Pan, the God of Shepherds — Ueda Bin
牧羊神 阜 ( をか ) の上の森陰に 直立 ( すぐだ ) ちて 牧羊の神パアン 笙 ( しやう ) を吹く。 晝さがりの日暖かに、風も吹きやみぬ。 天 ( そら ) 青し、雲白し、 野山 ( のやま ) 影短き 音 ( おと ) 無 ( なし ) の世に、たゞ笙の聲、 ちよう、りよう、ふりよう、 ひうやりやに、ひやるろ、 あら、よい、ふりよう、るり、 ひよう、ふりよう、 蘆笛 ( あしぶえ ) の 管 ( くだ ) の 簧 ( した ) 、 震 ( ふる ) ひ響きていづる 音 ( ね ) に、 神も昔をおもふらむ。 髯 ( ひげ ) そゝげたる 相好 ( さうがう ) は、 翁 ( おきな ) さびたる 咲 ( ゑ ) まひがほ、 角 ( つの ) さへみゆる 額髮 ( ひたひがみ ) 、 髮はらゝぎて、さばらかに、 風雅の心浮べたる ――耳も 山羊 ( やぎ ) 、 脚 ( あし ) も山羊―― 半獸 ( はんじう ) の姿ぞなつかしき。 音 ( ね ) の 程 ( ほど ) らひの 搖曳 ( ゆりびき ) に、 憧 ( あこが ) れごゝち、夢に入るを きけば昔の戀がたり、 「 細谷川 ( ほそだにかは ) の 丸木橋 ( まるきばし ) 、 ふみかへしては、かへしては、 あの山みるにおもひだす、 わかき心のはやりぎに 森の 女神 ( めがみ ) のシュリンクス 追ひしその日の 雄誥 ( をたけび ) を。 岩の 峽間 ( はざま ) の 白樫 ( しらがし ) の 枝かきわけてラウラ 木 ( ぎ ) や ミュルトスの森すぎゆけば、 木蔦 ( きづた ) の 蔓 ( つる ) に 絡 ( から ) まるゝ 山葡萄 ( やまぶだう ) こそうるさけれ。 去年 ( こぞ ) の 落栗 ( おちぐり ) 毬栗 ( いがぐり ) は 蹄 ( ひづめ ) の 割 ( われ ) に 挾 ( はさ ) まれど、 君を思へば 正體 ( しやうたい ) 無しや、 岩角 ( いはかど ) 、 木株 ( こかぶ ) 、 細流 ( せゝらぎ ) を 踏みしめ、飛びこえ、 徒 ( かち ) わたり、 雲の 御髮 ( みぐし ) や、 白妙 ( しろたへ ) の 肌理 ( きめ ) こまやかの 肉置 ( しゝおき ) の 肩を 抱 ( し ) めむと 喘 ( あへ ) ぎゆく。 やがてぞ谷は 極 ( きは ) まりて。 鳶尾草 ( いちはつぐさ ) の 濃紫 ( こむらさき ) にほひすみれのしぼ 鹿子 ( がのこ ) 、 春山祇 ( はるやまづみ ) の來て遊ぶ 泉のもとにつきぬれば 胸もとゞろに、かの君を 今こそ 終 ( つひ ) に得てしかと 思ふ心のそらだのめ。 淺澤水 ( あさざはみづ ) の 中島 ( なかじま ) に 仆 ( たふ ) れてつかむ 蘆 ( あし ) の 根 ( ね ) よ。 あまりに物のはかなさに、 空手 ( むなて ) をしめて、よゝと泣く 吐息 ( といき ) ためいきとめあへず、 愁 ( うれ ) ひ 嘯 ( うそぶ ) くをりしもあれ、 ふしぎや、音のしみじみと、 うつろ 蘆莖 ( あしぐき ) 鳴りいでぬ、 蘆 ( あしつゝ ) 響き鳴りいでぬ。 さては抱けるこの草は 君が心のやどり 草 ( ぐさ ) 、 戀は草、草は戀。 