リクール――人は物語を通して自分を理解する(物語的自己同一性) — Epoché
現代 解釈学と批判理論 約 17 分 本文 約 6,900 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 区別・筋立て・引受の 3 つ 区別 人の同一性には、変わらないものの同一性(イデム)と、変化をくぐって保たれる同一性(イプセ)の二つがある。性格では二つがほぼ重なり、守られた約束では、性格や好みの変わらなさに頼らずに自分が保たれる、とリクールは言う(『他者のような自己自身』第 5 研究)。 筋立て 物語は、ばらばらな出来事や偶然を一つのたどれる話にまとめ、思いがけない出来事にも話の中の位置を与える(不協和を含んだ協和。『時間と物語』I 第 1 部)。人物の同一性も筋とともに作られ、この働きが二つの同一性をつなぐ(『他者のような自己自身』第 6 研究)。 引受 人は自分の人生の物語のただ一人の作者ではなく、生まれと死は人に語られ、人生は人の物語と絡み合う。それでも物語を語り直すことで自分を理解し、自分の行いを語って責任を引き受ける「誰か」になる、とリクールは言う(第 6 研究)。 はじめに ポール・リクール(1913〜2005)は、20 世紀のフランスの哲学者です。第二次世界大戦では捕虜となり、終戦までドイツの収容所で過ごしました。収容所でもヤスパースを読み、フッサールの訳を本の余白に書きためています [1] 。 リクールは意志の現象学から出発し、悪の象徴と神話を読む仕事を「象徴は考えさせる」という言葉で結びました [1] 。そこでリクールは、心の内をまっすぐのぞいても自分は分からず、自分を理解するには文学の伝統が残した記号を通るしかない、と考えるようになります。これが解釈学への転回でした [1] 。 ガダマーの課では、理解は先入見と伝統の中から始まる、と読みました。リクールも、解釈は読んだものを自分のものにすることに行き着くと考えましたが、それを伝統よりも、いまの行いへ向けました [1] 。 この課では、その解釈の向きが自分自身に向かう所を読みます。変わっていく私が同じ私なのは、人が物語を通して自分を理解するからだ、というのがリクールの答えでした。 この課の問い 十年前の自分の写真を見ると、顔も考えも好みも変わっています。それでも私たちは「これは私だ」と言います。その答えは、心の奥の変わらない芯にあるのでしょうか。それとも、自分が語り、人が語ってくれる人生の物語の中にあるのでしょうか。 この課のことば 物語的自己同一性 人が「誰」であるかは、その人の人生がどんな物語として語られるかで答えられる、というリクールの考えです。自分で語る物語も、人が語る物語も含みます。 同じであること(イデム) ラテン語 idem(同じもの)から。いつも同じで変わらないものの同一性です。指紋や机のように「何が同じか」を比べて確かめます。 自分であること(イプセ) ラテン語 ipse(自身)から。変化をくぐり抜けて保たれる同一性で、「あなたは誰か」と問うときの同一性です。 筋立て ばらばらな出来事・人の思い・偶然を選んで組み立て、たどることのできる一つの話にまとめる働きです。日付の順に並べることとは違います。 不協和を含んだ協和 話を乱す思いがけない出来事(不協和)も捨てずに、話全体のまとまり(協和)の中に位置を与えること。リクールの言葉です。 守られた約束 気持ちや好みが変わっても、言ったことを果たし続けること。リクールは、性格の変わらなさに頼らずに自分であることが示される型とみました。 物語的自己同一性――変わっていく私はなぜ同じ私なのか ガダマーはテキストを理解する場面を問いました。リクールは、同じ解釈の問いを自分自身に向けます。自分を知るにも、心の内をまっすぐ見るのでなく、物語という回り道を通るしかない、と考えたのです [1] 。この章では、二つの同一性の区別、筋立てが人物の同一性を作ること、人生の物語と責任、を順に読みます。 二つの同一性――同じであることと自分であること 十年前の写真の自分を、私たちは「私だ」と言います。けれども顔も考えも好みも変わっています。リクールは、この戸惑いの元は「同一性」という一つの言葉に二つの意味が混ざっていることだ、と見ました。一つは、いつも同じで変わらないものの同一性で、リクールはラテン語で「同じもの」を意味する idem (イデム)の同一性と呼びます。もう一つは、変化をくぐり抜けて保たれる、「自身」を意味する ipse (イプセ)の同一性です [1] 。私は十年前の私であり、また十年前の私ではない、と言えるのは、自己がこの二つの面をもつからです [1] 。 机や指紋が同じかどうかを調べるとき、私たちは「何が」同じかを比べて確かめます。