The Cherry Orchard — Anton Chekhov
人物 ラネーフスカヤ(リュボーフィ・アンドレーエヴナ)〔愛称リューバ〕 女地主 アーニャ その娘、十七歳 ワーリャ その養女、二十四歳 ガーエフ(レオニード・アンドレーエヴィチ)〔愛称リョーニャ〕 ラネーフスカヤの兄 ロパーヒン(エルモライ・アレクセーエヴィチ) 商人 トロフィーモフ(ピョートル・セルゲーエヴィチ)〔愛称ペーチャ〕 大学生 ピーシチク(ボリース・ポリーソヴィチ・シメオーノフ) 地主 シャルロッタ(イワーノヴナ) 家庭教師 エピホードフ(セミョーン・パンテレーエヴィチ) 執事 ドゥニャーシャ 小間使 フィールス 老僕 ( ろうぼく ) 、八十七歳 ヤーシャ 若い従僕 浮浪人 駅長 郵便局の官吏 ほかに客たち、召使たち ラネーフスカヤ夫人の領地でのこと [#改ページ] 第一幕 いまだに子供部屋と呼ばれている部屋。ドアの一つはアーニャの部屋へ通じる。夜明け、ほどなく日の昇る時刻。もう五月で、桜の花が咲いているが、庭は寒い。明けがたの冷気である。部屋の窓はみなしまっている。 ドゥニャーシャが 蝋燭 ( ろうそく ) をもち、ロパーヒンが本を手に登場。 ロパーヒン やっと汽車が着いた、やれやれ。何時だね? ドゥニャーシャ まもなく二時。(蝋燭を吹き消す)もう明るいですわ。 ロパーヒン いったいどのくらい遅れたんだね、汽車は? まあ二時間はまちがいあるまい。(あくび、のび)おれもいいところがあるよ、とんだドジを踏んじまった! 停車場まで出迎えるつもりで、わざわざここへ来ていながら、とたんに寝すごしちまうなんて……。 椅子 ( いす ) にかけたなりぐっすりさ。いまいましい。……せめてお前さんでも起してくれりゃいいのに。 ドゥニャーシャ お出かけになったとばかり思ってました。(耳をすます)おや、もういらしたらしい。 ロパーヒン (耳をすます)ちがう。……手荷物を受けとったり、何やかやあるからな。……(間)ラネーフスカヤの奥さんは、外国で五年も暮してこられたんだから、さぞ変られたことだろうなあ。……まったくいい 方 ( かた ) だよ。きさくで、さばさばしててね。忘れもしないが、おれがまだ十五ぐらいのガキだった 頃 ( ころ ) 、おれの死んだ 親父 ( おやじ ) が――親父はその頃、この村に小さな店を出していたんだが――おれの 面 ( つら ) をげんこで殴りつけて、鼻血を出したことがある。……その時ちょうど、どうしたわけだか二人でこの屋敷へやって来てね、おまけに親父は一杯きげんだったのさ。すると奥さんは、つい昨日のことのように覚えているが、まだ若くって、こう細っそりした人だったがね、そのおれを手洗いのところへ連れて行ってくれた。それが、ちょうどこの部屋――この子供部屋だったのさ。「泣くんじゃないよ、ちっちゃなお百姓さん」と言ってね、「婚礼までには直りますよ( 訳注 怪我をした人に言う慰めの慣用句 )。……」(間)ちっちゃなお百姓か。……いかにもおれの親父はどん百姓だったが、おれはというと、この通り白いチョッキを着て、茶色い 短靴 ( たんぐつ ) なんかはいている。 雑魚 ( ざこ ) のととまじりさ。……そりゃ金はある、金ならどっさりあるが、胸に手をあてて考えてみりゃ、やっぱりどん百姓にちがいはないさ。……(本をぱらぱらめくって)さっきもこの本を読んでいたんだが、さっぱりわからん。読んでるうちに寝ちまった。(間) ドゥニャーシャ 犬はみんな、夜っぴて寝ませんでしたわ。 