せめてはこれぞわが物と 笙 ( しやう ) にしつらひ、 年來 ( としごろ ) の つもる 思 ( おもひ ) を口うつし 移して吹けば片岡に 夫 ( つま ) 呼 ( よ ) ぶ 雉子 ( きじ ) の 雌鳥 ( めんどり ) も、 胡桃 ( くるみ ) に 耽 ( ふ ) ける 友鳥 ( ともどり ) も、 原ににれがむ 黄牛 ( あめうし ) も、 牧 ( まき ) に 嘶 ( いなゝ ) く 黒駒 ( くろごま ) も、 埒 ( らち ) にむれゐる 小羊 ( こひつじ ) も、 聞惚 ( きゝほ ) れ、 見惚 ( みほ ) れ、あこがれて、 蝉の 連節 ( つれぶし ) のどやかに、 蜥蜴 ( とかげ ) も 石 ( いし ) に眠るなる 世は 寂寥 ( さびしら ) の 眞晝時 ( まひるどき ) 、 蘆に變りしわが戀と おのれも、いつか、ひとつなる うつら心や、のんやほ、のんやほ、 常春藤 ( いつまでぐさ ) のいつまでも うれし 愁 ( うれへ ) にまぎれむと、 けふも 日影 ( ひかげ ) の 長閑 ( のどけ ) さに、 心をこめて吹き吹けば、 つもる思も口うつし、 ああ蘆の笛、蘆の 笙 ( しやう ) の笛」。 日はやゝに傾きて、 遠里 ( とほざと ) に 靄 ( もや ) はたち、 中空 ( なかぞら ) の 温 ( ぬく ) もりに、 草の 香 ( か ) いや高き片岡、 夢 薫 ( かを ) り、 現 ( うつゝ ) は 匂 ( にほ ) ふ今、 眠眼 ( ねむりめ ) の牧羊神、笙を吹きやみぬ。 森陰に音もなし。 村雨 ( むらさめ ) ははらゝほろ、 山梨 ( やまなし ) の枝にかゝれば、 けんけんほろゝうつ 雉子の鳴く 音 ( ね ) に 覺 ( さ ) まされて、 磐床 ( いはどこ ) いづる牧羊の神パアン、 胸毛 ( むなげ ) の露をはらひつゝ 延欠 ( のびあくび ) して仰ぎ見れば、 有無雲 ( ありなしぐも ) の 中天 ( なかぞら ) を ひとり寂しく 鸛 ( こふ ) の鳥、 遠 ( をち ) の 柴山 ( しばやま ) かけて飛ぶ。 かへりみすれば、 川添 ( かはぞひ ) の 根白柳 ( ねじろやなぎ ) を 濡燕 ( ぬれつばめ ) 、 掠 ( かす ) め飛び 交 ( か ) ふ雨あがり、 今、 夕影 ( ゆふかげ ) のしるけきに、 生 ( いき ) のこの世の 忙 ( せは ) しさよ、 地 ( つち ) には蟻のいとなみを、 空には蜂の 分封 ( こわかれ ) を つくづく見れば、 宿命 ( しゆくめい ) の かたき 掟 ( おきて ) ぞいちじるき。 水の 面 ( おもて ) に 映 ( うつ ) りたる おのが姿に戀じにの 玉玲瓏 ( ぎよくれいろう ) の 水仙花 ( すゐせんくわ ) 、 花は散りてし葉の上を、 蟻は 斜 ( なゝめ ) に、まじくらに ――なに 營 ( いとなみ ) のすさびなる―― 生 ( いき ) の力に 驅 ( か ) られたり、 またある時は 糧 ( かて ) 運ぶ いそしき 業 ( わざ ) のもなかにも、 蟻※ ( ありづか ) [#「土へん+(蒙−くさかんむり)」、54-上-22] 近き砂の上、 二疋 ( にひき ) の蟻の足とめて、 なに語りあふ、たゆたへる、 遇 ( あ ) ふさ 離 ( き ) るさのみち 惑 ( まどひ ) 、 蟲の世界のまつりごと、 健氣 ( けなげ ) にも、はた 傷 ( いた ) ましや。 