ショーペンハウアー――世界は盲目的な意志の表れである(意志と表象・苦と同情) — Epoché
近代 生の哲学と実存思想 約 25 分 本文 約 10,100 字 図 7・表 2 原典 2 節 この課の要点 意志・苦・同情の 3 つ 意志 私たちに見える世界は表象であり、その内側は、目的なく努め続ける盲目的な意志である。自分の身体を、外から見る物としても、内から動かす意志としても知っていることが、その鍵になる(『意志と表象としての世界』正編 第 1 巻・第 2 巻)。 苦 意志は満たされても次を欲しがり、満たされなければ苦しむ。生は、欲しがる苦痛と満ちた後の退屈のあいだを振り子のように揺れ、日々の生は苦しみである(§56・§57)。 同情 自分と他人を分けて見せるのは個体化の原理であり、内側では同じ一つの意志である(§63)。それを見通して他人の苦しみを自分のものとして感じる同情が、道徳の根になる。芸術は束の間の救いを与え、最後には意志そのものを否定する道がある。 はじめに ショーペンハウアーは、商人の家を継ぐ道をやめて哲学に進み、1818 年、30 歳で主著『意志と表象としての世界』を書き上げました [1] 。1820 年にはベルリン大学で、わざと人気のヘーゲルの講義と同じ時間に講義を置き、聴き手はほとんど集まりませんでした [1] 。名が広く知られたのは晩年のことです [1] 。 この課の問いは、カントが残した所から始まります。この課程のカントの課で見たように、カントは、私たちが知るのは現れ(現象)だけで、物自体は知られないまま残ると言いました。ショーペンハウアーは、自分の身体を手がかりにすれば世界の内側に近づけると考え、そこに、理性も目的も持たずに欲しがり続ける「意志」を見ました [1] 。この課では、主著の二つの柱を順に読みます。 この課の問い 私たちに見えているのが物の現れだけだとしたら、世界の内側については何も知りえないのでしょうか。もし世界の内側が、目的もなく欲しがり続ける力だとしたら、生きることはなぜ苦しく、その苦しみから抜け出す道はあるのでしょうか。 この課のことば 表象({de:Vorstellung}) 心に現れている物の姿のことです。ショーペンハウアーは、見える世界はすべて、見る者に対して現れた表象だと言います。 物自体 見る側の形式(時間・空間・因果)に入る前の、物そのものです。カントはこれを知りえないとしました。ショーペンハウアーは、世界の内側を意志と呼びます。 意志({de:Wille}) ショーペンハウアーの言う世界の内側です。理性も知性も持たず、目的もなく、ただ盲目的に努め続ける衝動で、本能の欲求の根にも、すべての物の根にもあります。 個体化の原理 時間と空間によって、一つのものを多くの別々の個体に分けて見せる働きです。「何ごとにも理由がある」という充足理由律の一つの面で、そのせいで人は、自分と他人をまったく別のものと思います。 厭世主義(ペシミズム) この世の生は本質的に苦しみである、という見方です。ショーペンハウアーはその代表とされますが、気分の暗さではなく、世界を意志と見る考えから導かれた主張です。 同情({de:Mitleid}) 他人の苦しみを、自分の苦しみのようにじかに感じることです。ショーペンハウアーは、これを道徳の根と見ます。 意志と表象――世界の内側には何があるのか カントは、物自体は知られないと言いました。ショーペンハウアーはその考えを受け継ぎつつ、物自体が感覚を引き起こすという読みを退け、別の道から世界の内側に近づこうとします [1] 。前の編のマルクスが社会のあり方から人を見たのに対し、この章は世界と生の内側から人を見ます。見える世界、身体という鍵、盲目的な意志の順に読みます。 世界は私の表象である――見る者がいなければ、見られる物もない 主著は「世界は私の表象である」という一文で始まります [2] 。表象とは、心に現れている物の姿のことです。ショーペンハウアーによれば、人が知っているのは太陽そのものではなく、太陽を見る目です。大地そのものではなく、大地に触れる手です。見える世界はすべて、見る者(主観)に対して現れたものだ、というのです [2] 。 この考えはカントから来ています。カントは、時間・空間と悟性の概念が経験の型を与えると考えました。ショーペンハウアーは、カントの十二の範疇を因果の一つにまとめ、時間・空間・因果を、「何ごとにも理由がある」という充足理由律の表れと見ます [1] 。見える世界の形は、見る側の心の形式がつくるのです。舌のつくりが砂糖の甘さを生むのに似ている、と SEP は言い換えます。その限りで、生は夢に似ている、とショーペンハウアーは言います [1] 。 ただし、彼はカントの全部には従いません。