ボエティウス――神の予知は人間の自由を奪わない(永遠と時間) — Epoché
中世 教父哲学と初期スコラ 約 17 分 本文 約 6,900 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 問題・永遠・見ることの 3 つ 問題 神が誤りなくすべてを前もって知っているなら、知られたとおりのことが必ず起こる。すると人の選びに自由は無く、善い人への報い・悪い人への罰も、神への祈りも意味を失う、と作中のボエティウスは問う(『哲学の慰め』5.P3)。 永遠 神の永遠は、果てしなく続く時間ではなく、限りない生の全体を同時にまるごと持つことである(5.P6.4)。だから神は、私たちにとっての未来も、今そこにあるものとして見ている。神の知は「予知」より「決して欠けることのない現在の知」と呼ぶ方が正しい(5.P6.16)。 見ること あなたが今目の前のものを見ても、そのものに必然を加えはしない(5.P6.18–19)。人の自由な選択による出来事は、神に見られるという条件のもとでは必然でも、それ自体の性質としては自由なままである。太陽が昇ることのような必然の出来事とは分けて考える(5.P6.27–29)。 はじめに ボエティウスは、475〜477 年ごろ、ローマの古い貴族の家に生まれました。当時イタリアを治めていたのは、ラヴェンナにいた東ゴートの王テオドリックでした [1] 。 ギリシア語をよく学んだボエティウスが生涯をかけた仕事は、アリストテレスの論理学の書物などをラテン語に訳し、注釈を付けることでした。 晩年、ボエティウスはテオドリックの宮廷で、最も高い官職の一つ「官房長官」に就きました [1] 。まもなく宮廷の人々と対立し、反逆と魔術の罪で訴えられて閉じこめられ、おそらく 526 年に処刑されました(524 年・525 年とする説もあります) [1] 。 そのあいだに書かれたとされるのが『哲学の慰め』です [1] 。書いた時期は確定していません。作中では、閉じこめられたボエティウスのもとに女性の姿の「哲学」が現れ、対話が進みます。この課ではその第 5 巻を読みます。 ボエティウスは、この編で読んだアウグスティヌスと同じ「時間の外の神」から、一つの難問を引き出します。神が私の明日をもう知っているなら、私は明日、本当に選べるのでしょうか。 この課の問い 神が、私の明日の選びを、今日もう誤りなく知っているとします。それでも私の選びは、自由な選びと言えるのでしょうか。言えないなら、人をほめたり罰したりすることや、神に祈ることに、まだ意味はあるのでしょうか。 この課のことば 予知(プラエスキエンティア) まだ起きていないことを、前もって知ることです。天気予報が明日の雨を言い当てるように、「先回りして知る」ことを思い浮かべてください。 摂理(プロウィデンティア) 神がすべてを見渡して治めることです。ボエティウスは語の形から、「前を見る」ではなく「遠くまで見渡す」ことだと説きます。 永遠(アエテルニタス) 限りない生の全体を、同時にまるごと完全に持つことです。いつまでも長く続くこととは違います。 永続(ペルペトゥウム) 始まりも終わりもなく、時間の中でどこまでも続いていくことです。ボエティウスは、世界は永続、神は永遠と言い分けます。 単純な必然・条件つきの必然 人はいつか死ぬ、のように物の本性から来るのが単純な必然です。「歩いていると知っているなら、その人は歩いている」のように、条件のもとでだけ言えるのが条件つきの必然です。 予知と自由――神がすべてを知っているなら、私は選べるのか この章では、『哲学の慰め』第 5 巻の議論を三つの段で読みます。まず、予知が自由を奪うように見える問題、次に、神の永遠は長い時間ではないという答え、最後に、見ることは強いることではないという区別です。問いを出すのは作中のボエティウス、答えるのは「哲学」です。 予知の問題――知られたことは必ず起こるのか 第 5 巻の前半で「哲学」は、偶然とは何か、人に自由な選びはあるかを説きます。すると作中のボエティウスは、もっと難しい疑いに迷わされると言い出します [2] 。神がすべてを前もって見ていて、しかも決して誤らないなら、神が起こると見たことは必ず起こるはずです。神が人の行いだけでなく、計画や意志まで永遠から知っているなら、選びの自由は残らないのではないか、と彼は問います(『哲学の慰め』5.P3) [1] [2] (図 1) 。 ① 誤らない予知 神はすべてを前もって知り、決して 誤らない ② 必ず起こる 知られたことは、知られたとおりに必ず 起こる ③ 意志も必然 人の行いも計画も意志も、知られた とおりになる ④ 自由が無い 報いも罰も不当になり、希望も祈りも 意味を失う ⑤ 哲学の答え 神の永遠を考え直す(次の節) 図 1 作中のボエティウスの問いの流れです(『哲学の慰め』5.P3、本教材の整理)。