空は今何の 反橋 ( そりはし ) ぞ、 天 ( あま ) 馳使 ( はせつかひ ) わたらすか、 東の山に虹かゝり、 更に 黄金 ( こがね ) の 一帶 ( いつたい ) の 霓 ( あふさ ) わたせるけしきにて、 鹿とり 靡 ( なび ) く 弓雄等 ( ゆみをら ) が 鳴鏑 ( かぶら ) 射放 ( いはな ) つ音たてゝ、 蜂の 巣立 ( すだち ) の 子別 ( こわかれ ) に 父蜂 ( おやはち ) さそふ 細工蜂 ( さいくばち ) 、 七歩 ( しちほ ) ばかりの 後 ( うしろ ) より、 やゝ高く飛ぶ 女王蜂 ( によわうばち ) 、 たとへば 修羅 ( しゆら ) の 巷 ( ちまた ) にて、 亂飛 ( らんぴ ) 、 亂廻 ( らんくわい ) 、 虎走 ( とらばしり ) 、 勇猛 ( ゆうまう ) たぐひ無き兵も、 パアンふと 脅 ( おびやか ) しぬれば 人崩 ( ひとなだれ ) つきて、 人馬 ( じんば ) 落ちかさなり、 惑 ( まど ) ひ、ふためき走るごと、 大騷亂 ( だいさうらん ) のわたましや、 生 ( せい ) の 力 ( ちから ) の 仕業 ( しわざ ) なる。 遙 ( はるか ) に山のあなたには、 人の築きし城のうち、 國富み榮え、民 繁 ( しげ ) き 都はあれど、ものみなは かたみにつらき 犧牲 ( いけにへ ) の 鬮 ( くじ ) のさだめを 免 ( のが ) れあへず、 青人草 ( あをひとぐさ ) の 細工蜂 ( さいくばち ) 、 黄泉 ( よみ ) の 坂路 ( さかぢ ) のさかしきに、 とはに 磐石 ( ばんじやく ) 押し上ぐる シシュフォス 王 ( わう ) の姿かな。 種 ( たね ) とり 蜂 ( ばち ) のふところ手、 夢の浮世のぬめり 男 ( を ) の しやらり、しやらりとしたる身も、 子別 ( こわかれ ) 過 ( す ) ぎし 初秋 ( はつあき ) の 朝 ( あさ ) の 命 ( いのち ) を知らざるや、 イクシオオンのたえまなく 車輪 ( しやりん ) に 廻 ( めぐ ) るあはれさよ、 それにひきかへ 王蜂 ( わうばち ) の 滿ち足らひたる 幸 ( さいはひ ) は こよなき物と見えながら ウラノスはクロノスに、クロノスは 其子ジウスに 滅 ( ほろぼ ) され、 ジウスの 代 ( よ ) さへ 危 ( あやふ ) きを プロメエチウスは知るといふ 流轉 ( るてん ) の世こそ悲しけれ。 噫 ( あゝ ) 勢力 ( せいりき ) の強くとも 命 ( めい ) の 掟 ( おきて ) になに 克 ( か ) たむ。 理 ( り ) を知る心深ければ 悲 ( かなしみ ) さらに深まさる。 慰 ( なぐさめ ) はたゞこの笙の笛、 牧羊神の笛の 音 ( ね ) に、 世の 秘事 ( ひめごと ) ぞかくれたる。 名 ( な ) に 負 ( お ) ふパアン吹く笛の 音 ( ね ) に、 この 天地 ( あめつち ) のものみなは、 擧 ( こぞ ) りて 群 ( む ) れゐふくまれて、 身も世も忘れ、 處 ( とこ ) 、 時 ( とき ) の 辨別 ( わいだめ ) も無き 醉心地 ( ゑひこゝち ) 、 夢見る心地 誘 ( さそ ) ふなる 不思議の笙の笛の聲、 悠 ( のび ) やかに、 朗 ( ほがら ) かに、あんら、 緩 ( ゆる ) やかに、 森の泉に來て歎く 谺姫 ( こだまひめ ) さへほゝゑませ、 谷 ( たに ) の 八十隈 ( やそくま ) 吹き 靡 ( なび ) け、 人里 ( ひとざと ) 遠く傳はれば、 牧人 ( ぼくじん ) ( つゑ ) を 擲 ( なげう ) ちて、 羊踊 ( ひつじをどり ) りをひとをどり、 生 ( いき ) の 悦 ( よろこび ) みちわたる 面 ( おもて ) にしばし 夕 ( ゆふ ) づく日、 耀 ( かゞよ ) ふみれば 宿命 ( しゆくめい ) の 覊絆 ( きづな ) はいつか 解 ( と ) かれたり。 