イデオロギーとは何か――右と左の由来 — Epoché
思想 イデオロギー 約 26 分 本文 約 11,300 字 図 4・表 2 資料 1 節 この課の要点 語の意味・左右の由来・軸の限界の 3 つ 語の意味 トラシの「観念の学」の名に始まり、マルクスとエンゲルスの批判の語を経て、考えの束を中立に指す語にもなった。使うときは批判の意味か記述の意味かを見分ける 左右の由来 1789 年 8 月の国民議会で、宗教と王を重んじる議員が議長の右に集まった席に始まる。ボッビオは平等への態度を左右の基準とみた 軸の限界 左右の中身は国と時代で変わる。日本では保守・革新が安全保障と憲法をめぐる対立と結びつき、世代によって見え方が違うという研究がある はじめに ニュースや SNS では、「右寄りの政党」「左派の主張」「保守とリベラルの対立」といった言葉が毎日のように飛び交います。「あの人の意見はイデオロギー的だ」という言い方もよく耳にします。たいていは、頭が固い、偏っている、という悪口の意味です。けれども、イデオロギーとはそもそも何を指す言葉なのでしょうか。そして、政治の考えをなぜ「上と下」でも「前と後ろ」でもなく、「右と左」に並べるのでしょうか。 前の編では、自由・平等・正義という価値を一つずつ取り上げ、前の課では国境と世代を越える正義を考えました。ところが現実の政治では、価値は一つずつばらばらには現れません。世界はいまどうなっているかという事実の見方と、どうあるべきかという価値の見方が組み合わさり、束になって現れます。そうした束をどう捉えるかは研究者の間でも一つに決まっていません [1] 。この編では、その束としての「主義」を一つずつ見ていきます。 この課はその入口として、二つの来歴をたどります。一つは「イデオロギー」という言葉の来歴です。もう一つは「右と左」という物差しの来歴です。どちらもフランス革命のころのフランスに始まりました。言葉は、ある学者が作った学問の名でした。物差しは、議場の席の並び方でした。どちらも、生まれた後に意味を大きく変えています。 最後に、日本で左右の代わりに使われてきた「保守」と「革新」を取り上げます。同じ言葉が世代によって違う中身で受け取られているという研究を手がかりに、一本の物差しで政治を並べることの便利さと限界を考えます。この課の物差しは、後の課で自由主義・保守主義・社会主義などを学ぶときの地図になります。 この課の問い 「イデオロギー」とは何を指す言葉なのでしょうか。政治の考えを「右」と「左」に並べる習わしはどこから来て、いまどこまで使えるのでしょうか。 この課のことば イデオロギー 政治や社会についての考えを、互いにつながった束として捉えた呼び名です。「各党のイデオロギー」のように中立に使うことも、「それはイデオロギーだ」と偏りを批判するのに使うこともあります。 虚偽意識 自分の考えが本当はどこから来たのか(暮らしの条件や社会の中の位置)に気づかないまま持っている意識のことです。エンゲルスが手紙で使った言葉として知られます。 記述的な意味と批判的な意味 イデオロギーを善し悪しを言わずに「考えの束」として記述する使い方と、誤りや偏りとして批判する使い方の区別です。同じ語でも、どちらの意味かで話が変わります。 左右の軸 政党や考えを一本の物差しの上に左から右へ並べる見方です。フランス革命の国民議会の席の並び方に由来します。 保守と革新 戦後の日本で、左右の代わりによく使われてきた呼び名です。おもに安全保障と憲法をめぐる立場の違いと結びついてきました。 世代効果 育った時代の出来事や空気が、その世代の考え方に長く残ることです。年を取ることそのものによる変化(加齢効果)とは区別されます。 イデオロギーと左右――考えの束をどう呼び、どう並べるか この章では、まず「イデオロギー」という言葉が生まれてから意味を変えてきた道筋を追い(第 1 節)、その意味を見分ける物差しを整理します(第 2 節)。次に、「右と左」が議場の席から政治の物差しになった経緯と、左右を分ける基準をめぐる議論を見ます(第 3 節)。最後に、日本の「保守」と「革新」を例に、一本の物差しの限界を考えます(第 4 節)。 「観念の学」から「虚偽意識」へ――言葉の生まれと移り変わり 「イデオロギー」という語は、17 世紀にも用例があるとされますが、ふつうはフランスの学者デステュット・ド・トラシ(1754–1836)の造語とされます。トラシはフランス学士院に属した学者の一人で、この語を「観念の学」、つまり人の考えがどう生まれるかを調べる学問の名として使いました [1] 。生物学が生物を調べる学問の名であるのと同じ作りの言葉です。