嗅 ( か ) ぎつけたんですわね、ご主人たちのお帰りを。 ロパーヒン おや、ドゥニャーシャ、どうしてそんなに…… ドゥニャーシャ 手がぶるぶるしますの。あたし気が遠くなって、倒れそうだわ。 ロパーヒン どうもお前さんは柔弱でいかんな、ドゥニャーシャ。みなりもお嬢さんみたいだし、髪の 格好 ( かっこう ) だってそうだ。 駄目 ( だめ ) だよ、それじゃ。身のほどを知らなくちゃ。 エピホードフが花束をもって登場。背広を着こみ、ひどくギュウギュウ鳴る、ピカピカに 磨 ( みが ) きあげた長靴をはいている。はいってきながら花束を落す。 エピホードフ (花束をひろう)これを庭男がとどけてよこしました。食堂に 挿 ( さ ) すようにってね。(ドゥニャーシャに花束をわたす) ロパーヒン ついでにクワスをおれに持ってきとくれ。 ドゥニャーシャ かしこまりました。(退場) エピホードフ 今ちょうど明け方の冷えで、零下三度の寒さですが、桜の花は満開ですよ。どうも感服しませんなあ、わが国の気候は。(ため息)どうもねえ。わが国の気候は、 汐 ( しお ) どきにぴたりとは行きませんですな。ところでロパーヒンさん、事のついでに一言申し添えますが、じつは 一昨日 ( いっさくじつ ) 、長靴を新調したところが、いや正真正銘のはなし、そいつがやけにギュウギュウ鳴りましてな、どうもこうもなりません。何を塗ったもんでしょうかな? ロパーヒン やめてくれ。もうたくさんだ。 エピホードフ 毎日なにかしら、わたしには不仕合せが起るんです。しかし愚痴は言いません。 馴 ( な ) れっこになって、むしろ微笑を浮べているくらいですよ。 ドゥニャーシャ登場、ロパーヒンにクワスを差出す。 エピホードフ どれ行くとするか。(椅子にぶつかって倒す)また、これだ。……(得意げな調子で)ね、いかがです、口幅ったいことを言うようですが、なんたる 回 ( めぐ ) り合せでしょう、とにかくね。……こうなるともう、 天晴 ( あっぱれ ) と言いたいくらいですよ! (退場) ドゥニャーシャ じつはね、ロパーヒンさん、あのエピホードフがあたしに、結婚を申しこみましたの。 ロパーヒン ほほう! ドゥニャーシャ どうしたらいいのか、困ってしまいますわ。……おとなしい人だけれど、ただ時どき、何か話をしだすと、てんでわけがわからない。聞いていれば 面白 ( おもしろ ) いし、 情 ( じょう ) もこもっているんだけれど、ただどうも、わけがわからなくってねえ。あたし、あの人がまんざら 厭 ( いや ) じゃありませんし、あの人ときたら、あたしに夢中なんですの。不仕合せな人で、毎日なにかしら起るんです。ここじゃあの人のこと、「二十二の不仕合せ」って、からかうんですよ。…… ロパーヒン (きき耳を立てて)さあ、こんどこそお着きらしいぞ…… ドゥニャーシャ お着き! どうしたんでしょう、あたし……からだじゅう、つめたくなったわ。 ロパーヒン ほんとにお着きだ。出迎えに行こう。おれの顔がおわかりかなあ? なにせ五年ぶりだから。 ドゥニャーシャ (わくわくして)あたし倒れそうだわ。……ああ、倒れそうだ! 二台の馬車が表口へ乗りつける音。ロパーヒンとドゥニャーシャは急いで出て行く。舞台空虚。つづく部屋部屋で、ざわめきがはじまる。ラネーフスカヤ夫人を停車場まで迎えに行った 老僕 ( ろうぼく ) フィールスが、 杖 ( つえ ) にすがりながら、あたふたと舞台をよこぎる。古めかしいお仕着せに、丈の高い帽子をかぶり、何やら独りごとを言っているが、一言も聞きとれない。