May I Save My Own First? — Impartial Morality and the Claims of Love — Epoche C2
場面設定: 非偏向性と個人的関係の倫理を論じた大学院の授業の後のゼミ室。道徳的観点からは万人が等しく数えられ特別な責務もその基準に答えねばならないと説くバウアー博士と、愛と忠誠の絆こそ根源的で導出不能な理由を生むと説くロマーノ教授が、学生の去った室で論争を続ける。 導入: 道徳は万人への等しい配慮を要求するのか、それとも身内への特別な責務こそ根源的なのか。非偏向主義者は道徳的観点からは各人が等しく数えられると説き、特別な責務は実在するが派生的だとみなす。各人が自分の身内を気づかう世界が一般的な善に資するがゆえに正当化されるのであり、フェヌロンを母より優先せよというゴドウィンの選択はその峻厳な帰結である。直接的な愛もその非偏向的な善によって正当化されるとする二層的な応答がこれを補う。偏向主義者はこれに対し、特別な責務は導出不能で根源的だと説く。溺れる妻を救う許可を確かめる夫はすでに関係を裏切っているとするウィリアムズの「一つ多い思考」と、偏向の擁護がその論拠である。争点は、愛の偏向的な絆とあらゆる人格への正義とが境界で衝突するとき、いずれが限界を画すのかという一点にある。 道徳の核心にある洞察から始めましょう。道徳的観点からは、万人が等しく数えられる。宇宙の前に立つ私の地位は、いかなる見知らぬ者の地位にもまさりはしない。そして私の子の地位もまた同じです。人類の道徳的前進の全体は、「まず自分と身内を」を越えて円を広げることにありました。特別な責務は実在しますが、それは派生的です。私が自分の子を気づかうべきなのは、各々の親が自分の子を気づかう世界が子ども一般にとって最善の仕組みだからであって、私の子が形而上学的に特権的な要求を帯びているからではありません。ゴドウィンはたじろがずに論理を見据えました。火事のとき、数千人を啓発する仕事を持つフェヌロンか、自分の母か、いずれかしか救えないなら、非偏向的な理性はフェヌロンを救えと言う。私たちはひるみます。しかしそのひるみこそ偏向そのものであり、道徳が正すために存在するまさにその偏りなのです。 ゴドウィンの事例は道徳の勝利ではなく、その背理法による反証です。その理由をウィリアムズが示しました。溺れる二人のうち一人しか救えず、その一人が自分の妻である男を思い描いてください。彼が、妻を救うことを道徳が許すと——妻を救うことが非偏向的な試験に通ると——確かめるために手を止めるなら、彼はウィリアムズの言う「一つ多い思考」を抱いたのです。彼を直接に動かすべき愛が計算を経由させられた。その経由こそが裏切りなのです。自分の妻を救うことを非偏向的な基準で正当化せよと私に求める道徳は、私の動機を浄化したのではない。それを腐敗させたのです。特別な責務は上から授けられる許可ではありません。それは根源的であり、それを非偏向的な善のうちに基礎づけよという要求は、愛と忠誠が実際に何であるかを取り違えているのです。 その言葉は印象的ですが、正当化の順序と動機づけの順序を取り違えています。むろん、愛する夫は計算なしに直接行為する。流暢な発話が文法を意識せずになされるのと同じく、道徳は水辺で非偏向的な思考をめぐらすことを彼に求めはしません。非偏向主義の主張が関わるのは、その性向を正当化するものであって、その瞬間に心をよぎるものではない。良き道徳的秩序は、まさにそうした愛が非偏向的に評価して最善の帰結を生むがゆえに、身内への直接で反省を経ない愛を私たちに植えつけるのです。ですから夫の直接的な献身は反例ではない。それは設計どおりに働く非偏向主義であり、その自発的な偏向が一般的な善に資するような行為主体を形づくったのです。あなたは水辺における正当化の沈黙を、その不在と取り違えています。 しかし二層的な手は、勝利を主張しながら勝負を譲り渡しています。なぜならそれは関係を道具的に価値あるものにするからです。そして関係とはそのようなものではない。あなたの説明では、私が自分の子を愛するのが正しいのは、そうした愛が良き方策だからであり、それが最適でなくなれば、非偏向的な計算が背を向ければ、その愛は正当化の根拠を失う。しかし親の愛とは、まさにそうではないものです。それは体系への寄与ではなく、集計的な計算によって覆されうるものでもない。それは、かけがえのないこの一人の人格への無条件の愛着です。夫は宇宙がたまたま是認する性向に従って行為したのではない。彼女が自分の妻だからこそ行為したのです。あなたの理論がその愛を非偏向的な目的のための手段としてしか評価できないなら、それは愛を正当化したのではない。表計算が変わった瞬間に消え去るまがいものを、すり替えたのです。 