An Essay Concerning Human Understanding — John Locke
人間知性論 ロック 人間知性論 著 ジョン・ロック (第二版に拠る)第二分冊 目次 第三巻 語について 章 一 語ないし言語一般について 二 語の意義について 三 一般名辞について 四 単純観念の名について 五 混合様態と関係の名について 六 実体の名について 七 小辞について 八 抽象名辞と具体名辞について 九 語の不完全さについて 十 語の濫用について 十一 右に述べた不完全さと濫用を正す手立てについて 第四巻 知識と蓋然性について 章 一 知識一般について 二 我々の知識の段階について 三 人間の知識がどこまで及ぶかについて 四 我々の知識の実在性について 五 真理一般について 六 普遍命題、その真理性と確実性について 七 公理について 八 空疎な命題について 九 存在に関する三重の知識について 十 神が存在するという知識について 十一 他の事物が存在するという知識について 十二 知識の増進について 十三 知識をめぐるその他の考察 十四 判断について 十五 蓋然性について 十六 同意の度合いについて 十七 理性(と三段論法)について 十八 信仰と理性、およびそれぞれに固有の領分について 十九 (熱狂について) 二十 誤った同意、すなわち誤りについて 二十一 学問の区分について 第三巻 語について 第一章 語ないし言語一般について 1. 人は分節音を作るのに適している 神は人間を社会的な生き物として造った。だから人間には、同類と交わろうとする傾きを与え、交わらずにはいられない必然をも課した。授けたのはそれだけではない。言語をも与えた。言語こそ、社会を営む大きな道具であり、社会をつなぐ共通の絆となるはずだった。そこで人間の器官は、生まれつき、分節した音を作るのに適した形に整っている。我々はその音を語と呼ぶ。だが、これだけでは言語は生まれない。オウムをはじめ幾種かの鳥は、教えれば十分に明瞭な分節音を出す。それでも言語を操る力はまるで無い。 2. その音を観念の記号として用いること したがって、分節音があるだけでは足りない。人間はさらに、その音を内なる思念の記号として使えなければならなかった。自分の心のうちにある観念に、その音を標として当てられなければならなかった。そうしてはじめて観念は他人に知られ、人の心に浮かぶ思いが互いに伝わる。 3. その音を一般的な記号とすること しかし、これでもまだ語は本来あるべきほどには役に立たない。音を観念の記号にできる、というだけでは言語は完成しない。その記号が、いくつもの個々の事物をまとめて包める形で使えなければならない。個々の事物が一つひとつ別の名を要するとなれば、語は際限なく増え、かえって使いものにならないからだ。この不便を除くために、言語はもう一段の工夫を得た。一般名辞を使うことである。一つの語で、数多くの個々の存在に印をつけられるようになった。音をこう有利に使えるのは、記号に立てられた観念そのものが違うからにほかならない。一般観念を表すように作られた名は一般的な名となる。表す観念が個別的であれば、その名は個別的なままにとどまる。 4. 積極的な観念が無いことを表すのに用いること 観念を表すこうした名のほかに、人が使う語がまだある。何かの観念を表すのではなく、観念の欠如や不在を表す語である。欠けるのは単純観念のこともあれば複合観念のこともあり、観念のすべてが欠けることもある。ラテン語の nihil、英語の ignorance(無知)や barrenness(不毛)がそれに当たる。こうした否定の語・欠如の語について、およそ観念に属さない、何の観念も表さない、と言うのは正しくない。もしそうなら、まったく意味のない音になってしまう。これらの語は積極的な観念に関わり、その観念が無いことを表しているのだ。 5. 語は突きつめれば感覚的観念を表す語に由来する 我々の語が共通の感覚的観念にどれほど依っているか。ここに目を留めれば、あらゆる想念と知識の出どころにも少しは近づける。感覚から遠く離れた働きや想念を表す語も、もとをたどれば感覚に発している。手近な感覚的観念から、より奥まった意義へと移され、感覚には捉えられない観念を表すようになった。たとえば IMAGINE(思い描く)、APPREHEND(捉える)、COMPREHEND(包み込む)がある。ADHERE(付き従う)、CONCEIVE(はらむ)、INSTIL(滴り入れる)も同じだ。DISGUST(嫌悪)、DISTURBANCE(かき乱れ)、TRANQUILLITY(静けさ)もそうである。どれも感覚的な事物の働きから取られ、思考のある様態に当てられた語である。