カントは、知られない物自体が私たちの感覚を引き起こす、と考えたように見えます。しかしカント自身によれば、因果の概念は経験の内でしか使えません。経験の外の物自体を感覚の「原因」と呼ぶのは、因果の使い過ぎです。この批判は、師のシュルツェやヤコービのものを受け継いでいます [1] (図 1) 。 カント ショーペンハウアー 物自体は 知られないまま残る 物自体を感覚の 原因とは呼ばない 物自体が感覚を 引き起こすように 見える 世界は意志と表象の 二つの面を持つ だが因果は経験の 内でしか使えない 硬貨の表と 裏のように一つの もの ドミノと硬貨のたとえは SEP の言い換えで、本人の 言い方ではありません。 図 1 カントの物自体と、ショーペンハウアーの読み替え(本教材の整理)。カントの側は、この課程のカントの課の書き方に合わせています。批判はシュルツェとヤコービのものを受け継ぎます [1] 。 では、表象の裏には何も無いのでしょうか。ショーペンハウアーは、世界には表象の面のほかに、もう一つの面があると言います。二つの面は、一方が他方を引き起こす関係ではありません。ドミノが次のドミノを倒すような関係ではなく、一枚の硬貨の表と裏のような関係だ、と SEP は言い換えます [1] 。そのもう一つの面を、彼は次の節の身体の考察から引き出します。 ここで間違えやすい 「世界は私の表象である」を、「世界は私の空想で、何でも思いどおりになる」と取るのは誤りです。言われているのは、見える世界の形が見る側の形式に依っているということです。また、表象の裏にもう一つの面が置かれるので、「表象しか無い」という考えでもありません [1] 。 身体という鍵――手を動かすとき、内側から知るもの 月や山を見るとき、私たちが知るのはその外側だけです。ところが、世界の物のうち一つだけ、二つのまったく違うしかたで与えられている物があります。自分の身体です [1] 。 私たちは自分の手を、手術のときに外科医が見るように、外の物として見ることができます。皮膚や骨や腱が、ほかの物と同じ自然の法則に従って動く物です。同時に、私たちはその手を内から動かし、筋肉の働きや痛みや快さをじかに感じています。ショーペンハウアーは、前者を表象としての身体、後者を意志としての身体と呼びます [1] [2] (図 2) 。外科医のたとえは SEP の言い換えです。 外から見る:一つの物 腱を引くと指が曲がる 表象:法則に従う物 ほかの物と同じく外から見られる 内から知る:自分で動かす 曲げる力と痛みをじかに感じる 意志:内からじかに知る 同じ手が、内側からも与えられる 図 2 同じ一本の手の、二つの与えられ方(本教材の絵)。一つ目は、外科医が外から見る手で、ほかの物と同じ法則に従う物(表象)です。二つ目は、持ち主が内から動かす手で、じかに感じられる意志です。外科医のたとえは SEP の言い換えにもとづきます [1] 。 大切なのは、意志と身体の動きの関係です。手を動かすとき、まず「動かそう」という心の出来事があり、それが原因となって手が動くのではありません。一つの働きが、内からは意志として、外からは手の動きとして与えられるのです。身体の動きは、知覚の形に移された(客体化された)意志の働きにほかならない、と彼は言います [1] [2] 。この見方は、考える実体と物質の実体が互いに原因となるというデカルトの考えを退けるものでもあります [1] 。 そのうえで、ショーペンハウアーは類推を広げます。内側をじかに知っているのは、自分の身体という一つの表象だけです。しかし世界を一つのまとまりとして理解するには、ほかの物にも内側があると考えるのがよい、と彼は見ます。私の意識が私の身体の内側であるように、どの物にも内側があるのです。その内側を、私たちに言える限りで、意志と呼ぶのです [1] 。物を二つの面から見る考えにはスピノザの、主観と客観の二面の世界観にはウパニシャッドの先例がある、と SEP は言います [1] 。 ここで間違えやすい 石や植物にも意志があると聞いて、石が考えて決めると取るのは誤りです。ここでの意志は、知性を持たない衝動のことです。日常の「意志が強い」の意志(よく考えて決める心)とも違います。また、心が体を動かすというデカルトの二元論と同じものと取るのも誤りで、彼は意志と動きを一つの働きの二つの面と見ます [1] 。 盲目的な意志――目的もなく、ただ努め続ける力 世界の内側を意志と呼ぶこと自体は、新しくありません。世界を働きと見る考えは、フィヒテにもあります。ショーペンハウアーの独創は、その意志から理性と知性を抜き去ったことです [1] 。彼の言う意志は、知性を持たず、目指す先の無い、終わりのない努力であり、盲目的な衝動です。