The Tale of Genji, Chapter 36: 柏木 — Peter Kropotkin
『青年に訴う』は、クロポトキン自身も言っているごとく、クロのもっともお得意のものだ。そして二十余りの諸外国語に翻訳されて、クロの著作の中でももっとも広く読まれている。 僕はかつてそれを、もう十三、四年前のことだが、『日刊平民新聞』に訳載した。そしてその最後の一章のために、秩序紊乱という名の下に、二た月か三月牢に入れられた。 その留守中に、クロから故幸徳に手紙が来て、「自分の著書の中でももっともモデレェトな(温健な)あんなもののために、その自由を犠牲にした若い同志に」云々とあった。 その後三、四年して、僕の翻訳はアメリカにいる同志の団体の社会革命党から出版され、その幾百部かは日本にもはいって来た。 こんどはそれを全部書きかえたのだ。 週刊『労働運動』に連載した時には、ほとんど無事であったのだが、一まとめにするとなると無残にやられてしまった。 仕方がない。あきらめられぬとあきらめるんだ。 大杉栄 一 私がいま話そうとするのは青年諸君にだ。だから老人ども――勿論それは頭と心との老人ども――は、こんな本はうっちゃって、無駄に眼を疲らすようなことはしないがいい。 私は諸君を、十八歳か二十歳かに近いものとし、徒弟もしくは学業を終えて、今やまさに実生活にはいろうとするものと仮定する。世間がしきりに諸君に注入しようとした、いろんな迷信から脱け出た頭を持っているものとする。悪魔などを恐れないものとする。牧師どもの長ったらしい御説法などを聞きに行かないものとする。さらにまた、頽廃しかかった社会の悲しむべき産物であるところの、猿のような顔をして短かいズボンをはいて歩道を練って行くところの、そしてまたこんな年齢で、すでに何事をおいてもの快楽の情慾しか持たないところの、かののらくら息子ではないとする。それとは反対に、私は、諸君をごく真面目な心を持っているものとする。そして、それだから私は諸君に話しかけるのだ。 私は諸君の前に横たわっている第一の問題を知っている。「俺は何になるんだろう。」諸君は幾度かこう自問したことであろう。実際、若い時にはみんなよく分っている。数年の間――しかもそれは社会の出費の下に、このことはよく注意しておくがいい――ある職業またはある科学を研究して来たのは、それによって自分を掠奪の機械にしようがためでないと。されば、他日自分の知力や才能を、今日貧窮と無知との中にうごめいている人達の解放を助けることに充てよう、という理想を少しも持たないのは、よほど堕落した、よほど悪徳に腐敗されたものでなければならない。 諸君はそういう理想を持ったに違いない。しからば、諸君、諸君はその理想が現実となるために何をしようとするか。 私は諸君がどんな身分の下に生れたか知らない。しかし、たぶん、運命に可愛がられて、科学の研究をして、医者なり弁護士なりあるいは学者なりになろうとするのだろう。諸君は広大な知識と熟練した才能とをひっさげて実生活にはいるのだ。あるいはまた、諸君は正直な職人で、科学上の知識は学校で教わったごく少々のことに限られているだろうが、今日の労働者がどんなにつらい労働生活を送っているかを親しく見る便宜を持つ人達であるだろう。 二 私はまずこの第一の仮定にとどまって、つぎに第二の仮定にもどることにする。すなわち諸君が科学的教育を受けたものとする。そして、まず諸君が医者になろうとするものと仮定する。 明日、労働服を着た一人の男が病婦を診てくれと言って諸君を迎いに来たとする。その男は、両側に住んでいる人達が通行人の頭の上でほとんど手を触れ合うことができるほどの狭い路地の中に、諸君を導いて行く。諸君は腐った空気の中を、カンテラのふらふらと揺らめく光をたよりに、二階、三階、四階、五階と登って行く。そして薄暗い冷たい室の中に、汚ないぼろ布団に包まれて、毀れ寝台の上に横たわっている病婦を見る。その側には、子供等がぼろ着物の中にふるえながら、大きな眼を開いて諸君を見つめている。 聞いて見ると、この病婦の夫は、これまで何の仕事をしても毎日十二、三時間ずつ働いて来た稼人であったのだ。しかるに、この三日ばかり前から仕事がない。この仕事がないということは年々定期にやって来るのだ。しかし以前ならば、夫が失業をしても女房が日傭に出て、あるいは諸君等のシャツを洗ったりなどして、ともかくも日に十五銭ぐらいは取って来たものであるが、今はその肝心の女房がこの通りに二ヵ月も前から病床についたままなので、貧窮はますますこの家族の上に遠慮なく蔽いかぶさって来たのである。 医者諸君、この病気の原因は栄養不良と新しい空気の欠乏とによる貧血病であることを一目見て知った諸君は、この病人に向って何と言うか。毎日うまいビフテキを食べろと言うか。