Disease or Choice? — Rebuilding the Cage into a Park — Epoche C2
場面設定: 夜の、依存症回復支援センターの集会室。支援グループの会が、たった今、終わったところで、来た者たちは、靴音とともに、夜の中へ帰っていった。けれど、椅子は、まだ、輪のまま、残されている。隅のテーブルには、空になったコーヒーポットと、紙コップの山、壁には、回復の『十二のステップ』が、色褪せて貼られている。大学病院から招かれた、若き依存症の神経科学者・精神科医ラオ博士(三十代、白衣の下にセーター、片手にタブレットの脳画像、依存症の脳疾患モデルを、職員に説きに来た)と、三十五年前に自ら酒を断ち、三十年このセンターを率いてきたカウンセラーのセイモアさん(七十代、よれたカーディガン、節くれだった手、温和だが、揺るがぬ目)。二人のほかには、誰もいない、その輪の中で、向かい合っている。 (と、一枚の脳画像を掲げて)依存症は、慢性で、再発性の、脳の『病気』です、セイモアさん。ここをご覧ください——乗っ取られた報酬系。そして、ここ——すり減った、前頭前野の制御。九度目の再発をした患者さんは、糖尿病の人が、血糖値の高さを『選んで』いないのと、同じくらい、それを『選んで』など、いない。そして、なぜそれが重要かと言えば——このモデルは、依存症に起きた、最も親切なことだからです。それは、依存症を、教会と、法廷から——『罪』と『犯罪』から——連れ出して、それが本来あるべき場所、すなわち診療所に、置いた。 私は、この部屋を三十年、切り盛りしてきました、ラオ博士。そして、三十五年前に、酒をやめた。だから、まず、こう言わせてください——それを、十字架から下ろしてくださって、ありがたい。疾病モデルは、命を救いました。それは、私自身の弟を、独房ではなく、治療へと、入れてくれた。どんな説教者に対しても、私は、それを弁護しますよ。けれど、私と少し、座っていてください。なぜなら、その親切さには、隠れた代償があると、私は思っていて、そして、それが、人を殺すのも、見てきたからです。あなたは今、私の再発は、糖尿病の人の血糖値と同じく、選択ではない、と仰った。私が、それを、心の底まで信じた日は、私が、もう少しで、二度と起き上がらなかった日でした。 でも、それは、汚名(スティグマ)が言わせているのであって、科学ではありません。それが病だと信じることは、恥を、『軽くする』はずなんです——壊れた脳のことで、自分を責めるのを、やめるんですから。 それは、恥を軽くし、そして、それは、主体性(エージェンシー)をも、軽くしうる。そして、片方を、もう片方を失わずに、いつも手にできるとは、限らないのです。一人の男に、お前の欲求は、お前には手の出せない病なのだ、と告げてごらんなさい。すると、ある者は、『なら、努力する意味はない』と、聞き取る。糖尿病の人の膵臓は、彼が、自分の人生にまた意味があると決めたところで、決して、それに応えません。けれど、私のは、応えたんです。それが、あなたの画像が、映さないもの——人は、よくなる。全員ではなく、楽にでもなく——けれど、あなたの『病気』という言葉では説明できない、数の上で。ほとんどあらゆるものに依存していた人々の大半が、十年後には、依存していない。そして、その大半は、診療所など、一度も見ていない。ヘイマンが、そのデータを、机に載せた。そして、あなたの分野の誰も、それを見たがらない。いったい、どんな慢性で、進行性の、脳の病気が、そんなことをします?——多数において、年を重ね、人生が変わるにつれ、ひとりでに、静かに、解消していく、なんて。 それは、軽症例でしょう、きっと——本当の意味では、依存していなかった人たち。重い側の端、私の病棟を埋めている人たちは、ただ『年とともに抜けて』いったりは、しないんです。 中には、抜けない者もいて、彼らは現実で、あなたの病棟の苦しみが、苦しみの極みでないなどと、私は、ふりをするつもりはありません。けれど、『彼らは本当には依存していなかった』というのは、データが、あなたのモデルを困らせるたびに、あなたのモデルが繰り出す、その一手です——回復した者は、誰であれ、本当はそれを持っていなかったのだと、分類し直される。