ところが「〜学」の語は、しばしば学問の名から、その学問が調べる対象の名へと意味が移ります。イデオロギーも、日常の言葉では「観念の学」ではなく「観念の束」そのものを指すようになりました [1] 。 トラシの狙いは、道徳と政治の学を、人の知性の働きについての知識の上に置き直すことでした。主著は『イデオロギー要論』(1801〜15)です [1] 。トラシは、知覚そのものは誤らないと考え、誤りの源を意志、つまり見たいものを見て都合の悪いものを見ない心の傾きに求めました。そのうえで、人を理性の道から遠ざける「偽りの盲目の意識」から引き離すことを、この学の役目としました。つまりトラシにとってイデオロギーは、偏った意識を正すための道具でした。後に二つの言葉は結び付けられますが、出発点では逆の関係にあったのです [1] 。 1789 国民議会で宗教と王を重んじる 議員が議長の右に 1801〜15 トラシ『イデオロギー要論』 1801 以後 ナポレオンがイデオローグを攻撃 1846 マルクスとエンゲルス 「ドイツ・イデオロギー」の草稿 1893 エンゲルスが手紙で 「虚偽意識」と書く 1929 マンハイム『イデオロギーと ユートピア』 1960 ベル『イデオロギーの終焉』 1994 ボッビオ『右と左』 2014 遠藤・ジョウ、世代で違う保守と 革新の見え方 図 1 イデオロギーの語と左右の呼び名の歩み(主な出来事)。1846 年は草稿が書かれた時期を SEP の表記に従って示しています。 意味が悪い方へ傾く最初のきっかけは、ナポレオンでした。ナポレオンは 1801 年以後、トラシたち「イデオローグ」を攻撃しました。カトリックの信者の支持を得るという政治的な理由もあり、彼らを、合理主義と唯物論で信仰と習俗を作り替えようとする者として描いたのです [1] 。頭の中の原理で社会を設計し直そうとする企て、という意味での「イデオロギー」批判は、この攻撃から保守の側に受け継がれていきます [1] 。 次の転機はマルクスとエンゲルスです。マルクスは 1844 年と、『資本論』の準備のときにトラシを読みました。そして 1846 年ごろの草稿では、同時代のドイツの哲学者たち(青年ヘーゲル派)の書き物も「ドイツ・イデオロギー」と呼びました [1] 。社会を観念の力で導けると思い込む人々の錯覚を、分業の中で頭の仕事に就いた人々の位置から説明しようとしたのです。「虚偽意識」という言葉は、エンゲルスが 1893 年の手紙で、考えを動かしている物質的な条件に気づかない思考を指して使ったものです [1] 。 マルクスとエンゲルスは、イデオロギーのまとまった理論を残しませんでした [1] 。後の論者は、草稿の「支配する階級の思想は、どの時代にも支配的な思想である」という一節などから、「支配的イデオロギー論」を組み立てました [1] 。SEP の「マルクス」の項目は、マルクスの見方を次のように整理しています。イデオロギーは、支配する側に有利な制度を、社会全体の利益であるかのように見せます。また、歴史の中でたまたまできた仕組みを、自然で変えられないものに見せます。ただし誤った信念がすべてイデオロギーになるわけではありません。たとえば、誠実な科学の誤りは、イデオロギーに当たらない場合があります [2] 。 ここで間違えやすい 「イデオロギー=マルクス主義の言葉」「イデオロギー=悪い考え」と覚えるのは誤りです。語を作ったトラシにとって、それは偏った意識を正す学問の名でした。批判の色は、ナポレオンの攻撃とマルクス・エンゲルスの用法を経て付いたものです。また「支配的イデオロギー論」は、マルクス本人がまとめた理論ではなく、後の論者がその一節から組み立てたものです。 批判の語か、記述の語か――意味を見分ける三つの問い このように来歴が入り組んでいるため、イデオロギーという語を使う人は、まずどの意味で使うかを決めなければなりません [1] 。SEP の項目は、意味を見分ける問いを三つ挙げています。一つ目は価値の向きで、誤りや偏りとして批判するための語か、善し悪しを言わずに考えの束を記述する語かを問います。二つ目はありかで、イデオロギーを頭の中の考えや信念に見るか、習慣・儀礼・文化のような、ふだん意識しない振る舞いの型に見るかを問います。三つ目は範囲です。社会に原因を持つ考え、社会に効果を及ぼす考え、社会について述べる考え、社会の中で特定の働き(たとえば支配を支える働き)をする考えのうち、どれをイデオロギーと呼ぶかを問います [1] 。 批判的な意味 記述的な意味 偏りや誤りとして 暴く対象 考えの束を 善し悪し抜きに指す より公平な見方から 正せると考える 立場から考えるのは 避けられないとみる 例:「それは イデオロギーに すぎない」 例:「各党の イデオロギーを 比べる」 図 2 イデオロギーの二つの意味(SEP の整理を本教材が図にしたもの)。