郊外に出て少し運動をしろと言うか。もっと乾燥した、空気の流通のいい室に移れと言うか。馬鹿な! それができるくらいなら、諸君の忠告を待たないでもとうの昔にやっているのだ。 もし諸君が善良な心を持っていて、同情のありそうな顔つきをして、そして親切に話しかけるならば、この家族のものらはなおいろいろと諸君に話すであろう。諸君の胸を張り裂くように、いま壁の向う側に苦しい咳をしているのは、火慰斗かけの女であるとか。一階下の室では、子供が皆な熱病を煩っているとか。地下室にいる洗濯婆さんは、生涯浮世の春を知らないで過しているとか。向う側の室の人はもっとみじめな生活をしているとか。 これらの病人に向って諸君は何と言うか。いい食物をとれと言うか。転地療養をしろと言うか。もっと静かな労働をしろと言うか。諸君はそう言いたくも、ついにそれを口から出すことができないで、張り裂けるような胸を抱いて、唇に呪詛を浮べてそしてその家を立ち去るであろう。 その翌日、諸君はなおきのうの、犬小屋の中に住まう病人について考えている。すると諸君の仲間が、きのう使いが馬車で迎えに来て、ある立派な家へ貴婦人を診に行ったと話しする。この貴婦人というのは、毎日毎日化粧と訪問と舞踏と夫婦喧嘩とに夜の目も寝ずに騒ぎ廻ったために、ついによわり込んだのだそうである。諸君の仲間は女に注意して、もっと静かな生活をして、もっと淡白な食物をとり、新鮮な空気の下に散歩して、そして幾分かの必要な仕事ができるようになるために室内体操をするがいいと言って来た。 一方は生涯のあいだ十分に食べることもできず、十分に休息することもできなかったために死し、一方は生涯のあいだ労働の何たるかも知らないで過したためによわり込んだ。 もし諸君が、境遇次第どうにでもなるというような、そうしてとうてい見るに忍びない事実を見ても、ただ軽い溜息をもらして一杯のビールに気を紛らそうというような懦弱きわまる性質のものであったら、永いあいだにはこれらのコントラストに馴れてしまって、その上に諸君の動物性はますます諸君を助けて、ついにはもう、自分が貧民の列にはいらないように、どうかして自分だけは道楽者のあいだに身をおくように、とのこの一事をのみ思い煩うものとなってしまうであろう。 もし諸君が「人間」であるならば、もし諸君の感情が諸君のからだの中で意志の活動となるならば、また諸君の動物性がまだまったく諸君の霊能を殺し尽していないならば、諸君は必ず家に帰って、つぎのように言うであろう。 「いや、こんなことは確かに不正なことである。こんな状態は決して永く存続させるべきものではない。病気を治すばかりでは役に立たない。病気の予防をするのが肝心だ。生活状態が少し向上して、人間の知識が少し発達すれば、病人の数や病気の数の半分は、容易に統計表の中から取り除かるべきものである。薬などはどうでもいい。新しい空気を吸い、いい食物を食い、そしてもっと静かな労働をするのが一番の必要だ。これができなければ医者という職業は詐偽である。瞞着である」と。 ここにおいて諸君は、社会主義を了解するであろう。そしてさらに詳細にこれを知りたくなるであろう。そして、もし愛他主義という言葉が諸君にとって無意義なものでないならば、また自然科学の厳重な帰納法を社会問題の研究の上に応用してゆくならば、諸君はついにわれわれの戦列に加わって、われわれとともに革命のために働く人となるであろう。 三 しかし諸君はあるいはこう言うかも知れない。「実務などは無駄だ。われわれは天文学者や、物理学者や、化学者のように、純粋科学に献身する。それならば、少なくとも将来子孫のために、必ずその効果をもたらすであろう。」 しからば諸君は科学の中に何を求めるのか。まずそれをきめてかかろう。 自然の神秘を研究したり、われわれの知能を働かせたりして、われわれの得るところのものは、実に快楽――勿論それは広大なものであろうが――に過ぎないのだろうか。それならば私は諸君に尋ねる。その生涯を愉快に送るために科学を研究する学者は、やはり同じようにその生活の中にただ直接の快楽だけを求めて、それを酒の中に見出した酔漢と、どう違うのだろう。 なるほど学者はその快楽の源泉をよりうまく選んだ。この源泉は、より強い、そしてより永続きする快楽を与える。しかし、要するにただそれだけのことだ。いずれも、酔漢も学者も、自分一身の快楽という同じ利己的目的を持っているのだ。しかし諸君は、決して、そんな利己主義者の生活を望んでいるのじゃあるまい。科学のために働くのは人類のために働くのだと思っているのだろう。そしてまた、そう思ったからこそ、科学の研究を選んだんだろう。美しい妄想だ。初めて科学に献身した時、誰か一時はこの妄想を抱かなかったものがあろう。 