それは、もはや、理論ではない。それは、自分自身を、守っている理論です。マーク・ルイス——彼自身、神経科学者で、しかも、かつての依存者ですよ——は、こう言う。あなたが私に見せている脳の変化は、本物だ。けれど、それは、病ではなく、『学習』の、脳の変化なのだ、と。深く、動機づけられた、反復された学習は、まさに、そういう溝を、刻みつける。ロンドンのタクシー運転手は、海馬を、大きくする。それも、病気では、ない。脳が変わるのは、何かが、とてつもなく重要であるとき、脳が『すること』なんです。あなたは、学習を、写真に撮って、それに、病理という、ラベルを貼ったんですよ。 でも、依存症における学習は、本人自身の意志に『反して』いる——それこそが、肝心なところです。報酬系が、本人が、正気のときには、欲しくないものを求めて、絶叫している。それが、機能不全でないなら、いったい、何が機能不全なんです? それは、ろうそく一本の上で、火災報知器が鳴り響くのが、機能不全であるのと、同じ意味での、機能不全です——機械は、設計どおり、寸分の狂いもなく、働いている。ただ、間違った標的に、間違った文脈で、向けられているだけ。そして、そこに、あなたの分野が、ずっと忘れている、あの実験がある。アレクサンダーのネズミです。教科書はこう言う。一匹のネズミを、何もない檻に、独りで入れ、モルヒネ入りの水と、ただの水を、置けば、それは、死ぬまで、自らに、薬を打つ——依存症、純然たる薬理学だ、と。そこで、アレクサンダーは、『老鼠乐园(ねずみの楽園)』を、造った。同じ薬。けれど、広い囲い、ほかの仲間たち、すること、つがう場所、遊ぶ場所。楽園のネズミたちは、おおむね、モルヒネに、手を出さなかった。同じ脳、同じ薬、同じドパミン。違う、人生。檻が、分子が罪を着せられていた仕事の、半分を、やっていたんですよ。 (と、ひと呼吸おいて)……『老鼠乐园』。私たちは、それを引用して、そして、それに、何一つ、変えさせない。なぜなら、もし環境が、原因の半分であるなら、診療所も、薬も、画像も——それらは、ネズミを治療して、檻を、無視していることに、なるからです。 それが、私が三十年、一人の神経科学者が言うのを、待っていた一文です。分子は、本物です。乗っ取られたドパミンは、本物だ——私は、それを感じた、美化なんかしていません。あの渇望は、私の胸の中の、一匹の、肉体を持った獣でした。けれど、それは、檻の中で、生きていたんです。私は、孤立し、恥じ入り、ほかに名前を持たない痛みの、中にいた。私は、誰かが私の脳を治したから、酒をやめたのでは、ない。私は、ゆっくりと、この部屋が、その薬が、その『まがい物』であったところの、ただ一つのものを、私にくれたから、やめたんです。ヨハン・ハリが、私の訓練のすべてよりも真実な、一行に、それを収めました——依存症の反対は、しらふ、ではない。それは、つながりだ。 つながり——ええ、それが助けになることを、私は、決して否定しません。けれど、あなたは、その重い側の端を、優しく描きすぎている。私の患者の中には、出ていける檻が、そもそもない人もいる。彼らには、遺伝的な負荷、トラウマ、生まれた初日から違っていたドパミン系がある。彼らにとって、『もっと良い人生を築け』は、鬱の人にとっての、『元気を出せ』のように、聞こえるんです。疾病モデルは、まさに、その『彼ら』を、自分の再発が、十分に努力して作らなかった、つながりの失敗なのだ、と告げられることから、守っているんですよ。 そして、そこで、あなたは、私を、正当に、捕まえた。なぜなら、つながりの物語にも、それ自身の残酷さが、あるからです——それは、苦しんでいる人が、失敗した、もう一つの何か、に、なりうる。だから、おそらく、私たちは、二人とも、一つの扉を、守っているんです。あなたは、『ただ、やめると決めろ』と言う説教者に対して、扉を守る。私は、『お前にはできない、それはお前の脳だ、だから、期待するな』と言う医者に対して、扉を守る。そして、あなたの病棟の患者は、その両方の扉が、守られていることを、必要としている。なぜなら、真実は、私たちのどちらの標語も、届かない場所に、あるからです。 ……では、それが、どこにあるのか、言ってください。