投票の逆理――多数決はいつも決められるか — Epoché
思想 民主主義 約 29 分 本文 約 13,100 字 図 3・表 2 資料 2 節 この課の要点 逆理・決め方・抜け道の 3 つ 逆理 案が三つ以上あると、一人ひとりの好みに筋が通っていても、二つずつの多数決は一巡し、勝者が決まらないことがある(コンドルセ、1785 年)。 決め方 同じ投票者でも、相対多数・決選投票・総当たり・ボルダ得点で勝者が変わる。循環があれば、採決の順を決める人が結果を左右できる。 抜け道 アローは、もっともらしい五つの条件を同時に満たす集め方はないと示した。好みの形を限るか、順位以外の情報を使うか、どの条件を緩めるかの選択になる。 はじめに 三人の友人が、昼食に和食・中華・洋食のどれにするかを相談しています。全員が一番の店を言うと、三つに割れました。そこで「二つずつ多数決で比べよう」と決めます。和食と中華では和食が勝ち、中華と洋食では中華が勝ちました。それなら和食が一番のはずです。ところが和食と洋食を比べると、洋食が勝ってしまいます。どの店も、どれか一つには負けるのです。 これは数のいたずらではありません。18 世紀のフランスの思想家コンドルセが、選挙の数え方を調べるなかで見つけた現象で、「投票の逆理」または「コンドルセの逆理」と呼ばれます [1] 。一人ひとりの好みにはきちんと筋が通っているのに、多数決で集めた「みんなの好み」は一巡してしまうことがあるのです。 前の課では、話し合いを通じて決める民主主義を見ました。この課では、話し合いの後に来る「票を数える」段そのものに目を向けます。多数決は、民主主義の決め方として最もなじみのあるものです。学級会でも、議会でも、最後は手を挙げて数えます。しかし、選択肢が三つ以上になると、多数決は思ったほど単純ではありません。 この課ではまず、三つ目の案が入ると「一番多い」と「過半数」が分かれることを、コンドルセ自身の 60 人の例で確かめます。次に、逆理の定義と、それが起きる仕組みを見ます。そのうえで、採決の順を決める人が結果を左右できること、投票者が本心と違う票を入れる誘因があることを学びます。最後に、アローの不可能性定理が、この問題をどんな決め方にも広げたことと、そこからの抜け道を整理します。 資料では、コンドルセの 1785 年の本の一節を原文から読み、日本の衆議院が修正案の採決順をどう定めているかを条文で確かめます。読み終えたとき、「多数決で決めた」という言葉の中に、どんな選択が隠れているかが見えてくるはずです。 この課の問い 一人ひとりの好みに筋が通っていても、多数決で集めた「みんなの好み」は一つに決まらないことがあります。それはなぜ起き、決め方を選ぶことにはどんな意味があるのでしょうか。 この課のことば 推移性 A を B より、B を C より好むなら、A を C より好む、という筋の通り方です。好きな果物の順位を付けられる人の好みは、ふつう推移的です。 投票の逆理(コンドルセの逆理) 二つずつ多数決で比べると、A が B に、B が C に、C が A に勝ち、一巡してしまうことです。一人ひとりの好みが推移的でも起こります。 コンドルセ勝者 ほかのどの案と一対一で多数決をしても負けない案です。三つの案が互いに勝ち負けを一巡させるときは、コンドルセ勝者はいません。 議題の設定 どの案とどの案を、どの順で採決にかけるかを決めることです。議会では議長や規則がこれを決めます。 アローの不可能性定理 案が三つ以上あるとき、もっともらしい五つの条件をすべて満たす集め方は存在しない、という定理です。経済学者アローが証明しました。 単峰性 皆が同じ一本の物差し(税率の高低、政策の左右など)の上に一番好きな点を持ち、そこから離れるほど嫌う、という好みの形です。 投票の逆理――多数派の意見はいつも一つに決まるか 多数決は「多くの人が望むものを選ぶ」決め方だと考えられています。この章では、その「多くの人が望むもの」が、選択肢が三つ以上になると一つに定まらないことがある理由を、順に確かめます。 一番多いと過半数――三つ目の案が入ると何が変わるか 選択肢が二つなら、多数決にはほとんど迷いがありません。メイは 1952 年に、二つの選択肢から一つを選ぶとき、四つの条件を満たす決め方は多数決だけだと証明しました [1] 。一つ目は、どんな票の組み合わせでも結果を出すこと(定義域の非制限)です。二つ目は、投票者を名前で区別せず平等に扱うこと(匿名性)、三つ目は、二つの選択肢を平等に扱うこと(中立性)です。四つ目は、ほかの票はそのままで、ある選択肢への支持が増えたとき、結果がその反対の向きに動かず、もとが同点ならその選択肢の勝ちになること(正の反応)です [1] 。