Home Is Two Hungers — The One Who Stayed and the One Who Left — Epoche C2
場面設定: 夕暮れの、丘の上の村。教会の裏手、谷を見下ろす石のベンチに、二人の老人が並んでいる。眼下には、麦の畑が、傾いた西日に、ゆっくりと黄金色へ移ろい、谷の底を、細い川が光りながら縫っている。村は、半世紀前より、家がいくつか減り、いくつか増えた——けれど、谷は、変わらない。生まれてこのかた、この村を一度も離れず、畑と、教会と、墓地の傍らで老いてきたトマス(七十代、日に焼けた皺深い顔、節くれだった手、足元には連れの老犬)と、二十歳でこの村を出て、五つの国に暮らし、四十年ぶりに、ただ数日のために帰ってきたイレーネ(七十代、旅装の上等なショール、街の物腰、けれど目だけは、少女のままこの谷を見ている)。鐘楼の鐘が、夕べの時を、谷いっぱいに、ゆっくりと響かせる。 四十年ぶりよ、トマス。(と、古いベンチに、彼の隣へ腰を下ろす)村は、私の記憶よりも、小さくなっていた。でも、谷は、あのままね。四十年——あなたは、ずっと、この同じベンチに、座っていたわけでしょう。私は、五つの国で暮らしてきた。それなのに、こうして二人とも、同じ一つの谷を、眺めている。昔は、自分のほうが、よりよい人生を勝ち取ったのだと、思っていた。今は、どちらが、得な取引をしたのか、そんなに、確かではないの。 勝った負けたじゃないさ、イレーネ——お前は、ただ、出ていった。わしは、残った。そして、残ることが、わしに何をくれたか、教えてやろう。お前は、それを訊きに、戻ってきたんだろうから——わしは、ここに、属している。お前が、あのバスに乗った日に、手放した、そのやり方でな。わしの親父は、あの墓地にいる。親父の親父も。パン屋は、わしのパンの好みを知っているし、あの丘は、わしの名を知っている。それは、金じゃ買えんし、荷物には詰められん。シモーヌ・ヴェイユは、根を張ることは、人間の魂の、最も重要で、最も気づかれていない欲求だと書いた。わしは、彼女を読んじゃいない。ただ、彼女を、生きたのさ。 扎根——ええ。そして、私だって、それに焦がれなかったふりは、しないわ。何夜も、誰も母の名を知らない街で、ね。でも、トマス、あなたが今、自分で言ったことを、よくお聞きなさい。丘が、あなたの名を知っている。その丘は、また、あなたに、ついぞ、見つけさせてくれなかった——丘がもう知っていない場所で、あなたが、何者になっていたかを。あなたは、あなたのまま、留まった。私は、自分自身に、何度も何度も、五つの言語で、ならなければならなかった。誰もあなたを知らないときに『のみ』出会う、一つの自己が、あるの——あなたが何者でもなく、一から、一人の人間を、築かなければならないとき。あなたは、その自己に、ついぞ、出会わなかった。出会う必要が、なかったから。 なんと寂しい製造に、聞こえることか——一から一人の人間を築く、お前が生きようが死のうが気にもかけない場所で。お前は、それを自由と呼ぶ。わしなら、それを、眺めのいい故郷喪失、と呼ぶね。人間には、自分にその価値があろうがなかろうが、自分を抱きとめてくれる場所が、要るんだ。それが、故郷というものさ——お前が選ぶ場所ではなく、お前が、それに『負うている』場所。なぜなら、お前は、その庇護の中へと、生まれ落ちたんだからな。 『お前が負うている場所』。それが、根を張った者の見方を、一行に収めたもので、美しいし、そして、それはまた、あなたが、この村の信じることを、ただの一つも、疑わなかった理由でもある。あなたを抱きとめる場所は、あなたを、その場に、留めもするのよ。私が出ていったのは、私の名を知っていたその同じ丘が、私が十八のときには、私が何者であることを許されるかを、きっかり、決めてしまっていたから。エドワード・サイードが、亡命について書いている——それは、癒えることのない裂け目だ、と。本当よ、決して完全には、下ろせない悲しみ。でも、彼は、もう一つ、別のことも言った。亡命者は、世界を『対位法的に』見る、と——二つの旋律を、一度に。後にした場所と、辿り着いた場所が、いつも、共に鳴っている。私は、あなたよりも、この村が、はっきり見えているのよ、トマス。まさに、出ていったからこそ。あなたは、この村に、属することはできる。けれど、それを、見ることは、できないの。 (乾いた笑いを漏らして)では、わしは、盲(めし)いて、根を張っていて、お前は、目が冴えて、漂っている、と。たいした二人組だな、わしらは。だが、正直に答えてくれ、イレーネ——お前は、戻ってきた。五つの国を巡って、それでも、飛行機に乗って、このベンチに、座りに来た。