舞台うらのざわめきは、ますます高まる。「さあ、こっちから行きましょうよ……」という声。ラネーフスカヤ夫人、アーニャ、鎖につないだ小犬を連れたシャルロッタ、以上みな旅行服で、――それから 外套 ( がいとう ) にプラトークすがたのワーリャ、ガーエフ、ピーシチク、ロパーヒン、包みとパラソルを持ったドゥニャーシャ、いろんな荷物をかかえた召使たち――みなみな部屋に通りかかる。 アーニャ ここを通って行きましょうよ。ねえママ、この部屋なんだか覚えてらっしゃる? ラネーフスカヤ ( 嬉 ( うれ ) しそうに、なみだ声で)子供部屋! ワーリャ なんて寒いんだろう、手がかじかんでしまったわ。(ラネーフスカヤに)あなたのお部屋は、白いほうもスミレ色のほうも、ちゃんと元のままですわ、お母さま。 ラネーフスカヤ 子供部屋、なつかしい、きれいなお部屋……。わたし子供のころ、ここで寝たのよ。……(泣く)今でもわたし、まるで子供みたいだわ。……(兄とワーリャに、それからまた兄にキスする)ワーリャはちっとも変らないのね、相変らず尼さんみたいね。ドゥニャーシャも、わかりましたよ。……(ドゥニャーシャにキスする) ガーエフ 汽車は二時間もおくれた。え、どうだい? なんてざまだろう? シャルロッタ (ピーシチクに)わたしの犬は、クルミも食べるのよ。 ピーシチク ( 呆 ( あき ) れ顔で)へえ、こりゃ驚いた! アーニャとドゥニャーシャのほか、一同退場。 ドゥニャーシャ やっとお帰りになった、……(アーニャの外套と帽子をぬがせる) アーニャ わたし途中四晩も眠れなかったの……今じゃもう、こごえあがっちまったわ。 ドゥニャーシャ あなたがたがお 発 ( た ) ちになったのは、 大斎 ( たいさい ) のころ( 訳注 復活祭に先だつ七週間の精進期間で、年によって違うが、およそ二月初めから三月初旬までの間になる )で、まだ雪がふって、ひどい 凍 ( い ) てつきようでしたが、今はまあどうでしょう? 可愛いお嬢さま! (笑って、アーニャにキスする)待ち遠しかったですわ、大好きな、 可愛 ( かわい ) いお嬢さま。……早速ですけど、あたしお話がありますの。一分間だって待てませんの…… アーニャ (だるそうに)また、なんの話…… ドゥニャーシャ 執事のエピホードフが、復活祭のあとで、あたしに結婚を申込みましたのよ。 アーニャ いつも、おんなし事ばかり……(髪を直しながら)わたし、ピンをみんな落してしまったわ。……(疲れきって、よろよろしている) ドゥニャーシャ どう考えたらいいか、困ってしまいますわ。あの人、あたしを愛してますの、とても愛してますの! アーニャ (自分の居間のドアをのぞきこみ、なつかしそうに)わたしの部屋、わたしの窓、まるで旅行なんかしなかったみたい。わたし、うちにいるのね! あした朝おきたら、すぐ庭へ出てみよう。……ほんとに、ちょっとでも寝られたらよかったのにねえ! 道中ずっと眠らずじまい、なんだかとても気にかかって。 ドゥニャーシャ 一昨日 ( いっさくじつ ) 、トロフィーモフさんがいらっしゃいました。 アーニャ (嬉しそうに)ペーチャが! ドゥニャーシャ お 風呂場 ( ふろば ) で寝てらっしゃいますよ、あすこに陣どってしまってね。お邪魔になっちゃ悪いからな、ですって。(懐中時計を出して見て)あのかた、お起しするといいんですけど、ワルワーラさま( 訳注 ワーリャの正式の名 )がいけないと 仰 ( おっ ) しゃるものですから。お前、あの人を起すんじゃないよ、って。 