非偏向的に基礎づけることが愛を単なる手段にするとは認めません。そう見えるのは誤った二者択一に依拠しているからです。私は両方を主張できる。私の子への愛は、それを生きるうちにあっては無条件で計算を伴わないこと。そして理論家として一歩退けば、そうした愛が人生に占める位置こそが、万人のためにそれを守るに値するものの一部だということ。登山家は頂を道具的にではなく価値づけますが、登山が豊かな人生に位置を占めることをなお認めうる。非偏向的な立場は関係のなかに踏み込んでそれを空洞化させはしない。それは、内側から計算なしに生きられる絆の価値を、外側から追認するのです。私が認めないのは、偏向主義者の見かけ上の結論——「彼女は私のものだ」という剝き出しの事実が、いかなる見知らぬ者の必要に抗してでも、いかなる程度の優先をも正当化しうる、という結論だけです。 そこであなたは真の問いを名指しました。偏向が正当化されるか否かではなく、どれほど、何に抗してか、です。私は「彼女は私のものだ」が何でも正当化するとは言いません。偏向主義者は、妻のかすり傷一つを惜しんで見知らぬ千人を焼かせる怪物である必要はない。私が言うのは、特別な責務は真正で重く、導出不能であり、それは非偏向的な義務から導出されるのではなく、それと比較考量されるということです。「人生を織りなす無数の小さな配慮の配分において、私が自分の子をひいきしてよい」と「私が自分の子を何においてもひいきしてよい」とのあいだには、現に違いがある。前者は愛を成り立たせるものであり、非偏向的な許可を要しない。後者は怪物的です。あなたの誤りは、偏向に限界があるからには非偏向的な基礎を持たねばならないと考える点にある。限界と基礎は同じものではありません。 では、私たちの立ち位置を見定めましょう。双方ともに動いたのですから。愛する親が計算なしに直接行為すること、そして絶えざる非偏向的な熟慮を要求する道徳が心理的に破滅的で自己論駁的であることでは、一致しています。偏向に限界があることでも一致している。かすり傷のために千人を焼かせることは、どちらも許さない。なお分かれるのは基礎です。あなたは特別な責務が根源的で導出不能であり、関係それ自体によって正当化されると言う。私は、それは実在し重いが、究極的には非偏向的な立場に答えるものであり、その立場こそが、なぜ私たちがそれを持つべきか、どこでそれが尽きるかを説明すると言う。試金石は対立です。私の子のより小さな利益が、見知らぬ者のより重い必要と出会うとき、何が裁定するのか。あなたは二つの独立した源泉のあいだの均衡に訴える。私は、偏向を基礎づけかつ限界づける単一の非偏向的な基準に訴えるのです。 そこが継ぎ目です。そして単一の基準が話の全体ではありえない理由がここにあります。私の子のより小さな利益が見知らぬ者のより重い必要と出会い、私が正しく我が子をいくらか優先するとき、それを正当化するのは、すべてを考慮した非偏向的な計算がそれを支持するということではない——しばしば支持しないでしょう。それを正当化するのは、私がある関係のうちに立ち、その関係が真の理由を生むということです。それは、いかなる非偏向的な理由も帯びえないほどに私のものである理由です。非偏向的な立場は、構成上、どこでもない場所からの眺め、誰でもない者の眺めです。しかし愛の責務は、ある特定の者の、ある特定の者に対する責務です。「私はこれをあなたに、我が子よ、負っている」という二人称的な理由を、「人は非偏向的に最大化すべきだ」という三人称的な理由から導出することはできない。愛の理由には、非偏向的な基準が語りえない文法がある。そしてその文法は、正されるべき偏りではなく、愛する人々のなかにある一個の人格であることの一特徴なのです。 その二人称的な文法は実在し、非偏向的な語法が翻訳しえない働きを担うことを私は認めます。しかし、それが完全に独り立ちするとき何を代償とするかを見てください。愛の理由がただ導出不能であり、いかなる非偏向的な点検にも答えないのなら、何百万の外国の命より自国を、他より自人種を優先する者に対し、彼が誤っていると告げる原理的な手立てを私たちは持たないことになる。彼もまた「身内のため、私が負う相手のため」という二人称的な文法を語るのですから。歴史上最悪の犯罪は、導出不能な特別な忠誠の名のもとに犯されました。非偏向的な立場こそ、私たちにこう言わせるものです——そう、あなたには真の愛の理由がある、そしてそれは、あなたが軽んじたくなった見知らぬ者を含む、あらゆる人の等しい地位によって境界づけられている、と。その外的な点検なしには、「身内のため」は倫理において最も危険な言葉となるのです。 その危険は実在し、私も真剣に受けとめます。しかし治療は偏向を非偏向性へと解消することではない。