二択の多数決には、このようにしっかりした理由があります。 ところが選択肢が三つになると、事情が変わります。ふつうの選挙では、各人は一人の名前だけを書き、最も多くの票を集めた候補が勝ちます。これを相対多数といいます。相対多数の勝者は、過半数の支持を得ているとは限りません。三人の候補が票を分け合えば、三分の一ほどの票でも一位になれるからです。 コンドルセは 1785 年の『多数決の確率への解析の応用についての試論』の序論で、この点を具体的な数で示しました [4] 。60 人の投票者がいて、A に 23 票、B に 19 票、C に 18 票が入ったとします。A に入れた 23 人は全員、C を B より上に置いています。B に入れた 19 人は、C を A より上に置いています。C に入れた 18 人のうち 16 人は B を A より上に、2 人は A を B より上に置いています [4] 。 ここで候補を二人ずつ比べてみます。B と A では、B を上に置く人が 35 人、A を上に置く人が 25 人です。C と A では 37 対 23、C と B では 41 対 19 です [4] 。つまり、一位の票では最も多い A が、一対一ではどちらの相手にも負けます。反対に、一位の票が最も少ない C は、どちらの相手にも勝ちます。コンドルセは、通常の方式で最も票の少なかった候補こそが、実際には多数の支持を得ている候補だと指摘しました [4] 。 この表で分かること: 同じ 60 人の順位から、数え方によって A・B・C のどれもが勝ちうる。 数え方 勝つ候補 理由 1位の票の数(相対多数) A 23票で最多 上位2人の決選投票 B Aに35対25で勝つ 総当たりの多数決 C Aに37対23、Bに41対19 ボルダ得点(2・1・0点) C 78点で最多(A48・B54) 表 1 コンドルセの 60 人の例(1785 年の試論の序論) [4] から、本教材が数え方ごとに計算したもの。総当たりの数はコンドルセ自身が示しています。 同じ 60 人の順位から、ほかの数え方も試してみましょう(本教材の計算)。上位二人の決選投票なら、A と B が残ります。C に入れた 18 人のうち 16 人が B に回るので、B が 35 対 25 で勝ちます。順位に点を付けるボルダ得点(1 位 2 点、2 位 1 点、3 位 0 点)なら、A が 48 点、B が 54 点、C が 78 点で、C が勝ちます。同じ投票者の同じ好みから、数え方によって A・B・C のだれもが勝者になりうるのです (表 1) 。 コンドルセはここから、通常の選挙の方式は退けるべきだと論じました。各投票者が候補の順位を示し、そこから二人ずつの比べ合いを数える方式に、一般には代えるべきだというのです [4] 。ただし彼は、すぐに選ばなくてよく、過半数を得た者だけを当選とみなせる場合なら、通常の方式を残す余地もあると書いています [4] 。日本の衆議院の議長選挙や首相指名の投票が、過半数を得た者がいないとき上位二人の決選投票を行うのも、相対多数だけで決めない仕組みの例です [5] 。もっとも表 1 が示すとおり、決選投票は一回目で三位になった C のような候補を落としうるので、コンドルセの基準とは別の決め方です。 ここで間違えやすい 「一番票の多い案が勝つ」と「過半数が支持する案が勝つ」は同じではありません。選択肢が三つ以上あると、相対多数の勝者が、一対一ではほかのすべての案に負けることさえあります。 循環という逆理――個人は筋が通っていても集団は一巡する コンドルセの 60 人の例では、まだ救いがありました。どの相手にも勝つ C という候補がいたからです。このような案を「コンドルセ勝者」といいます。ほかのどの案と一対一の多数決をしても負けない案のことです [1] 。コンドルセが勧めたのは、まさにこの二つずつの比べ合いで決める方式でした [1] 。ところが、この方式には別の落とし穴があります。コンドルセ勝者がいないことがあるのです。 最も簡単な例で確かめましょう。三人の投票者がいて、一人目は A を B より、B を C より上に置きます。二人目は B、C、A の順、三人目は C、A、B の順です [2] [3] 。二つずつ比べると、A と B では一人目と三人目が A を選び、A が 2 対 1 で勝ちます。B と C では一人目と二人目が B を選び、B が勝ちます。それなら A は C にも勝つはずです。ところが C と A では、二人目と三人目が C を選び、C が勝ちます [2] 。A は B に、B は C に、C は A に勝ち、一巡してしまいました。