「起こるから知られるのだ」と言い換えても、知られたことが必ず起こる点は変わらないので、②から先の流れは止まりません。点線の段は、次の節で読む「哲学」の答えです。 この問いは、知ることの性質に支えられています。ある人が座っていると正しく思うなら、その人は必ず座っています。逆に、その人が座っているなら、その思いは必ず正しいのです(5.P3.10–13) [2] 。知るとは、物事を在るとおりにとらえることです。だから神の知が確かである限り、知られたことはそのとおりになるほかありません。 ここで一つの逃げ道が考えられます。神が見たから起こるのではなく、起こるから神が見るのだ、という言い方です。ボエティウスはこれも退けます。どちらが原因であっても、前もって知られたことが必ず起こることに変わりはないからです。そのうえ、時間の中の出来事が神の永遠の知の原因になると考えるのは「あべこべ」だ、と言います(5.P3.15) [2] 。 神の知を弱めるわけにもいきません。神が「起こるかもしれないし、起こらないかもしれない」としか知らないなら、それは予言者テイレシアスの「私が言うことは、そうなるか、ならないかだ」と同じになります(5.P3.25) [2] 。これは詩人ホラティウスの風刺詩から引いた、作り話の予言者の台詞です。神の知が人の当て推量と変わらなくなるのは、許されないことでした。 では、自由が無いと何が失われるのでしょうか。善い人への報いも、悪い人への罰も不当になり、悪さえ神のせいになります(5.P3.29–32) [2] 。さらに、人が神と語り合う唯一の道である希望と祈りも、意味を失います(5.P3.33–36) [2] 。SEP によれば、この問いの立て方を誤った推論と見る読み方と、筋の通った論と見る読み方があります [1] 。どちらにしても、神が明日の私をもう知っているという重みは本物の問題です。 ここで間違えやすい 「予知が自由を奪う」を、神が人を操って行いを決めている、という話だと取らないようにしましょう。ここで問われているのは、神が出来事を起こすかどうかではありません。ただ誤りなく前もって知っているだけで、自由が失われるのか、ということです [1] 。また、この問いを出すのは作中のボエティウスで、作者がそのまま主張しているわけではありません。作者と「哲学」の答えとの距離も、解釈が分かれています [1] 。 永遠――果てしない時間ではなく、生をまるごと同時に持つこと 「哲学」の答えは、まず知ることの原理から始まります。知られるものは、それ自身の性質によってではなく、知る者の力に応じてとらえられる、というのです(5.P4.25) [1] [2] 。感覚、想像、理性、知性と、知る力が上がるほど、同じものを違ったしかたでとらえます。ならば神の知も、神のあり方に応じて考えなければなりません。 では、神のあり方とは何でしょうか。「哲学」は永遠をこう定義します。永遠とは、限りない生の全体を、同時にまるごと完全に持つことである、と(5.P6.4) [2] 。時間の中に生きる私たちは違います。明日をまだつかんでおらず、昨日をもう失っています。今日という一瞬にしか生きていないのです。 大事なのは、永遠と永続を分けることです。始まりも終わりもなく続く世界を考えても、その世界は生の全体を一度に持つことはできません。時間がどこまでも続くだけです。そこで「哲学」は、プラトンにならって、神を「永遠」、世界を「永続」と呼び分けます(5.P6.14) [2] 。ただし SEP は、ここで世界に始まりが無いことを認めるかのような語り方が、多くのキリスト教徒には疑わしく見えたと述べています [1] 。 時間の中:道の上から 明日:まだ無い 昨日:もう無い 霧 霧 今:この一瞬だけ 永遠:高い頂から 動かず、見渡すだけ 道の全体が同時に「今」 図 2 一つ目の絵は時間の中の私たちです。道の上からは今立つ所しか見えず、昨日も明日も霧の中です。二つ目の絵は永遠からの見え方で、高い頂から、出発する人も角を曲がる人も着く人も、同時に「今」として見えます。高い頂から見渡すという像は原典のもの(5.P6.17)で、道と旅人、霧と生け垣は本教材の描き方です。 神はいつも永遠の現在にいます。だから、私たちにとって過去や未来であるものも、神には今そこにあるものとして見えます (図 2) 。神の知は「予知」と呼ぶより、決して欠けることのない現在の知と呼ぶほうが正しい、と「哲学」は言います(5.P6.16) [2] 。私たちの未来の偶然的な出来事も、神にとっては現在です。