指導教官に論文のフィードバックをもらう — Epoche C1
場面設定: オックスフォード・ボドリアン図書館近くの研究室、博論中間審査のフィードバック。第3章の論証に弱さを抱えるケニア人博士課程学生ワンジルと、イギリス人指導教授クラーク。 クラーク教授、先月お渡しいたしました博士論文のドラフト第3章に関しまして、コメントを頂戴できればと存じます。アフリカ東海岸のスワヒリ都市国家における貿易ネットワークの再構築について論じた部分でございます。 ええ、ワンジルさん、読ませていただきました。まず申し上げますと、第1章と第2章は極めて優れた仕上がりでございます。ただ、率直に申しますが、第3章は論証の強度という観点から申して、現状のままでは審査を通すことが困難と言わざるを得ません。 ……どのあたりが特に問題とお感じでいらっしゃいますでしょうか。私といたしましては、ポルトガル到来前のキルワ王国とモンバサの交易関係に関して、新たな二次文献分析の視点を提示したつもりでおりました。 視点そのものは鮮やかでございます。問題は証拠基盤でございます。第3章の中心主張である「15世紀中葉のキルワ金貨流通ネットワーク」に関しましては、貴方が依拠されているデータはChittick(1974)の考古学資料に集中しており、過去50年の成果を踏まえていないわけでございます。 2010年代以降のWynne-Jones、Fleisher、Walshawらの発掘研究は引用しているつもりでございます。それでも不十分ということでございましょうか。 それらの引用はございます。ただ、ここから申し上げることは、ワンジルさんと私の間でのみ共有してください。今回の審査委員の一人、ブリストル大学のラムジー教授は、来年春に出版予定のキルワ錢貨同位体分析に関する論文を現在査読に回しておられます。ワンジルさんの第3章の主張は、その未発表データに直接挑戦する内容でございます。 ……それは深刻なお話でございます。未発表の研究を参照することは私にはできないわけでございますし、かと言って審査委員のご専門領域を避けて通るわけにもまいりません。 率直に選択肢を申し上げます。第一に、ラムジー教授に直接連絡を取り、論文の同位体分析データを引用許可付きで共有していただけないか打診する。第二に、貴方の論証を「既存データの解釈の再構築」と位置付け直し、同位体分析の結果が出た時点で追補研究とすることを宣言する。第三の道として、審査委員構成の見直しを学部に申請する方法もございますが、これは極めて異例でございます。 ラムジー教授への直接連絡は、私からはハードルが高うございます。第二案で進めさせていただきたく存じますが、その場合、第3章は大幅に再構成せざるを得ないわけでございますね。 その通りでございます。しかも作業は章単位ではなく、論文全体を踏まえて進めるべきでございます。私の助言として、順序を逆にしてください。通常は第3章から順に直すところ、まず結論章を先に書き直し、何を結論として主張するかを確定させる次第、それに合致するよう第3章の論証を組み直す。こうすれば3週間で再提出可能でございます。 結論先行の逆算執筆でございますか。初めて伺う手法でございますが、スコープが明確になる利点は大きゅうございます。ラムジー教授との直接コンタクトについても、教授から一言前置きをいただければ可能でしょうか。 私から今週中に非公式なメールをお送りし、ワンジルさんの研究関心を事前にお伝えいたしましょう。ラムジー教授は若手研究者を大切にされる方でございます。同位体データの共有は難しくとも、ご自身の研究視座を率直に示してくださる可能性は十分にございます。 心強うございます。結論章の再起草は週末までに着手いたします。第3章の論証骨格は、結論確定次第、月曜中に構造図として教授にご確認いただくスケジュールで進めさせていただきます。 結構でございます。最後に一言、ワンジルさん。第3章の弱さは博論の失敗ではなく、アカデミアの現実的制約との遭遇というわけでございます。どの研究者も一度は通る道でございます。落ち着いて論文を最強の形に仕上げる次第でございましょう。 解説: 審査委員自身の未発表論文を参照すべきという教授による私的見解の漏れと、結論章を先に書き直すという審査対策の予想外の返し。「学位審査は学知だけでなく審査者の磁場を読む技」――指導関係の核心。