そこには理解すべき神もなく、世界はそれ自体として意味を持ちません [1] 。 意志は、見える世界に二段で現れます。まず、時間と空間の外にある普遍の型として現れます。石の型、木の型、人の型です。ショーペンハウアーは、これをプラトンの言葉を借りてイデアと呼び、意志の直接の客体化とします [1] 。次に、私たちの心が時間・空間・因果を当てはめると、型は数えきれない個々の物に分かれます。日常の世界は、イデアが数えきれない個々の物に分かれて現れた姿です [1] (図 3) 。 意志 物自体。一つで、知性も目的も無い 盲目的な努力 イデア 時間・空間の外の普遍の型 (石・木・人の型)。直接の客体化 個々の物 時間・空間・因果の中で、型が 数えきれない個物に分かれる 個体どうしの闘い 分けられた意志が自分と争う (ブルドッグアリ §27) 図 3 意志が見える世界に現れるまでの段と、そこから生まれる闘い(SEP の整理による)。三段目へ分けるのは、認識する人の側の形式(時間・空間・因果)です。 個体に分けるのは、認識しようとする人の側の形式です。分けられた一つの意志は、個体どうしで争い始めます。ホッブズの言う「万人の万人に対する闘い」のような状態を、私たちの認識の形式がつくるのです [1] 。ショーペンハウアーは、その姿としてオーストラリアのブルドッグアリを挙げます。1855 年の新聞に載った手紙の報告を引いて、このアリを二つに切ると頭と尾が闘い始め、およそ半時間、両方が死ぬか、ほかのアリに運び去られるまで続く、と書いています(§27) [2] 。一つの生き物が、分けられた途端に自分と闘うのです。 この見方は、同じ時代の観念論者と鋭く対立します。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルは、すべてが調和のある正しい終わりへ向かうと考えました。ショーペンハウアーは、世界にそうした意味を認めません [1] 。 ここで間違えやすい 「盲目的な意志」を、世界を動かす悪い神や誰かの悪意のように、人格を持つものと取るのは誤りです。意志は知性も目的も持たず、善悪を超えています。また、彼は世界を意志と呼ぶとき「私たちにとっては」と限りを付けることがあり、世界の内側を完全に知ったと言っているわけではありません [1] 。 苦と同情――なぜ生きることは苦しいのか、どう和らぐのか 世界の内側が、目的なく欲しがり続ける意志なら、その現れである私たちも欲しがり続けることになります。ショーペンハウアーの名高い厭世主義は、ここから出てきます [1] 。しかし彼は、苦しみを語るだけでなく、それを和らげる道も探しました。生の苦しみ、同情、和らぎの三つの道の順に読みます。 生は苦しみである――欠乏と退屈のあいだの振り子 ショーペンハウアーははっきりと、日々の生は「苦しみである」と言います(§56) [1] 。理由は意志の性質にあります。人が努めるのは何かが欠けているからで、欠けている間は苦しいのです。満たされれば努力は止まりますが、満足は長く続かず、すぐに新しい望みが始まります [2] 。 では、欲しい物がすっかり無くなればどうでしょうか。そのときは空しさと退屈が襲います。こうして生は、欲しいのに無い苦痛と、手に入って何も欲しくない退屈のあいだを、振り子のように揺れ続けます(§57) [2] (図 4) 。真ん中の満足は、苦しみがひととき止んだというだけで、すぐに通り過ぎます。SEP も、個体として生きる者の止まない渇きと、苦痛と退屈のあいだの絶え間ない揺れを、彼の生の見方として取り上げています [1] 。 苦痛と退屈のあいだの振り子 ふあ… 苦痛:欲しいのに無い 退屈:もう欲しい物が無い 満足(束の間) 振り子のたとえは本人の比喩(§57) 図 4 生は苦痛と退屈のあいだを振り子のように揺れる(§57 の比喩を描いた本教材の絵)。左の端は欲しいのに無い苦痛、右の端は手に入った後の退屈で、真ん中の満足はすぐに通り過ぎます。 ショーペンハウアーは、この欲求不満をギリシア神話の像で表します。目の前の水と果実に届かないタンタロス、穴のあいた甕に水を汲み続けるダナオスの娘たち、火の車輪に縛られて回り続けるイクシオンです。シシュフォスの像も、同じ気分を表しています [1] 。 なぜ苦しみは止まないのでしょうか。前の章で見たとおり、日常の意識は、物を個体に分けて見る形式の上に立っています。その段にとどまる限り、私たちはほかの個体と争い、手に入る以上を欲しがり続けます [1] 。厭世主義は、気分の暗い人のぼやきではありません。世界を意志と見る形而上学と、個体に分ける認識の形式から導かれた主張なのです。 ここで間違えやすい 「生は苦しみだ」を、「だから生きる値打ちは無い」という投げやりな結論と取るのは誤りで