中間に、閉じた世界観だけを悪い意味で呼ぶ使い方もあります。 一つ目の問いが最も分かりやすい分かれ目です。批判的な意味で使う人は、考えの「偏り」そのものを誤りとみて、より公平な見方から正せると考える傾向があります。記述的な意味で使う人は、人は何らかの立場から考えるほかなく、イデオロギーは考えるための避けられない媒体だと考える傾向があります [1] 。中間の立場もあります。たとえば、新しい経験や反対の証拠を受け付けない閉じた世界観だけを、悪い意味でイデオロギーと呼ぶ使い方です [1] 。 見落としやすいのは、この区別が政治の陣営と一致しないことです。マルクス主義の伝統は批判的な意味と結びつけられがちですが、レーニン、グラムシ、アルチュセールはむしろ記述的な概念を発展させました。保守・自由主義・マルクス主義以外の社会主義の論者も、それぞれの内部で分かれています [1] 。SEP の執筆者は、マルクスとエンゲルス自身の概念も記述的で、使い方が批判の色を帯びたのだと読んでいます。これは一つの解釈であり、研究者の間で読みは分かれています [1] [2] 。 それでも、伝統ごとに「イデオロギーのどこが危ういか」の見方には違いがあります (表 1) 。自由主義の伝統は、自覚されない党派心や情念が科学や政治をゆがめる危うさに目を向けました。保守の伝統は、抽象的な原理で伝統や慣習を作り替えようとする合理主義の危うさに目を向けました。オークショットは、そうした政治を「政治を工学になぞらえる」ものとして批判しています [1] 。ベルの『イデオロギーの終焉』(1960)に代表される議論は、イデオロギーの政治が「市民の政治」に置き換わるという希望を述べました [1] 。 この表で分かること: 三つの伝統は、イデオロギーの危うさを違う所に見た 伝統 何を危ういとみるか 取り上げた論者 自由主義 自覚されない党派心や情念 トラシ・ベル 保守主義 抽象的な原理で伝統を作り替えること オークショット マルクス主義 支配を自然や全体の利益に見せる思想 マルクス・エンゲルス 表 1 イデオロギーをめぐる三つの伝統(SEP の整理を本教材が表にしたもの) [1] [2] 。マルクス主義の伝統には、ここに挙げた暴く使い方のほか、考えの束を中立に指す使い方もあります。 身近な例で確かめてみましょう。「あの人の意見はイデオロギーにすぎない」と言うとき、語は批判的な意味で使われています。一方、「各党のイデオロギーを比べて投票先を決める」と言うとき、語は記述的な意味で使われています(本教材の作例)。同じ会話の中で二つの意味が入れ替わると、話がかみ合わなくなります。 ここで間違えやすい 「イデオロギーを持つのは相手だけで、自分は事実を見ている」という使い方は、批判的な意味を相手にだけ当てるものです。記述的な意味で考えれば、自分の考えもまた一つの束です。どちらの意味で使っているかを、言う側も聞く側も確かめる必要があります。 議場の右と左――席の並び方から政治の物差しへ 「右」と「左」の呼び名は、フランス革命の国民議会の席の並び方に由来します。貴族身分の議員だったゴーヴィル男爵(1750–1827)は、1789 年 8 月 29 日の日記に、宗教と王に愛着を持つ議員たちが議長の右に陣取るようになったと書きました [3] 。その前日には、カトリックを国の宗教とする提案が、野次と反対の中で通りませんでした。席の左右は、この議場で意見のまとまりを表す印になっていきます。日記の言葉は、この章の後の「資料で確かめる」で読みます。 議長の後ろから見た 1789 年の議場 傍聴席(野次が飛ぶ) 左:もう一方の側 右:宗教と王を重んじる ゴーヴィルは左をあきらめた 議長(背を向ける) 図 3 1789 年 8 月の国民議会の議場を、議長の後ろから見た想像図(本教材の絵)。人数や席の形は正確ではありません。ゴーヴィルの日記によれば、宗教と王に愛着を持つ議員が議長の右に集まり、ゴーヴィルは左の側をあきらめました。 ここで注意したいのは、この日記が伝えるのは右の側の議員から見た様子だということです。ゴーヴィルの日記では、宗教と王への愛着が、議長の右に集まる人々の目印として記されています [3] 。左の側の議員がどんな考えで集まっていたかは、この日記からは分かりません。後の時代の左右の基準を、そのまま 1789 年の議場に読み込まないことも大切です。左右の物差しはその後も使われ続けましたが、何をもって左と右を分けるのかは、時代とともに議論されてきました。今日では、フランスの外でも、各国の政党の位置を左右の軸で比べる研究が行われ