しかしながら諸君、もし諸君が本当に人類のため研究をして行くというのならば、すぐに恐ろしい障害が諸君の前に現れて来る。なぜなら、諸君が少しでも正しい心を持っているなら、諸君はすぐに気がつく筈だ。今日の社会では、科学は一贅沢品に過ぎない。少数の人々にはその生活を愉快にさせる。しかし人類のほとんど全体にとっては絶対に寄りつけもしない。 現に、科学がその立派な宇宙観的諸概念をたててから、すでに百年あまりになる。しかるに、この概念を持っているものの数、あるいは本当に科学的な批評的精神を得ているものの数は、どれだけあるだろう。それは幾億万の人々がまだ野蛮人にも等しい偏見と迷信とを抱いて、したがってまた、いつも宗教的詐欺師どもの玩弄品になっている間に、わずかに数千の人人に過ぎない。 また、科学が生理的や精神的の衛生についての合理的基礎をつくるために、何をしたかを、ただ一瞥でもして見るがいい。科学はわれわれに言う。われわれの身体の健康を保つためには、われわれはどう生活しなければならないか、群衆の衛生をはかるにはどうしなければならないかと。科学はまたわれわれに知識的および道徳的幸福の方法を教える。しかし、この二つの道のために成就された広大な研究は、まったくただわれわれの書物の中に死文となっているだけじゃないか。 それはまたなぜか。 それは、今日では、科学は少数特権者のためにだけつくられているからだ。社会を賃金奴隷と資本所有者との二つの階級に分ける社会的不平等が、合理的生活をさせる諸条件についてのいっさいの教えを、人類の十分の九のものにとっての嘲弄のようにしてしまったからだ。 私はまだ幾らでも例をひいて話しすることができる。しかし私はくどくどしくは言わない。諸君はただ、ほこりで黒くなった窓ガラスがようやく白日の光を書物の上に通すような、かのファウストの書斎から出るがいい。そして諸君のまわりを見るがいい。諸君は歩一歩ごとにこの思想を確かめる証拠を自分で見出すであろう。 今日はもう科学上の真理や発見を蓄積する時ではない。何よりもまず、科学によって得られた真理を広めて、それを実生活に適用して、万人共有のものにすることが肝要なのだ。すべての人が、全人類がそれを自分のものにし、自分の生活に適用するようになることが肝心なのだ。科学は贅沢品でなくて、すべての人の生活の基礎にならなければならないのだ。正義がそれをそういうふうに望むのだ。 私はなお進んで言う。これは科学そのものの利益からいっても、そうしなければならないのだ。科学は、新しい真理を受けいれるように準備された社会があって、初めて本当の進歩をする。熱の機械的起原論は、今日ヒルンやクロオシアスが言っているのとほとんど同じ言葉で、すでに十八世紀に唱えられていたのだが、物理学の知識が十分広まった、それを受けいれることのできる社会ができるまで、八十年のあいだ学士会院の記録の中に埋もれていた。また、種の変化についてのエラスムス、ダーウィンの考えが、その孫の口に賛成されて、輿論の圧迫をうけつつついに学士会院の学者達に承認されるまでには、実に三世代もかかっている。学者もやはり詩人や美術家と同じように、自分等がそこに活動し教訓する、その社会の産物なのだ。 しかし、もし諸君がこういった思想に徹したなら、何よりもまず学者にだけありあまるほどの科学的真理を専有させて、人類のほとんど全体を五世紀も十世紀も前と同じように、それらの真理を知ることのできない奴隷や器械のようにしておく、この現状に根本的の改革を加えることが肝心だと分るだろう。そしてまた、諸君がこの博大な人道的の、あくまでも科学的な思想に徹した時、その時に諸君は純粋科学の興味を失ってしまうだろう。諸君はこの改革を行う方法の研究を始めるだろう。そしてもし諸君がその研究をするのに、科学上の研究をする時にやったのと同じ公平無私で進んだなら、諸君は必ず社会主義を採用するだろう。曲論僻説とは縁を断ってわれわれの中にはいって来るだろう。すでにありあまるほどの快楽を持っている少数の人々に、その上にも快楽を与えるために働くことがいやになって、諸君の知識と熱心とを被圧制者の即刻の用に捧げるだろう。 そしてその時に諸君は、義務を果したという感じと、諸君の感情と行為との間に確かめられた本当の一致とによって、かつては夢にも知らなかった力を自分の中に見出すだろう。そしてまた、他日――しかもそれは、諸君の先生達にはお気の毒ながら決して遠いことではない――諸君がそのために働くだろう改革が行われた時、その時に科学は、集合的の研究とそのために働く労働者の群の有力な協力との中に新しい力を得て、今日の遅々とした進歩はそれに較べれば児戯の観をなすほどの、一大発展をするだろう。その時に科学を楽しめ。その楽しみは万人のためのものであるだろう。 四 もし諸君が法律の研究を終