マッキンタイア――徳は共同体の実践の中で育つ(美徳なき時代・徳倫理) — Epoché
現代 現代の倫理学と政治哲学 約 17 分 本文 約 7,200 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 診断・実践・物語の 3 つ 診断 近代の道徳の言葉は、アリストテレスの目的論という土台を失った断片で、だから議論が決着しない。目的論なしに道徳を基礎づけようとした啓蒙の企ては、はじめから失敗が決まっていた、とマッキンタイアは『美徳なき時代』(1981)で論じた。 実践 徳は、チェスや農業や科学のような、協力して営まれる実践の中で、その実践に内的な善を手に入れるために身につく(第 14 章)。お金・権力・地位という外的な善だけを追う制度は、実践を損なうことがある。 物語 徳は、一つの物語としての人生と、共同体が受け継ぐ伝統の中ではじめて理解できる(第 15 章)。本は「ニーチェかアリストテレスか」という問いで結ばれる(第 18 章)。 はじめに アラスデア・マッキンタイア(1929〜2025)は、スコットランドのグラスゴーに生まれた哲学者です。イギリスの大学で教えたのち、1969 年ごろアメリカに移り、2000 年からノートルダム大学で教えました [2] 。2025 年 5 月 21 日、インディアナ州サウスベンドで 96 歳で亡くなりました [1] [2] 。 若いころは、マルクス主義に近い立場の分析哲学者でした。Wikipedia の伝えるところでは、科学哲学者のクーンとラカトシュを読んで考えの向きを大きく変えたといいます [2] 。そうして 50 代に書いたのが、この課で読む『美徳なき時代』(1981 年)です [2] [4] 。 この本でマッキンタイアは、道徳の議論が決着しない原因を、近代の道徳の言葉の成り立ちに求めました。そのうえで、アリストテレスの徳の倫理を、実践・物語・伝統という三つの言葉で組み直そうとしました [4] 。 この課の問い 「戦争は許されるか」「中絶は許されるか」。こうした問いで議論を始めると、どちらの側もそれなりに筋の通った理由を挙げるのに、話は平行線のまま終わることがよくあります。この決着のつかなさは、私たちの道徳の言葉そのものが、どこかで中身を失っているからなのでしょうか。もし後者なら、道徳の言葉にもう一度中身を与えるには、どこから始めればよいのでしょうか。 この課のことば 実践(プラクティス) チェス、農業、科学の研究、合奏のように、人々が協力して営み、その営みに固有の優れ方の基準を持つ活動。 内的な善と外的な善 内的な善は、その実践に加わってはじめて手に入る善(チェスなら局面を読む力)。外的な善は、お金・権力・地位のように、どの活動からでも得られる善です。 情緒主義(エモーティヴィズム) 「よい」「正しい」などの道徳の判断は、事実を述べるのではなく、話し手の好みや感情を表しているだけだ、という考え。スティーヴンソンらが唱えました。 目的(テロス) 人間の生が目ざす本来の目的。よさはこの目的との関係で決まる、と考えるのが目的論で、アリストテレスの倫理の骨組みです。 物語としての人生 人の一生を、生まれてから死ぬまでつながった一つの物語、善い生を探し求める旅として見ること。 伝統 何が善いかについての根本の合意が、内からの論争と外からの批判の中で定め直されていく、時を越えて続く議論。 美徳なき時代――道徳の言葉はなぜ決着しないのか この編のロールズの課では、自分が誰かを知らない無知のヴェールの下で正義の原理を選ぶことを、ノージックの課では、個人の権利から最小国家を導くことを読みます。どちらも一人ひとりを、属する共同体からいったん切り離して考える点で近い、と本教材は見ます。マッキンタイアは『美徳なき時代』で、個人から出発するこの近代の考え方そのものを問い直しました [4] 。 断片になった道徳の言葉――科学が壊された後の世界 『美徳なき時代』は、一つの思考実験から始まります(第 1 章) [3] 。ある社会で、災害の責任を負わされた科学者たちが襲われ、実験室は焼かれ、本は燃やされます。のちに人々は、焼け残った理論のかけらや使い方の分からない器具を拾い集め、それを組み立て直して「物理学」「化学」と呼びます (図 1) 。語は前と同じように使われ、子どもたちは定理を暗記もします。けれども、語どうしを結んでいた理論の全体と実験の文脈は失われているので、中身のある科学にはなりません。しかも誰も、自分たちがかけらしか持っていないことに気づきません [4] 。 かけらから組み立て直された「科学」 焼けた実験室 質量 中性微子 周期表 先生役 質量 周期表 中性微子 暗唱する子どもたち 焼けたページ ? 