SPIRIT(精神)は本来の意義では息のことだ。ANGEL(天使)は使者のことである。どの言語でも源までたどれば、感覚に入らないものを指す名は感覚的観念から起こったと分かるだろう。私はそれを疑わない。ここから、いくらか見当がつく。言語を最初に始めた人々の心を満たしていた想念がどのようなものであったか。それがどこから来たか。さらに、物に名をつけるという場面でさえ、自然が知識の源と原理をそれと知らせずに人へ示していたことも見えてくる。彼らは自分の内に感じた働きや、感覚に入らない観念を他人へ知らせようとした。それには、ありふれた感覚の観念から語を借りるほかなかった。そうすれば、外に感覚的な現れを持たない内なる働きも、他人が呑み込みやすくなる。やがて自分の心の内なる働きを表す名が定まり、互いに通じるようになる。そこまで来れば、他のあらゆる観念も語で知らせるだけの備えが整う。観念は、外なる感覚的な知覚か、その知覚をめぐる心の働きか、どちらかから成るほかないからだ。すでに証明したとおり、我々の観念はすべて二つの源から来る。外にある感覚的対象から来るか、自分の内で感じるものから来るかである。後者は我々自身の精神が内で働くところであり、我々はそれを自分の内で意識している。 6. 論ずべき主題の割り振り しかし言語は、教えることと知ることに仕える道具である。その用い方と力をよりよく理解するには、次の点を順に考えておくとよい。 第一に、言語を用いるとき、名は直接には何に当てられているのか。 第二に、固有名を除けば、名はすべて一般的である。だから個々のこれこれ一つの物ではなく、物の種類や部門を表す。そこで次に考えねばならない。物の種類や種別とは何か。ラテン語の呼び名のほうがよければ、種と類とは何か。それは何に存し、どのようにして成り立つのか。ここを当然そうすべきほどよく見ておけば、語の正しい使い方も見えてくる。言語が生まれつき持つ利点と欠点も分かる。語の意義が曖昧になり、また定まらなくなるという不都合を避けるには、どんな手立てを取るべきか。それも見えてくる。ここが分からないままでは、知識について明晰にも順序立てても論じられない。知識は命題を扱い、しかも多くは普遍命題を扱う。だからおそらく思われている以上に、知識は語と深く結びついている。そこで以下の諸章では、この考察を扱う。 第二章 語の意義について 1. 語は感覚に訴える記号であり、観念を伝えるのに欠かせない 人はさまざまな思考を抱く。他人にも自分にも益と楽しみをもたらす思考がある。だがそれはみな胸の内にとどまり、他人からは見えず隠れている。思考そのものが表に現れ出ることもない。社会の慰めと利益は、思考を伝え合わずには得られない。そこで人は、外に現れる感覚的な記号を見つけ出す必要があった。思考を組み立てている観念は目に見えない。その観念を記号によって他人へ知らせるためである。この目的には、数の豊かさでも出てくる速さでも、分節音ほど適したものがなかった。しかも人は、その音をたやすく多様に作り出せると気づいた。こうして語が観念の記号として用いられるに至った次第も見当がつく。語は生まれつき、この目的によく適っていた。ただし、個々の分節音と特定の観念とが自然に結びついているわけではない。もし結びついていれば、人類の言語は一つしかないはずだ。結びつけたのは人の自由な取り決めである。ある語をある観念の標に当てる、と恣意的に取り決めたのだ。つまり語の役目は、観念を指す感覚的な標であることにある。語が表す観念こそ、その語に固有の、直接の意義である。 2. 語は直接の意義においては、それを使う人が持つ観念の感覚的な記号である 人がこの標を使う目的は二つある。一つは自分の思考を書きとめ、記憶を助けること。もう一つは、いわば自分の観念を取り出し、他人の目の前に並べることだ。だから語は、第一の意義すなわち直接の意義においては、それを使う人の心にある観念だけを表す。その観念が、表すはずの事物からどれほど不完全に、またどれほど無頓着に集められていようと、変わらない。人が他人に話しかけるのは、分かってもらうためである。話す目的は、標としての音が自分の観念を聞き手に知らせることにある。したがって語が標とするのは、話し手の観念だ。誰も語を標として、自分が持つ観念以外のものに直接当てることはない。そんなことをすれば、語を自分の思念の記号としながら、同時に別の観念に当てることになる。つまり語は、自分の観念の記号でありながら記号でない、ということになる。それでは結局、何の意義も持たない。語は人が自由に定めた記号である。だからといって、自分の知らない事物に人が勝手に着せられる記号ではない。それでは語は何ものの記号でもなくなり、意義のない音になる。自分の心に持たないものについては、語を記号にできない。