なぜだ。もし、築いた故郷が、与えられた故郷と同じくらい良いのなら、何が、お前を、四千マイルも引き戻して、十八で卒業したはずの、村に、連れてきたんだ。 ……それが、私が、答えずに済ませるために、飛んできた問いで、あなたは、最初の十分で、それを、訊いてしまうのね。(と、ひと呼吸)ここの何かが、私のものだから。私が築いたどんなものも、ついぞ完全にはなりきれなかった、そのやり方で。私は、故郷を築いたわ——本物の故郷を、愛しもした——けれど、私は、それを、家を建てるように、築いたの。この場所は、私が、築いたんじゃない。それが、私を、築いた。私が、築かれていると知るより、前に。私が失った訛り、病んだときに無性に食べたくなるもの、丘とは、こういう形であるべきだという、その感覚——あなたが、それらを、私の中に、据えつけたのよ。あなたと、この畑が。私が、選べるようになる、前に。故郷を、出ることは、できる。けれど、どうやら、私の『中にある』故郷を、出ることは、できないらしい。それも、あのバスに、一緒に、乗ってきたの。 今、お前は、また、わしのイレーネのように、聞こえるよ。雑誌の中の、あの女ではなくてな。なら、わしらは、二人とも、ひとりよがりだったのかもしれん。わしは、お前の放浪を、喪失だと、純然たる喪失だと、思っていた。だが、こうして、ここに座って、お前に、これだけは認めよう——わしは、ただの一度も、自分の谷を、見たことがない。わしには、それは、ただの空気なんだ。お前は、今日、丘を越えてきたとき、息を呑んだだろう。わしは、六十年、それに、息を呑んだことが、ない。 そして、そこに、その取引が、むき出しになっているの。あなたは、帰属を持っている。私は、見ることを持っている。ハイデガーは、あなたが持っているものに、重い言葉を与えた——住まうこと、と。ただ、一点を占めることではなく、ある場所に『在る』こと、いたわりをもって。そうして、場所と人が、互いの中へと、育っていく。あなたは、ここに、住まっている。私は、たくさんの場所を、見事に占めてきたけれど、そのどれにも、住まわなかった——あるいは、少しだけ住まって、それから、その浅い根を、引き抜いて、移った。住まうことには、留まる者にしか持てない、時間が要るの。それが、道が、決して与えられないもの——静けさだけが、据えつけていく、あの深さよ。 なら、結局、得な取引をしたのは、わしのほうだ。お前が、それを、ほとんど、言ったようなものだぞ。 そうかしら? バシュラールは、こう書いた。私たちが生まれた家は、私たちの中に、築き込まれている、と——その階段や、その隅を、私たちは骨の中に運び、生涯、その部屋の中で、夢を見る、と。あなたは、その家を持っていて、しかも、今なお、そこに住んでいる。夢と、住所が、同じなのよ。それは、稀なことで、私は、それを羨んでいないふりは、しないわ。でも、あなたの根づきが、何を犠牲にしたか、これは、優しく言うけれど——あなたは、一つの故郷を、完璧に持っていて、一つの自己を、一つの谷を、一揃いの答えを、持っている——そして、あなたは、ただの一度も、それが、唯一のものかどうかを、確かめずに済んだ。深さ、ええ。でも、まっすぐ下へ伸びる、ただ一本の縦坑よ。私は、深さの代わりに、横へ、広がった。私たちのどちらも、両方は、手に入れなかったの。 (ゆっくりと)……まっすぐ下へ伸びる、ただ一本の縦坑。それは、もっともで、そして、こたえるな。わしの息子も、同じことを言う。もっと、ひどい言葉でな。自分の飛行機に、乗り込む前に。たぶん、本当のところは、『故郷』が、はじめから、一つのものでは、なかった、ということだ。たぶん、それは、正反対の方へ引っぱる、二つの飢えなんだ——一つの場所に、属したい、という飢えと、一人の人間に、なりたい、という飢え——そして、一つの場所は、その両方を、いつも一度には、与えられないのさ。 まさに、それよ。そして、それを言うのに、私たち二人で、七十年と、一脚のベンチが、かかった。ヴェイユは、実は、それを知っていたの——人は、彼女の、もう半分を、忘れているわ。彼女は、私たちには根が要る、と言った、ええ——でも、彼女は、こうも言ったの。すべての人間には、複数の根が要る、と。『その人が、その自然な一部をなしている、複数の環境を通じて、自らの道徳的・知的・霊的な生の、ほぼ全体を、汲み取るために』。一本の根ではない。たくさんの根。根を張った者と、放浪する者は、二人とも、全き者であろうとして、そして、二人とも、半分で、終わったの——あなたは、一本の深い根で、私は、たくさんの浅い根で。 