壊れた計器 ちぎれた理論の図 科学の世界は本人のたとえ 人物と黒板は本教材の作例 図 1 かけらから組み立て直された「科学」(『美徳なき時代』第 1 章のたとえ)。語は黒板に書かれ、子どもたちに暗唱されていますが、語どうしを結ぶ理論の図はちぎれて地面に落ちています。科学が壊された世界はマッキンタイア本人のたとえで [3] 、黒板・子どもたち・ちぎれた図は本教材の作例です。 マッキンタイアの仮説は、私たちの現実の世界の道徳の言葉が、この想像の世界の科学の言葉と同じほどひどい混乱の中にある、というものです [3] [4] 。そのしるしが、いまの道徳の議論の決着のつかなさです。対立する双方はそれぞれ筋の通った理由を挙げますが、前提どうしを比べる共通の物差しがないので、議論は終わりません。マッキンタイアはこれを、比べようのない(通約できない)道徳の概念の問題として扱います [2] 。 混乱の根は、啓蒙の時代がアリストテレスの 目的論 を捨てたことにある、と彼は見ます。古代と中世の倫理には、たまたまあるがままの人間、目的を実現したならそうなるはずの人間、そして前者を後者へ導く教え、の三つがそろっていました。ルネサンス以後の科学が目的論の自然学を退けると、倫理からも目的が抜け、根拠を失った規則の寄せ集めが残ります。カントやヒュームやキルケゴールが理性や感情や選択で道徳を基礎づけようとした「啓蒙の企て」は、そのためはじめから失敗が決まっていた、と彼は論じます。その帰結が、道徳の判断を好みの表明とみる情緒主義です [4] 。 マッキンタイアは、ハワイの王カメハメハ 2 世がタブーを廃止した出来事も、この診断の例に使います(第 9 章) [3] 。彼の読みでは、タブーはかつての意味を失って恣意的な禁止の寄せ集めになっていたので、たやすく捨てられました [4] 。ただし、これはマッキンタイアの解釈です。実際には 1819 年の廃止に反対する人々がいて、クアモオの戦いが起きています [6] 。抵抗がほとんど無かったことを、歴史の事実として受け取らないでください。 ここで間違えやすい マッキンタイアが情緒主義を正しい理論として認めた、と取らないでください。彼は、情緒主義は道徳の判断の理論としては誤りだが、目的を失った近代の社会で道徳の言葉が実際にどう使われているかをよく写している、と見ました [2] [4] 。また、近代以前の身分制の社会に戻れ、という主張でもありません。 実践と内的な善――チェスを覚えた子どもは何のために指すのか 徳を捉え直すために、マッキンタイアはまず「実践」という概念を立てます(第 14 章) [3] 。実践とは、人々が協力して営む、まとまりのある複雑な活動です。その営みには、歴史の中で磨かれてきた優れ方の基準があり、参加者はそれを目ざして自分を鍛えます。チェスやサッカー、農業、建築、物理学などの科学、絵画や音楽が例に挙がります。ボールを上手に投げることや、煉瓦をただ積むことは、それだけでは実践ではありません [3] 。 同じ章でマッキンタイアは、お菓子でチェスを覚えさせられる子どもの例を出します (図 2) 。チェスに興味のない子は、お菓子のために指し、ばれなければずるをしてでも勝とうとします。お菓子はチェスでなくても手に入るからです。けれども子がやがて、局面を読む鋭さや戦略を練る想像力のために指すようになれば、ずるをして勝つことは自分自身を負かすことになります [3] 。 お菓子のために指す よそ見の大人 外的な善 お菓子・賞・地位 お菓子とチェスの子は本人の例 チェスそのもののために指す 棋譜の本 昔の名人 棚の上の瓶 内的な善 読みの鋭さ・一局の見事さ 部屋・本・写真は本教材の作例 図 2 同じチェス、違う善(『美徳なき時代』第 14 章)。一つ目の絵では、子どもの目はお菓子の瓶に向き、大人のよそ見のすきに駒を動かしています。二つ目の絵では、瓶は棚に置かれたまま、子どもは盤に身を乗り出して次の手を読んでいます。お菓子でチェスを覚えさせられる子の例は本人のもので [3] 、部屋・棋譜の本・名人の写真は本教材の作例です。 ここから二つの善が分かれます。 内的な善 は、その実践に加わらなければ手に入らず、その実践の言葉でしか言い表せない善です。外的な善は、お金・権力・地位のように、どこからでも得られる善です。外的な善は、誰かが多く持てばほかの人の分が減り、競争の的になります。内的な善は、誰かが達成すると、その実践に加わる人みんなにとってよいことになります [3] (表 1) 。 この表で分かること: どの実践にも、その中でしか手に入らない内的な善と、どこからでも得られる外的な善があります。制度は実践を支えますが、外的な善の追求に偏ると実践を損ないます。 