正義と愛が二つの真正な源泉であり、互いを正し、いずれも他方に還元されないと見て取ることです。正義に点検されない忠誠が蛮行に堕すというあなたの言は正しい。私は言います、愛に和らげられない正義もまたそれ自身の非人間性に堕すと——計画を満たすために我が子を飢えさせる人民委員のように。成熟した道徳的生は、一方の立場の勝利ではなく、両者のあいだの終わりなき交渉です。私は見知らぬ者に正義を、我が子に愛を負っており、両者が衝突するとき、その緊張を解消する算法なしに比較考量せねばならない。あなたは裁定する単一の基礎を求める。私は言います、二源泉の構造は基礎を見いだしそこなった失敗ではなく、人類の一市民であると同時に誰かの親でもある被造物についての真理なのだ、と。 では結果は、私が始めたときよりあなたの側に近いのかもしれません。ただし、捨てられない一つの留保とともに。私は理由の二つの源泉、非偏向的な正義と偏向的な愛を、道徳的経験の記述として受け入れられます。受け入れられないのは、両者が完全に独立であること、愛の理由がいかなる非偏向的な制約にもまったく答えないことです。「私はこれをあなたに、我が子よ、負っている」が還元不能だと認めてさえ、私が我が子をどこまでひいきしてよいかの限界——私の偏向が見知らぬ者への不正となる地点——は、万人の等しい要求によって非偏向的に画されます。ですから愛は自らの理由を供給する、それは認めましょう。しかし正義がその正当な範囲の境界を引くのです。二つの源泉は実在しますが、上位の法廷を持たぬ対等な相棒ではない。両者が限界で真に衝突するとき、愛がどれほどを持ちうるかを言うのは、非偏向的な正義なのです。 しかし、あなたの留保がひそかに何をしているか見てください。それは定義上、あらゆる難局をあらかじめ正義に勝たせ、そうしていま認めたばかりの対等性を取り返すのです。愛と正義が限界で衝突するたびに正義が限界を画すのなら、愛は対等な源泉などでは決してなく、正義がすでに切り拓いた空間でのみ作動する許可だったことになる。それは衣装を多元主義に着替えた二層的な見解の再来です。私は言います、境界それ自体が、ときに愛の側から正しく争われるのだと。非偏向的な正義が課す罰から我が子をかばう親、公共の善のためなら破るべき秘密を守りとおす友、自分の兄弟を密告しない市民。私たちはこれらを常に誤りと裁くわけではない。ときに私たちはそれらを称える。そして、非偏向的な正義が愛の境界に無条件の最終権威を握っているなら、私たちはそれを称ええないはずなのです。 それらの事例こそ正しい挑戦であり、私はそれが容易だと装いはしません。しかし吟味すれば、各々は愛が正義を覆すのではなく、非偏向的な境界がその働きを果たすさまを示します。我が子をかばう親を私たちが称えるのはある一点までです——その子が再び人を殺そうとする殺人者であるなら、そうではない。そこでは私たちの称賛が、見知らぬ者の重い要求が始まるまさにその地点で止まる。守られた秘密を私たちが賞讃するのは、その秘密が仕掛けられた爆弾であるときまでです。愛が正義を覆すように見えるものは、吟味すれば、忠実な親と信頼に足る友がいる世界を守る理由が正義自身にあると認める正義そのものです——他者への代償が高くなりすぎるまでは。そこで私たちの是認は反転する。限界は動きますが、それは常にそこにあり、それを動かすのは常に見知らぬ者の等しい地位です。愛にはその領分が与えられる。だが地図を描き続けるのは正義なのです。 それでも「私たちの是認は反転する」という言葉が、あなたの理論が引き受けきれない働きをしています。なぜなら、それを反転させるものは常により大きな善の計算であるとは限らないからです。それはしばしば、愛や尊厳の競合する要求であり、二人称的な理由であって、総和ではない。殺人者をかばう親を私たちがついに断罪するとき、私たちを翻すのは犠牲者たちの顔であり、不正を被った特定の他者たちであって、彼らが単位として算入される非偏向的な総和ではありません。ですから境界でさえ、それが動くときは、しばしば他の特定の要求の重みによって動くのであって、非人称の帳簿によってではない。だからこそ私は、非偏向的な正義を唯一の境界画定者として戴くことに抗うのです。愛を限界づけるものは、しばしばより多くの愛とより多くの特殊性——誰かの子でもある者として見られた見知らぬ者——であって、どこでもない場所からの眺めではない。地図は幾度となく、人格に対峙する人格によって描かれるのであって、勘定をつける宇宙によってではないのです。 それは深い指摘であり、私が予期した以上に私を動かします。限界を強いるものが、しばしば非人称の総和ではなく、見知らぬ者を要求を持つ一個の特定の人格——あなたの言うとおり誰かの子でもある者——と