なら、全き人間は——もし、そんな生き物がいるとすれば——根を持ち、『かつ』、去った者だ。出ていって、そして、戻ってきた者。(と、彼女を見る)それは、わしが気づくに、わしら二人のうち、実際に、その両方を、やってのけた、ただ一人だがな。 (柔らかく笑って)よして。私が戻ってきたのは、一週間のためよ、トマス。一生のためじゃない。日曜には、また別の飛行機に乗って、そして、どこかの空港で、午前三時に、このベンチを恋しがるの。そして、その疼きこそが、私の根づきなのよ——私はただ、自分のを、持ち運ばなければならない、あなたは、自分のの中に、座っていられるところを。サラ・アハメドが書いている。移民にとって、故郷とは、あなたが『いる』場所ではなく、あなたを方向づける、一種の憧れなのだ、と——あなたは、立っているどこからでも、方角のように、それに、向き合う。あなたは、あなたの故郷の中に住むことで、それに向き合う。私は、去り、そして、戻ることで、自分のに、向き合う。違う動詞。同じ言葉よ。 (しばしの沈黙のあと、黄金色に染まっていく谷を見て)なら、お前の故郷に、わしと一緒に、しばし、座っていけ。日曜の飛行機の、前に。お前は、自分の故郷に、向き合う。なら、わしに、ただ一つの場所の中に、ただ『在る』だけの、数日を、貸させてくれ。(と、しばし黙る)なあ、この何年も、わしは、ああして出ていったお前のほうが、何かを失ったのだと、思っていた。今夜は、そう確かでもない。わしらは、それぞれ、本来は一つで、全きはずだったものの、半分ずつを、抱えてきたんだ——そして、その二つの半分が、ついに出会う、ただ一つの場所が、こういうベンチの上、こういう時刻、留まった者と、去った者が、同じ谷を眺め、そして、ようやく、互いに、本当のことを、語り合うときなのさ。谷は、わしらのどちらが正しかったかなど、気にもかけん。それは、ただ、黄金色になる——わしらが十八だったときと、同じように——去った娘のためにも、留まった少年のためにも。日曜まで、いろ、イレーネ。丘は、まだ、お前の名を、知っている。丘は、ただ、お前が戻ってきて、それを呼ぶのを聞くのを、ずっと、待っていただけなのだから。 解説: 夕暮れの丘の上の村、谷を見下ろすベンチを舞台にした C2 級・十六ターンの弁証法。四十年ぶりに帰郷した放浪の老女と、生涯村に留まった老人が、『故郷とは何か』を問う。正:留まったトマスの立場——根を張ることは、ヴェイユの言う、魂の最も重要で気づかれぬ欲求だ。墓地の父祖、自分を知る丘、抱きとめてくれる場所への帰属——それは選ぶものでなく負うもの。放浪は、眺めのいい故郷喪失だ。反:去って帰ったイレーネの立場——丘が名を知るあなたは、丘の知らぬ場所での自己に出会えなかった。サイードの亡命は癒えぬ裂け目だが『対位法的』な二重の視座をくれ、去ったからこそ村が見える。属することはできても見ることはできない。合:『故郷』は一つでなく、場所に属したい飢えと、自分になりたい飢えの二つが反対へ引く。留まった者は深さ(ハイデガーの住まうこと、バシュラールの生家)を得、去った者は見ることを得て、双方が半分ずつ。ヴェイユは実は『複数の根』も説いた。だが帰郷した事実こそ答え——イレーネの疼き(空港の午前三時の望郷)はアハメドの言う移民の故郷=立つ場所から向き合う方角であり、留まった者は座り、去った者は携える。最後は『本来一つで全きものの半分ずつを抱えた二人が、同じ谷を眺め本当のことを語り合うベンチでのみ二つの半分が出会う/丘はまだお前の名を知っている』へ収束する。 参考文献 Weil, S. (1949). 『L'Enracinement(根をもつこと)』. Paris: Gallimard. Said, E. W. (2000). 「Reflections on Exile」, 『Reflections on Exile and Other Essays』所収. Cambridge, MA: Harvard University Press. Heidegger, M. (1951). 「Bauen Wohnen Denken(建てること、住まうこと、考えること)」, 『Vorträge und Aufsätze』所収. Bachelard, G. (1958). 『La Poétique de l'espace(空間の詩学)』. Paris: PUF. Ahmed, S. (1999). 「Home and Away: Narratives of Migration and Estrangement」. International Journal of Cultural Studies, 2(3), 329-347.