実践 内的な善 外的な善 支える制度 チェス 局面の読み・一局の見事さ 賞金・名声 チェスのクラブ・大会 農業 土を育て作物をよく実らせる力 売り上げ・補助金 農協・市場 科学の研究 自然をよりよく理解すること 研究費・地位・引用の数 大学・学会 合奏 声と音の重なりの美しさ 出演料・人気 楽団・演奏会場 表 1 内的な善と外的な善(区別はマッキンタイアのもの [3] 、行の例は本教材の作例)。 徳とは、まずこの内的な善を手に入れられるようにする、身につけた人間の性質だ、とマッキンタイアは言います [3] 。先達の基準に従う正義、危険を引き受ける勇気、自分の失敗を認める誠実がなければ、実践の中で学ぶことも伸びることもできません。実践は、クラブや大学や病院のような 制度 に支えられます。制度はお金や地位を集めて配るので欠かせませんが、外的な善の追求に偏ると、実践を損ないます。徳は、その損ないに抗う力でもあります [3] [4] 。 ここで間違えやすい 内的な善を、本人が楽しいと感じる気持ちと取らないでください。内的な善は、その実践の優れ方の基準に照らして決まり、初心者がそれを分かるには、まず先達の基準に従って学ぶ必要があります。また、外的な善も本当の善で、マッキンタイアはお金や制度を悪いものとしたわけではありません [3] 。 物語としての人生と伝統――自分が誰かは、どこから来たかで分かる 実践だけでは徳は定まりません。一人の人は、医者でもあり、親でもあり、合唱団の一員でもあります。実践どうしの求めがぶつかったとき、どれを優先するかは、どの実践の内側からも決まりません。そこでマッキンタイアは、人の一生を、生まれてから死ぬまでつながった一つの物語として捉えます(第 15 章) [3] 。善い生とは、善い生とは何かを探し求める旅(探求)としての生であり、徳はその探求を支え、自分と善についての理解を深めさせる性質だ、と彼は言います [3] 。 人の行為は、その人の意図や来歴という物語の中に置いてはじめて分かります。そしてその物語は、自分一人のものではありません。私たちは、ある家族の子、ある町の住人、ある国の市民として、受け継いだ借りや役割を負って生まれてくるからです。何をすべきかに答えるには、まず自分がどの物語の一部であるかに答えなければならない、とマッキンタイアは考えます [3] 。実践・物語・伝統の関係は (図 3) のように整理できます。 実践 チェス・農業・科学。内的な善を手に 入れる徳 物語としての人生 生まれてから死ぬまでの一つの物語。 善い生を探す旅 伝統 共同体が受け継ぎ、時を越えて続く議論 図 3 徳を捉える三つの段(『美徳なき時代』第 14〜15 章) [3] 。実践どうしがぶつかると、選ぶ基準を人生の物語に求め、その物語は共同体の伝統の中にあります。段の名はマッキンタイアのもの、段の間のつなぎ方は本教材の整理です。伝統を「時を越えて続く議論」と定めたのは 1988 年の著作です [2] 。 本教材の作例で考えてみましょう。祖父の代から続く町の工房で働く見習いの大工に、大きな会社から、手間を省いて早く建てれば給料を倍にする、という誘いが来ます。損得の計算だけでは答えは出ません。工房が受け継いできた仕事の基準、町の人たちとの約束、年老いた母との暮らしもあります。自分がどの物語の一部かを考えることで、答えの形が見えてきます。 この見方は、ロールズの無知のヴェールのように、自分が誰かを抜きにして正義を考えることへの批判になります [4] 。サンデルやテイラーも、ロールズの自己は共同体とのつながりから切り離されすぎている、と批判しました [5] 。のちの『誰の正義か、どの合理性か』(1988 年)で、マッキンタイアは伝統を、根本の合意が定め直されていく、時を越えて続く議論だと定めます [2] 。『美徳なき時代』は「ニーチェかアリストテレスか」という問いで結ばれ、私たちが待っているのはゴドーではなく聖ベネディクトのような人だ、と述べます(第 18 章) [3] 。ただし本人も、この本だけではアリストテレスを選ぶ十分な理由を示していないと認め、それを後の著作に回しました [4] 。 ここで間違えやすい マッキンタイアが、生まれた共同体の慣習に黙って従えと言った、と取らないでください。伝統は内からの批判で組み直され、ほかの伝統との対決で危機に陥ることもある、続いていく議論です [2] 。また、彼を共同体主義の代表とみるのも早計です。本人は『美徳なき時代』第 3 版の序文で、共同体主義者と呼ばれることを退けています [3] 。 原典を読む 第 1 章の二つ目の節で見た実践と内的な善を、『美徳なき時代』第 14 章の論点に沿って確かめます。 マッキンタイア『美徳なき時代』第 14 章「徳の本性」 徳