をちこち山の影長く、 夕 ( ゆふべ ) の空の 艶 ( えん ) なるに なほも笛吹く牧羊神。 雲の 湊 ( みなと ) の 漁火 ( いさりび ) か、 ちろり、ちろりと、 長庚 ( ゆふづゝ ) は 朝 ( あさ ) が散らせるよき物を、 羊を、 山羊 ( やぎ ) を集むるか、 母の 乳房 ( ちぶさ ) に 髫髮兒 ( うなゐご ) を 呼びかへすなるひとつ星 ああ二つ星、三つ星と 數 ( かず ) 添 ( そ ) ふ空の 縹色 ( はなだいろ ) 、 深 ( ふか ) まさり行く夕まぐれ、 羊の鈴の 音 ( ね ) も絶えて、 いづこの野邊の 花垣 ( はながき ) か、 燕の 妹 ( いもと ) 、雉子の叔母、 舌を 絶 ( た ) たれし 弟姫 ( おとひめ ) の あの 容鳥 ( かほどり ) の歌の聲、 間 ( ま ) 無 ( な ) く 繁 ( しば ) 鳴 ( な ) く 恨 ( うらみ ) さへ、 和 ( やは ) らぎたりや、この 夕 ( ゆふべ ) 。 こゝにパアンも今はとて、 さらばの 音取 ( ねとり ) 、 末長 ( すゑなが ) く、 「さらば 明日 ( あす ) 參 ( まゐ ) らう。 うえうちり、たちえろ」 白樺 木立 ( こだち ) わけ入れば 東の 阜 ( をか ) に月はのぼりぬ。 車に乘りて 赤松の林をあとに、 麻畠 ( あさばたけ ) ひだりにみつゝ、 車はいま 堤 ( つゝみ ) にかゝる。 ほのかなる水のにほひに、 河淀 ( かはよど ) の近きは 著 ( し ) るし。 三稜草 ( みくりぐさ ) 生 ( お ) ふる 河原 ( かはら ) に 葦切 ( あしきり ) はけゝしと 噪 ( さわ ) ぎ、 鵠 ( くゞひ ) こそ夏は 來 ( きた ) らね、 たまたまに 百舌 ( もず ) の 速贄 ( はやにへ ) 、 篦鷺 ( へらさぎ ) の何をか思ふ しよんぼりと立てる 畷 ( なはて ) に、 紡績 ( ばうせき ) の宿にやあらむ、 きり、はたり、はたり、ちやう、ちやう、 筬 ( をさ ) の 音 ( おと ) やゝにへだゝり、 道祖神 ( だうそじん ) 祭 ( まつ ) るあたりの 鐵道の踏切近く、 繩帶 ( なはおび ) [#ルビの「なはおび」は底本では「なはおぴ」] の 襤褸 ( つゞれ ) の 衣 ( ころも ) 、 勝色 ( かちいろ ) は 飾磨 ( しかま ) の 染 ( そめ ) の 乳呑子 ( ちのみご ) を 負 ( お ) へる 少女 ( をとめ ) は、 淺茅生 ( あさぢふ ) の 末黒 ( すぐろ ) に立ちて 萬歳 ( ばんざい ) と 囃 ( はや ) し送りぬ。 萬歳はなれにこそあれ、 幾年 ( いくとせ ) を生きよ、 里 ( さと ) の子。 人の世に尊きものは 土の 香 ( か ) ぞ、 國 ( くに ) の 御魂 ( みたま ) ぞ。 僞 ( いつはり ) の 市 ( まち ) に 住 ( すま ) へば 産土 ( うぶすな ) の神に 離 ( さか ) りて 養 ( やしなひ ) をかきたる人も、 埴安 ( はにやす ) の 郷 ( さと ) の土より 生 ( はえ ) ぬきの