それなら神がそれを確かに知っていても、不思議はありません [1] 。 「摂理」という語の説明も、この像を支えます。この語は「前を見る」ではなく「遠くまで見渡す」と読むべきで、それは神が、ものごとの高い頂からすべてを見下ろすからだ、というのです(5.P6.17) [2] 。SEP によれば、この永遠の定義は中世の大学で標準の定義になりました。今日の「ブロック宇宙」の時間論に近いとする読み方もありますが、これは今の私たちからの比較です。ボエティウスが物理学を先取りしたわけではありません [1] 。 ここで間違えやすい 「神は永遠」を、神がとても長い時間、あるいは無限に長い時間生きている、という意味に取らないようにしましょう。それは「永続」で、ボエティウスの言う永遠ではありません。永遠は時間の長さではなく、時間の流れの外で全体を一度に持つ、別のあり方です。ですから、神は明日のことを今日のうちに先回りして知っているのでもありません。神には「先」が無いのです。 見ることは強いることではない――単純な必然と条件つきの必然 それでも、神が見ている以上、出来事は必ず起こるのではないでしょうか。「哲学」はここで、人の見ることを手がかりにします。あなたが今目の前にあるものを見ても、あなたのまなざしは、それに何の必然も加えません。神の現在のまなざしも同じだ、というのです(5.P6.18–20) [2] 。見ることは、見られるものが今そうであることをとらえるだけで、そうさせはしません。 同じ考えは第 5 巻散文 4 にもあり、四頭立ての戦車を操る御者が例に引かれます。今それを知っていても、御者の技が必然に強いられるわけではありません(5.P4.15–20) [2] 。図3はこれを客席から見る場面にしましたが、観客の目は本教材の描き方です (図 3) 。 まなざしは必然を加えるか――いいえ 動かすのは御者の手 見ても、手綱は引かない 見られていても、選ぶのはその人自身 図 3 客席の人がどれほどはっきり見ていても、カーブを曲がるのは御者自身の手です。見ることと動かすことは別だ、という第 3 節の要点を絵にしました。御者の例は原典(5.P4.15–20)のもので、観客の目と矢印の描き分けは本教材の描き方です。 次に「哲学」は、必然を二つに分けます。一つは、人はいつか死ぬ、のように物の本性から来る単純な必然です。もう一つは、ある人が歩いていると知っているなら、その人は必ず歩いている、のような条件つきの必然です(5.P6.27–29) [2] (表 1) 。この「必ず」は、知られているという条件から来るだけで、歩くこと自体を強いてはいません。その人は歩かないこともできたのです。 この表で分かること: 同じ「必ずそうなる」でも、物の本性から来るものと、見られている・そうしているという条件から来るものがあります。後者は選ぶ力を奪いません。 例 必然の種類 何からそう言えるか ほかでもありえたか 太陽が昇る 単純な必然 物の本性から ありえない 人はいつか死ぬ 単純な必然 人の本性から ありえない あなたが今歩いている 条件つきの必然 歩いていると知られる条件 歩かないこともできた 神が私の自由な選びを見る 条件つきの必然 永遠の現在に見られる条件 選ぶのは私。別を選べば神はそれを見る 表 1 二つの必然の区別(『哲学の慰め』5.P6.27–29・38 をもとにした本教材の整理) [2] 。 神が見るものの中には、太陽が昇ることのような必然の出来事も、人が歩くことのような必然でない出来事もあります(5.P6.22・34) [2] 。人の自由な選びによる出来事は、神に見られるという条件のもとでは必然でも、それ自体の性質としては自由なままです [1] 。SEP は、これをアリストテレスの「在るものは、在るときには、必然に在る」という考えにつなげて読みます。座っている人は、座っているあいだは必ず座っていますが、立つ力を奪われてはいません [1] 。 ただし、第 5 巻の終わりで「哲学」は、神の現在の知はすべての尺度となり、後に続くものに何も負わない、と言います [2] 。これが神をすべての決め手にし、自由の弁護を崩さないかについては、解釈の争いが残ります [1] 。 ここで間違えやすい 「別のことも選べた」を、神が A と知っているのに A でないことをして、神の知を誤らせることができる、という意味に取らないようにしましょう。もし選びが変われば、その変わった選びも、神の永遠の知に含まれています(5.P6.38) [2] 。また「条件つきの必然」を、自由が無いことの言い換えと取るのも誤りです。 原典を読む 第 1 章の二つ目と三つ目の節をつなぐ箇所です。原文はラテン語で、本教材が訳しました。 ボエティウス『哲学の慰め』5.P6.16–19 決して