これがイデムの問い方です。人について問うときは、しばしば「それをしたのは誰か」「あなたは誰か」と問います。リクールは、イプセの同一性があることこそ、自己を「何か」でなく「誰か」の問いで考えるべきしるしだ、と論じました [1] 。 二十年前(晴れた日の駅) 困ったら必ず駆けつける 好き:ロック 親友 二十年後(雨の夜) ここまで180km 親友 好き:クラシック 好みは変わり、約束は残る 図 1 二十年前の約束を守る人の二つの場面です(本教材の絵)。一つ目は、晴れた日の駅で、若い人物が親友の手を握って約束する場面です。二つ目は、二十年後の雨の夜、好きな音楽も変わった同じ人物が、車から降りて親友に駆け寄る場面です。好みは変わっても、言ったことを引き受け続けることがこの人を同じ人にしています。同じであること・自分であることの区別と、約束を自己の型とするのは本人の議論で、駅と雨の夜の場面・二人の人物は本教材の作例です。 『他者のような自己自身』(1990)の第 5 研究で、リクールは、人が時間の中で持ちこたえる仕方を二つの型で示します [2] 。一つは性格です。長く身についた癖や好みや傾きは、その人を見分ける目印になります。ここではイプセがイデムとほぼ重なって現れます。もう一つは守られた約束です。気持ちや好みが変わっても言ったことを果たすとき、人は性格の変わらなさに頼らずに自分を保ちます (図 1) 。 この表で分かること: イデムとイプセは、性格ではほぼ重なり、守られた約束では離れます。物語的自己同一性は、その間を行き来してつなぎます。 持ちこたえる型 同じであること(イデム) 自分であること(イプセ) 例 物や体の特徴 比べて確かめる 問われない 指紋・机 性格 長く続く傾き イデムとほぼ重なる 口癖・好み 守られた約束 頼らない 引き受けて保つ 二十年前の約束 物語的自己同一性 話の中で見分けられる 語り直して引き受ける 半生の語り 表 1 性格と約束の対は『他者のような自己自身』第 5 研究の議論です [2] 。一行目と例の欄は本教材の整理です。 図 1 は本教材の作例です。二十年前に「困ったら必ず駆けつける」と約束した人が、好きな音楽も考えも変わったあと、雨の夜に車で駆けつけます。この人を昔の自分と結んでいるのは、変わらない好みや考えではなく、自分の言葉を自分で引き受け続けたことです。顔や体に同じ所が残っていても構いません。要は、約束を守ることがそうした変わらなさに支えられていない点です (表 1) 。この二つの型の間に、リクールは物語による同一性を置きます。 ここで間違えやすい イプセを、変わらない心の芯や魂のようなものと取らないようにしましょう。そう取ると、それはまた「何が同じか」の問い、つまりイデムに戻ってしまいます。SEP は、リクールの言う自己を語るなら、実体でなく行いと可能性の言葉で語るべきだ、とまとめています [1] 。 筋立て――ばらばらな出来事を一つの話にまとめる リクールは『時間と物語』全 3 巻(1983〜85)で、物語が人の行いと時間をどう分からせるかを調べました。筋立ての議論は、その第 1 巻の第 1 部で組み立てられます [3] 。SEP の整理によれば、日常の言葉には、意図・動機・理由・結果のような行いの言葉と、過去・現在・未来・いまのような時間の言葉が、もともと含まれています。物語は、この種類の違う要素を一つの話に組み立てます。そこでは、ある出来事が別の出来事の後に起きるだけでなく、その出来事が元で起きる、たどることのできる話が生まれます [1] 。リクールはこの組み立てを考えるのに、アリストテレス『詩学』の筋の考えを手がかりにしたとされます。 大切なのは、筋立てが出来事を日付の順に並べることとは違う点です。何を選び、何を捨て、どの出来事がどれにつながるかを組み立てて、初めて一つの話になります。しかも物語には、話を乱す思いがけない出来事が必ず入ります。筋はそれを捨てず、話の中に位置を与えます。リクールはこれを「不協和を含んだ協和」と呼びました [1] (図 2) 。 ばらばらの出来事を一つの話に 出来事のまま 受験・引っ越し・出会い 選んで、つなぐ いまの 私 ここから始まった 思いがけない出来事も筋の中で位置を持つ 図 2 机の上の出来事のカードです(本教材の絵)。左半分では、出来事のカードがばらばらに散らかっています。右半分では、人物がカードを選んで並べ、一本の糸でつないでいます。稲妻の印の付いた「受験に落ちる」のカードも捨てられず、「ここから始まった」話の入口になり、列の終わりに「いまの私」が来ます。選ばれなかったカードは机の端に寄せてあります。筋立てと不協和を含んだ協和は本人の考えで、カード・糸・受験と写真部の出来事は本教材の作例です。 