姿です。ルソーから見れば、ホッブズは森の人を語りながら、実は社会の人を描いていたことになります(本教材の言い換え)。 ここで間違えやすい 「自然に帰れ」がルソーの教えだ、と取らないようにしましょう。この標語はルソーの著作の文ではなく、後の人の要約の言葉だとよく言われます。ルソーの自然の人は、社会の人の心を測るための推測の像です。また、自然の人が道徳的に善い聖人だ、というのでもありません。その善さは悪がないという消極のもので、本当の道徳は、理性と良心が育つ社会の後にしか生まれません [1] 。 「これは私のものだ」――私有の始まりと、比べ合う自尊心 人口が増えると、狩りのような単純で不安定な協力が生まれ、やがて小さな定住の共同体ができます。ルソーは、ここを人の歴史で最も大事な移り目とします [1] 。 集まって暮らすと、人は相手に選ばれようと競い始めます。すると、自分が他人の目にどう映るか、競う相手と比べてどうかを気にするようになります。こうして生まれるのが 自尊心 です。他人から価値を認められたい、さらに他人より上に見られたい、と求める気持ちです [1] 。『人間不平等起源論』では、自尊心はあらゆる悪の源のように描かれ、長くそう読まれてきました。近年は、堕落の原因であると同時に、うまく育てれば救いにもなる、という読みもあり、デントやノイハウザーが唱え、マクレンドンが反論しています [1] 。 自尊心が本当に害をもつのは、物の面での依存と結びついたときです。農業と冶金が始まり、最初の私有が定まると、土地を持つ者と持たない者の不平等が生まれます [1] 。下の者は生きる手段のために上の者を要し、上の者は働き手と、欲しくてたまらない承認のために下の者を要します。互いに本心を偽る動機が生まれ、人は自分自身から離れていきます [1] 。この世界では、下の者にへつらわれる上の者でさえ、自尊心を満たせません。ルソーは本の終わり近くで、他人にへつらって望みを得るうちに、自分自身を見失う大臣の姿を描いています [1] 。 この移り目を、ルソーは一つの場面に凝縮しました (図 2) 。土地を囲って「これは私のものだ」と言うことを思いつき、それを信じるほど素朴な人々を見つけた最初の者こそ、政治の社会を本当につくった人だった、という一節です。誰かが杭を抜いて、大地は誰のものでもないと叫んでいたら、と嘆く言葉も続きます。どちらも、よく引かれる箇所です。ただしルソー自身、所有の観念は、技術と知識と相互の依存が長く積み重なって、はじめて生まれたと続けています [2] 。囲いの場面は、その長い歩みを一息に示す修辞です。 私有の始まり:囲い、言い、信じられる 『人間不平等起源論』より これは私のものだ そうなのか 詐欺師の言う ことを聞くな。 大地は誰の ものでもない (そう叫ぶ者が いたなら) 言葉は本人の文の要約。 人数・身ぶり・木槌は本教材の描き方。 図 2 私有の始まりを絵にしたものです(本教材の絵)。中心にあるのは、囲った人の宣言と、それを信じた人々の素朴さです。薄く描いた人影は、杭を抜いて叫ぶ者がいたなら、というルソーの仮定の人です。 前の編で読んだロックは、労働を混ぜた物はその人のものになり、所有は政府より前からある権利だ、としました。ルソーでは、所有は社会の歩みのなかで生まれたものです(本教材の読み方)。 ここで間違えやすい ルソーが私有をすべて悪とし、廃止せよと説いた、と取るのは誤りです。ルソーは、所有と依存のある社会を元に戻せるとは考えませんでした。『社会契約論』では、法によって所持を正当な所有に変える道を探します(第 1 編 第 8 章) [3] 。また、囲いの場面を、私有が始まった日の記録と読むのも誤りです。長い歩みを縮めた、推測の物語の一場面です [1] [2] 。 偽りの契約から根本の問題へ――「至る所で鎖につながれている」 依存し合う人々の間に争いが絶えなくなると、その不安から、皆が国家の権威と法を立てることに同意します。しかしそれは、不平等で搾取の関係を、法と国家の力で固めることでした [1] 。SEP は、ここにロックの響きとマルクスの先取りを見て、この国家を、富む者の共通の利益に導かれた一種の階級国家と呼びます [1] 。 なぜ持たない者まで同意したのでしょうか。戦いへの目の前の恐れから、新しい国家が自分たちを損なうことに目を向けなかったからです [1] 。ルソーは、争いで最も失うものの多い富む者が、皆を守るという名目で法と権力を持ちかけ、人々は自由を確かにするつもりで、自分の鎖の方へ駆け寄った、と描いたとされます (図 3) 。 自然状態 ほとんど一人で、自己愛と憐れみだけを 持つ 集まって住む 相手と比べ合い、自尊心が生まれる 最初の私有 農業と冶金。持つ者と持たない者が 分かれる 争いと不安 富む者が、皆を守る法と権力を 持ちかける 偽りの契約 皆が同意し、不平等が法と国家で固まる 根本の問題 力を合わせ、なお自分自身にしか 従わない形は? 図 3 『人間不平等起源論』の推測の物語の流れです(本教材の整理)。点線の段は、この物語の先で『社会契約論』が立てる問いです。実際の歴史の復元ではありません [1] 。 教材の作例で考えてみましょう。村で畑の境をめぐる争いが続き、大きな畑を持つ人が、皆で決まりを作り見張りを置こう、そうすれば誰の畑も守られる、と持ちかけます。争いに疲れた小さな畑の人も賛成します。しかしその決まりは、今ある境をそのまま正しいものとし、畑を持たない人には守るものがありません。皆が同意したのに、不平等は前より固くなりました。偽りの契約は、この同意の形に近いものです。 『社会契約論』(1762 年)は、「人は自由なものとして生まれたが、至る所で鎖につながれている」という言葉で始まります [1] 。すぐ後でルソーは、その鎖を正当なものにできるかもしれない、と逆説めいたことを言います [1] 。鎖をすべて断ち切れ、とは言わないのです。 後戻りはできないからです。人の必要は広がり、もはや一人の力では満たせず、他人との協力に頼るしかありません [1] 。ここからルソーの問いが絞られます。求められるのは、皆の共同の力で各人の身と財産を守り、しかも各人が全員と結びつきながら自分自身にしか従わず、以前と同じく自由でいられる結びつきの形です。これが、社会契約が答える根本の問題です(『社会契約論』第 1 編 第 6 章) [3] 。この箇所は、原典を読むでルソーの言葉で読みます。 ここで間違えやすい ルソーが、国家や法はすべて悪で要らない、と考えたと取るのは誤りです。退けるのは、不平等を固めた今ある国家の成り立ちで、『社会契約論』は正しい国家の条件を示そうとします [1] 。ただし SEP は、その条件が今ある国家のほとんどで満たされないので、ルソーは事実上、哲学的な無政府主義に近い、という読みも伝えています [1] 。 社会契約と一般意志――法に従いながら、自分自身にしか従わない自由はありうるか 『社会契約論』は、個人の自由と国家の権威をどう両立させるかという、政治の根本の問いに答えようとします [1] 。鍵は 一般意志 、つまり市民の団体を一つの全体として見たときの意志です。各市民がその法を自分で意志しているなら、法に従うことは自分の意志に従うことで、人は自由なままでいられる、とルソーは言います [1] 。 全部を与える契約――全員に自分を与える者は、