事物に備わる性質についてもそうだし、他人の心にある思念についてもそうである。自分自身の観念をいくらか持つまでは、それが他人の思念と対応すると想定できないし、記号を当てることもできない。そんな記号は、何を指すか本人にも分からないものの記号になる。それは実のところ、何ものの記号でもない。人が他人の観念を、自分の観念のいくつかで思い描くことはある。そのうえで他人と同じ名を与えることに同意したとしても、名が当たるのはやはり自分の観念だ。自分が持っている観念に当たるのであって、持っていない観念に当たるのではない。 3. その例 これは言語を使ううえで欠かせないことだ。この点では、物を知る者も知らぬ者も、学のある者もない者も、何かしら意味を込めて語る限り、みな同じように語を使っている。誰の口から出た語も、その人が持ち、その語で言い表そうとする観念を表す。子どもは、金と呼ばれる金属について、輝く黄色のほかには何も気づかない。すると金という語を、自分が持つその色の観念だけに当てる。ほかには当てない。だから孔雀の尾に同じ色を見れば、それも金と呼ぶ。もっとよく見た者は、輝く黄色に大きな重さを加える。その人が金という音を使えば、輝いて黄色く、たいそう重い実体という複合観念を表す。さらに別の者は、この性質に熔けやすさを加える。その人にとって金という語は、輝き、黄色く、熔け、たいそう重い物体を表す。また別の者は槌で延びる性質を加える。この誰もが等しく金という語を使う。自分がその語を当てた観念を言い表す機会が来れば、そうする。だが明らかに、各人はそれを自分の観念にしか当てられない。自分が持たない複合観念の記号として立てることもできない。 4. 語はしばしばひそかに他へ差し向けられる。第一に、他人の心にあると想定される観念へ 人が使う語は、本来また直接には、話し手の心にある観念しか表せない。それでも人は考えのうちで、語をひそかに別の二つへ差し向けている。 第一に、人は自分の語が、話し相手の心にある観念の標でもあると想定している。そうでなければ話は無駄になり、通じもしない。自分がある観念に当てた音を、聞き手が別の観念に当てているとすれば、二つの言語で話しているようなものだ。とはいえ人は普通、ここで立ち止まって調べたりしない。自分の心にある観念と、語り合う相手の心にある観念とが同じかどうかを確かめない。その語をその言語で通っている意味どおりに使っているつもりなら、それで十分だと思う。そして、自分がその語の記号としている観念は、その国で分別ある人々が同じ名を当てている観念とぴたり同じだ、と思い込んでいる。 5. 第二に、事物の実在へ 第二に、人は自分の想像だけを語っているとは思われたくない。物をありのままに語っているのだと思われたい。そこでしばしば、語は事物の実在をも表すと想定する。この第二の想定はとりわけ実体とその名に関わる。第一の想定はおそらく単純観念と様態に関わる。語をこう当てる二通りの仕方については、混合様態の名と実体の名を個別に論ずるところで、もっと詳しく述べよう。ただしここで一言だけ言わせてほしい。自分の心にある観念のほかに語が何かを表すとすれば、それは語の用い方をゆがめることだ。語の意義には曖昧さと混乱が必ず入り込む。 6. 語は使ううちに、その対象の観念をたやすく呼び起こす 語については、さらに次の点も考えておかねばならない。 第一に、語は直接には人の観念の記号である。それを介して人は思念を伝え合い、胸の内に抱く思いや想像を互いに言い表す。絶えず使ううちに、ある音と、その音が表す観念との間に強い結びつきができる。名を耳にしただけで、その観念がほとんど即座に呼び起こされるほどだ。観念を生み出すはずの対象が実際に感覚へ働きかけたときと、変わらない速さである。手近な感覚的性質すべてについて、これは明らかにそうなる。頻繁に、また馴染み深く出会う実体すべてについてもそうだ。 7. 語はしばしば意義なしに使われる。その理由 第二に、語に固有の直接の意義は、話し手の心にある観念である。だが我々は揺りかごの頃から慣れ親しみ、ある分節音をすっかり覚え込む。舌にはすぐ乗り、記憶にはいつでも手近にある。それでいて、その意義を吟味し確かめる手間を、いつもかけるとは限らない。そのため、人が注意深く考えようと身を入れているときでさえ、事物よりも語のほうに考えを向けてしまうことが多い。それどころではない。語の多くは、それが表す観念を知るより先に覚えてしまう。だから子どもだけでなく大人でも、いくつもの語をオウムと同じようにしゃべる者がいる。覚えたというだけ、その音に慣れたというだけのことだ。とはいえ語が用を成し意義を持つ限り、そこには音と観念との変わらぬ結びつきがある。一方が他方を表すという指定もある。この