図 2 は本教材の作例です。第一志望の大学に落ちた人が、行くつもりの無かった町の大学で写真部に入り、写真の道に進みます。落ちた当時、それは人生を乱す不運でした。いま半生を語ると、それは「あそこから始まった」という筋の入口になります。出来事は同じでも、物語の中での位置が変わったのです。 SEP は、物語には終わりがあるので、時間や行いの長い意味を汲み尽くしはしない、とも述べます。それでも物語は、生きられる「いま」の時間と、点が前後に並ぶだけの宇宙の時間とを、理論でなく実践の上で編み合わせます [1] 。さらに『他者のような自己自身』第 6 研究でリクールは、物語の人物が誰であるかも、筋がまとまるのと同じ仕方でまとまる、と論じます [2] 。人物は、自分に起きた偶然を、自分の人生の話の一部として引き受けていきます。こうして人物は、変わり続けながら、話の中で見分けられる同じ人でもあります。物語が性格と約束の間をつなげるのは、このためです。 ここで間違えやすい 筋立てを、都合の悪い出来事を削ってきれいな話にすることだと取らないようにしましょう。筋立ては、失敗や偶然を捨てずに、それも含めて一つの話にまとめる働きです。人物が筋とは別に初めから出来上がっていて、出来事はその飾りにすぎない、と取るのも誤りです。 人生の物語――語り直しながら自分を引き受ける SEP によれば、物語的自己同一性という考えの重みは、『時間と物語』の三巻の研究を終えたところでリクールに見えてきたものです [1] 。それは物語の中の人物の同一性にとどまらず、人の同一性はどの場合も物語の同一性として考えられる、という広い主張でした。その人が自分の人生についてどんな話を語り、ほかの人がその人についてどんな話を語るかが問われます。物語的自己同一性は、「誰か」という問いに答える仕方の一つなのです [1] 。 とはいえ、人生は小説と同じではありません。第 6 研究でリクールは、その違いを認めます [2] 。自分の生まれは人から聞いて知るしかなく、自分の死は残った人が語ります。人生はほかの人の物語と絡み合い、一本の筋に収まりきりません。だから人は自分の人生のただ一人の作者ではありません。それでも、何をどう語るかで人生の意味は変わり、その意味については共作者になりうる、とリクールは言います。 私たちは、小説・伝記・歴史で出会った話の型を借りて、自分の人生を語ります。SEP の整理では、物語は行いの言葉をもとに出来事を一つの話に形づくり、ただの物理的な出来事を、話の中で意味を持つ出来事として形づくり直します [1] 。読まれた物語は、読み手の生き方と自己理解へ戻っていきます (図 3) 。リクールはこの往き来を、三つのミメーシス(再現)の段として論じたとされます。 行いの理解(前の段) 物語の前から、人は意図・理由・結果の 言葉で行いを分かっている 筋立て(形づくる段) ばらばらな出来事を、たどれる一つの 話にまとめる 読み手の生(戻る段) 読んだ話が、読み手の行いと自分の 理解を形づくり直す 次の語りへ 形づくり直された生が、また次の物語の 出発点になる 図 3 物語が生から生へ往き来する段です。行いの理解から筋立てへ、筋立てから読み手の生へと進みます。点線の段は、形づくり直された生がまた次の語りの出発点になることを示します。段の中身は SEP の整理によります [1] 。四つの箱への分け方と言い換えは本教材の整理です。 物語で自分を語れる人は、自分の行いを自分のこととして語り、それに答えられる人でもあります。SEP によれば、リクールの言う自己は、行い、また行いを受け、自分の行いを語り、その責任を引き受けることのできる人です [1] 。その確かさは論理や科学の確かさではなく、自分の存在を自分で証しする、生きた確信だとされます [1] 。 ここで間違えやすい 物語的自己同一性を、好きな話を作れば自分になれる、つまり自分は作り話だ、と取らないようにしましょう。人生の物語は、他人の語りとも、行いの責任とも結びついています。「それをしたのはあなたか」と問われ、答えることで試されるのです。 原典を読む 第 1 章の一つ目の節で見た性格と約束の対を、第 5 研究で確かめます。リクールは 2005 年に没し、日本では著作権の保護期間内なので、本教材の要約で読みます。 リクール『他者のような自己自身』第 5 研究より 性格と約束――時間の中で持ちこたえる二つの仕方 第 5 研究でリクールは、イデムとイプセの区別を、人が時を経ても自分であり続ける二つの型で示します。その要点を要約します。 1 リクールの言い分の芯は、こうです。人が時を経ても「自分だ」と言える拠り所には、性格と約束という、向きの違う二つの極がある