ワーリャ登場、バンドに 鍵束 ( かぎたば ) をさげている。 ワーリャ ドゥニャーシャ、コーヒーを早く……。お母さんがコーヒーをご所望だからね。 ドゥニャーシャ はい、ただ今。(退場) ワーリャ よかったわ、みんな無事でお着きで。あんたも、やっとまたお 家 ( うち ) ね。(優しくいたわりながら)わたしのいい子が帰ってきた! べっぴんさんが帰ってきた! アーニャ ずいぶん 辛 ( つら ) かったわ、わたし。 ワーリャ 察しるわ! アーニャ わたしがここを発ったのは、御受難週間( 訳注 大斎期の第五週 )で、まだ寒いころだったわ。シャルロッタったら途中のべつしゃべりどおしで、手品までして見せるの。なんだってあんた、シャルロッタなんか付けてくれたの…… ワーリャ だって、あんたひとりで旅へ出すわけにも行かないじゃないの、アーニャ。十七やそこらで! アーニャ パリに着いたら、あすこも寒くって、雪だったわ。わたしのフランス語ときたら、 凄 ( すご ) いものでしょう。ママは五階に部屋をとっていてね、わたしがあがって行くと、 誰 ( だれ ) だかフランス人の男だの、女だの、ちっちゃな本をもった年寄りのカトリックの坊さんだのが、つめかけていて、部屋じゅうタバコの煙でいっぱい、そりゃ厭なの。わたし急にママが 可哀 ( かわい ) そうになって、あんまり可哀そうだもんだから、ママの頭を抱いて、ぎゅっと両手でしめつけたなり、放せないの。ママはそれからいつも甘ったれて、泣いてばかりいたわ…… ワーリャ (涙ごえで)もういいわ、もう言わないで…… アーニャ マントン( 訳注 南フランス、ニースに近い保養地 )の近くのご自分の別荘も売ってしまったし、ママにはもう、なんにも残っていないの、なんにも。わたしだって一コペイカもなくなってしまって、やっとこさで帰ってきたのよ。だのにママったら、ちっともわからないの。駅の食堂へはいると一ばん高い料理を注文するし、ボーイのチップは一ルーブリずつなのよ。シャルロッタも同じなの、おまけにヤーシャまでが、ちゃんと一人前とるの、見ちゃいられないわ。ヤーシャって、ほら、ママのボーイよ。それも一緒に連れてきたの…… ワーリャ 見たわ、いやなやつ。 アーニャ で、どうなの、その後? 利子は払えた? ワーリャ それどころじゃないわ。 アーニャ 困るわね、どうしましょう。…… ワーリャ 八月には、この領地が競売になるわ…… アーニャ ああ、どうしよう。 ロパーヒン (ドアから 覗 ( のぞ ) いて、牛のなき 真似 ( まね ) をする)モオ・オ・オ……(去る) ワーリャ (涙ごえで)ええ、こうしてやりたい……( 拳固 ( げんこ ) でおどす) アーニャ (ワーリャを抱いて、小声で)ワーリャ、あの人あんたに申込みをして? (ワーリャ、 否 ( いや ) というしるしに首を振る)だってあの人、あなたを愛してるのよ。……おたがい打明けたらどうなの、何を二人とも待ってるの? ワーリャ わたし思うのよ、これは結局どうにもならない話だって。あの人は仕事が多いから、わたしどころじゃない……見向きもしないのよ。いっそどこかへ行ってしまってくれるといいんだけど。あの人の顔、見るのがつらいわ。みんな、わたしたちの結婚のうわさをして、お祝いまで言ってくれるけれど、ほんとうは何もありゃしない。夢みたいなものなのよ。……(調子をかえて)あんたのブローチ、 蜜蜂 ( みつばち ) に似ているわ。 アーニャ (悲しそうに)これ、ママが買ってくれたの。(自分の部屋へはいって、快活な