ニーチェと永劫回帰 — Epoche C2
場面設定: バーゼル、ライン河畔の老舗レストラン。初秋の夜、川面にバーゼル大聖堂の灯が揺れる。バーゼル大学を退官したばかりのスイス人哲学教授クリストフと、東京から訪ねてきた日本人作家の卓也が、リースリングを傾けて長話を始める。 卓也さん、ようこそバーゼルへ。私はニーチェがバーゼル大学に在籍していた建物の隣で40年教えてまいりましたから、彼の影をこの川面に毎日見てきた、と申しましょうか。今夜は『ツァラトゥストラはこう語った』第3部「幻影と謎」、永劫回帰の場面から始めましょうか。 クリストフ先生、お招きありがとうございます。永劫回帰、私も日本で20年あの思想を考え続けてまいりました。ただ正直に申し上げますと、一般的な日本の読み方は「すべてが繰り返すから今を肯定せよ」という単純な人生訓に矮小化されている節がございまして、本来はもっと暗いテーゼだと感じております。 その通りでございます。ニーチェ自身、永劫回帰を発想した時、シルス・マリアの森で「岩のような思想に打たれた」と書いた。あれは励ましではなく、試練の発見でした。Karl Lowithが『Nietzsches Philosophie der ewigen Wiederkunft』で正しく指摘したように、永劫回帰は人生訓ではなく、人間に課された最大の選別装置、と申し上げざるを得ません。 選別装置、まさに。Lowithが「弱い人間は永劫回帰の思想に潰される」と書いた箇所、私は何度も読み返しております。すべてが永遠に繰り返されると分かった時、そのすべてに耐えられるか――この問いに耐えられない者は、ニヒリズムに飲み込まれる、というわけですね。 耐えられる者だけが、ニーチェのいう「超人」へと向かう。しかし「超人」というドイツ語のÜbermenschを「Superman」と訳した英訳はひどい誤解を生んでしまった次第ですね。アメリカン・コミックスのスーパーマンと混同される。本当の意味は「自己を超える者」、終わりなき自己超克の運動でございます。 「自己を超える者」――この訳は日本でも長らく定着せず、私の20年前の小説でも「超人」という語を使うのに気を遣いました。読者は強者をイメージしてしまう。実際には「弱さも含めた自分を引き受ける運動」、運命愛(Amor Fati)へと向かう内的軌跡、と申しましょうか。 運命愛、これがニーチェの最も誤解された概念ですね。「すべてを愛せ」という命令ではなく、「すべてが必然だったと事後に肯定できる視座」を獲得せよ、という。これは弁証法でいうところの正(ニヒリズム)→反(運命愛)→合(超人としての肯定)、への止揚プロセスでございます。 弁証法的な読み方、興味深いですね。ただ私としては、ニーチェ自身は弁証法を激しく拒絶していた、という事実も重要だと思います。ヘーゲル的なアウフヘーベンではなく、彼の思想の運動はもっと螺旋的で、進歩なき反復、と申し上げてよろしいでしょうか。 螺旋、よろしゅうございますね。ニーチェは「進歩」という近代の信仰を最も鋭く批判した哲学者ですから、彼の思想を「進歩の物語」で読むのは矛盾でございます。永劫回帰こそ進歩の終焉、円環の哲学、というわけですね。Lowithが指摘したのもそこです。 円環、その通り。日本の仏教の輪廻と表面的に似ていますが、構造が決定的に違います。仏教の輪廻は「逃れるべき苦しみ」ですが、ニーチェの永劫回帰は「肯定すべき試練」。同じ円環でも、出口を求めるか、入口を求めるかの違い、と申しましょうか。 出口と入口の違い、見事な対比です。ところで卓也さん、ニーチェの「力への意志」も日本ではしばしば「権力欲」と誤訳されてきましたが、これも本来は内的な自己組織化の運動、と理解してよろしいでしょうか。生命体が自らを組織し、超克し続ける運動そのものが、力への意志、と。 その通りでございます。Wille zur Machtを「権力への意志」と訳した結果、ニーチェは戦後ヨーロッパで長らくナチス哲学の汚名を着せられた。実際にはMachtは「力」であり、自己を超えていく内的力動、と理解すべき次第です。誤訳の歴史的代償は、20世紀最大の思想災害と申し上げてもよろしいでしょうか。 20世紀最大の思想災害、ご指摘の通りでございます。妹のElisabethによる手稿改竄も加わって、ニーチェは死後、自分の思想と全く違う方向に利用された。哲学者の不幸の典型例ですね。さて結論として、永劫回帰は「教義」ではなく「試練」だ、と整理してよろしいでしょうか。 「教義ではなく試練」、座右にいただきます。教義なら信じるか拒むかの二択ですが、試練ならただ向き合うしかない。ニーチェの『ツァラトゥストラ』第3部の「幻影と謎」でツァラトゥストラ自身が試練に直面する場面、あれは哲学が読者に投げかける最も重い招待状でございますね。 最も重い招待状、その通りです。受け取る人は少なく、受け取った後で人生が変わる人はもっと少ない。それでもニーチェは「真理を求める者ではなく、真理に試される者になれ」と書きましたから、私たちが今夜こうして招待状を確認し合えたこと自体、彼の思想を引き継ぐ最小単位の儀式と申しましょうか。 儀式、まさに。最後に皮肉でも申し上げてよろしいでしょうか、クリストフ先生。今夜のリースリングと白身魚、確かに永劫に値する美味でございましたが、永劫回帰なら、この勘定も永遠に払う羽目になる、というわけですな。哲学の重みを、会計伝票の上で受け止め直す――それも一つの運命愛の作法でございましょう。 解説: ニーチェの永劫回帰、超人、運命愛、力への意志を、誤訳と思想災害の歴史を辿りながら正確に再構成する弁証法的対話。最終的に「教義ではなく試練」という定式に到達。落ちは作家の機知――「永劫回帰なら、この勘定も永遠に払う羽目になる」――哲学を会計伝票に落とす運命愛的ユーモアで締める。