どの案にも、それに勝つ別の案があります。 一人目 二人目 三人目 1位 和食 2位 中華 3位 洋食 1位 中華 2位 洋食 3位 和食 1位 洋食 2位 和食 3位 中華 和食 中華 洋食 2対1 2対1 2対1 図 1 三人の友人の昼食の相談(本教材の作例)。一人ひとりの順位は筋が通っています。下の三つの円のあいだの矢印は、二つずつ多数決で比べたときに勝つ側から負ける側へ向いています。和食は中華に、中華は洋食に、洋食は和食に 2 対 1 で勝ち、一巡します。 この一巡を理解する鍵は「推移性」です。A を B より、B を C より好むなら、A を C より好む。このような順位の付け方を推移的といいます。三人の投票者は、それぞれ推移的な順位を持っています。誰も筋の通らない好みを持っていないのです。それでも、多数決で集めた結果は推移的になりません。SEP の社会的選択理論の項目は、これを「個人の好みが合理的(推移的)でも、多数の好みは非合理的(非推移的)になりうる」という観察としてまとめています [1] 。 なぜこんなことが起きるのでしょうか。理由は、勝ちを決める多数派が、比べる組ごとに入れ替わることにあります。A 対 B の多数派は一人目と三人目、B 対 C の多数派は一人目と二人目、C 対 A の多数派は二人目と三人目です。それぞれの多数派は筋の通った判断をしていますが、三つの多数派は同じ人々ではありません。違う顔ぶれの判断をつなぎ合わせると、一つの人の判断のようには筋が通らなくなるのです(本教材の説明)。 コンドルセ自身も、60 人の例の数を少し変えて、多数の結論が矛盾を含む組になることを示しました [4] 。この課の資料で、その箇所を原文から読みます。一位の票は 23・19・18 のままでも、二番目以下の好みの並びが変わるだけで、コンドルセ勝者は消えてしまいます。日本の会議に当てはめれば、三つの案のどれもが、別のどれか一つには過半数で負ける、という状態がありうるということです(本教材の作例)。 SEP のアローの定理の項目は、この逆理が示すのは、個人の好みを社会の好みへ集めるときに、合理的に選ぶ可能性が失われうることだと説明しています [3] 。一人ひとりなら一番好きなものを選べますが、集団の好みには一番がない、ということが起こるのです。 ここで間違えやすい 逆理は、誰かが気まぐれな好みを持つから起きるのではありません。全員の好みが推移的でも、二つずつの多数決で集めた結果が一巡することがあります。問題は個人ではなく、集め方の側にあります。 採決の順と戦略――循環があると誰が結果を握るか 多数が一巡するとき、実際の会議では何が起きるでしょうか。会議は永遠に比べ続けるわけにはいきません。たとえば、二つを比べて勝った方を残し、次の案と比べる「勝ち残り」の方式で決めるとします。すると、どの順で比べるかが結果を決めてしまいます。 図 1 の三人で確かめましょう(本教材の作例)。先に和食と中華を比べると和食が勝ち、残った和食は洋食に負けて、洋食に決まります。先に中華と洋食を比べると中華が勝ち、残った中華は和食に負けて、和食に決まります。先に和食と洋食を比べれば、最後は中華です。どの順でも、最後に加わった案が勝ちます (図 2) 。つまり、比べる順を決める人は、自分の好きな案を最後に回せば、それを勝たせることができるのです。 先に和食と中華を 比べる 先に中華と洋食を 比べる 1回目:和食が 中華に2対1で勝つ 1回目:中華が 洋食に2対1で勝つ 2回目:残った 和食と洋食を比べる 2回目:残った 中華と和食を比べる 結果:洋食が2対1で 勝ち、洋食に決まる 結果:和食が2対1で 勝ち、和食に決まる 図 2 図 1 の三人で、比べる順だけを変えた勝ち残りの採決(本教材の作例)。二つの列は同じ項目(1 回目・2 回目・結果)の順に並べています。先に和食と洋食を比べると、最後は中華に決まります。 議題を決める人の力は、もっと驚く結果も生みます。SEP の投票方式の項目は、三人の投票者と四人の候補の例を挙げています [2] 。三人の順位は、B・D・C・A、A・B・D・C、C・A・B・D です。三人とも B を D より上に置いています。ところが司会者が、まず A と B、次にその勝者と C、最後にその勝者と D を比べさせると、A、C、D の順に勝ち残り、D が選ばれます [2] 。全員が D より B を好むのに、問い方の順だけで D が選ばれるのです。 日本の議会にも、この問題に関わる決まりがあります。衆議院規則は、同じ議題について議員から複数の修正案が出たとき、議長が採決の順序を定め、その順序は原案に最も遠いものから先に採決すると定めています [5] 。修正案が