私は、確信して、ここへ来て、そして、それより確信が薄れて、出ていくのですから。 私が思うに、それは、ここに、あります。依存症は、罪でもなければ、単なる病でもない。それは、ある問題——痛み、孤立、住まうのが苦しい自己——に対する、学習された、猛烈に動機づけられた、一つの『解決策』なんです。それは、しばらくのあいだ、見事に、効く。そして、それから、それ自体が、問題になる——本当に変わった脳と、本当に狭まった人生の中に、刻み込まれて。だから、それは、本物の強迫で『あり』、そして、それは、応答するんです——意味に、つながりに、誘因に、時間に。両方。脳は変わった、そして、脳は、また変われる。なぜなら、変わることこそ、それが、その間ずっと、していたことだからです。あなたの科学は、その欲求が、意志の弱さではない、という点で、正しい。私の人生は、それが、別の人生の手の届かぬところにはない、という点で、正しい。その二つを、一緒に保てば、あなたは、ついに、本当に助けになることが、できる——脳を治し、『かつ』、檻を、公園に、造り変えるのです。 ネズミを治療し、そして、檻を造り変える。(と、空っぽの椅子の輪を見渡す)……私たちは、分子に、十億を費やして、公園には、ほとんど何も、費やしていない。私は、ドパミンを、小数点以下四桁まで、モデル化して、そして、ただの一度も、初診の問診で、この患者が消えたら、気づいてくれる人が、一人でもいるか、を、訊いたことが、ない。それは、私の問診票には、ない。それは、この部屋で、最も予後を予測する問いで、そして、私の問診票には、ないんです。 (と、椅子を積み重ねながら)それを、問診票に、載せなさい、博士——それは、もう一台のスキャナーより、多くを、なすでしょう。(と、椅子を一脚、手に持ったまま、間をおく)私たちが、この部屋で、あらゆる『ステップ』と、まずいコーヒーの下で、何をしているか、ご存じですか。私たちは、折りたたみ椅子、一脚ずつ、公園へと造り変えられた、檻なんです。あなたのモデルは、依存症を、十字架から、下ろした——それは、偉大な慈悲で、私は、死ぬまで、それに、感謝します。今度は、それを、解剖台からも、下ろすのを、手伝ってください。そこでは、『治らぬ脳の病』が、かつて『道徳的失敗』が、そうしたのと、寸分たがわず確実に、人を、横たえてしまう。罪でもなく、刑罰でもなく。痛むのをやめる方法を、学習した一つの傷で、そして、別の方法を、学習できる、一つの傷。(と、最後の椅子を、置く)来週も、同じ時間に、壊れた者たちが、この輪に、戻ってきます——そして、その大半が、ラオ博士、あなたの『病気』という言葉が予測する、何もかもに反して、ゆっくりと、良くなっていく。木曜の集まりに、残っていきなさい。よければ、スキャナーも、お持ちなさい。けれど、部屋を、見ていてください。部屋こそが、あなたの機械には、見えないデータなんですよ。 解説: 夜の依存症回復支援センターの集会室を舞台にした C2 級・十六ターンの弁証法。支援グループの去った後、輪のまま残された椅子が、論証の背景になっている。正:依存症の脳疾患モデルを説く神経科学者ラオの立場——依存症は慢性で再発性の脳の病気で、乗っ取られた報酬系とすり減った前頭前野の制御がそれを示す。九度目の再発は糖尿病の血糖と同じく選択でない。このモデルは依存症を罪と犯罪から診療所へ移した最も親切なもの。反:三十五年回復を生き、センターを率いるカウンセラー、セイモアの立場——疾病モデルは命を救ったが、恥を軽くする一方で主体性をも奪いうる。ヘイマンのデータが示すように大半は自然に回復し(その多くは診療所を見ていない)、マーク・ルイスの言う通り脳の変化は病でなく深い学習の溝(タクシー運転手の海馬と同じ)。アレクサンダーの『老鼠乐园』は、檻が分子の半分の仕事をしていたことを示し、依存の反対はしらふでなくつながり(ハリ)。合:依存症は罪でも単なる病でもなく、痛み・孤立への学習された切実な解決策で、しばらく効いて問題になる——本物の強迫で『あり』、意味・つながり・誘因・時間に応答する。脳は変わり、また変われる。神経科学(欲求は意志の弱さでない)と回復者の人生(別の人生の手の届かぬ所ではない)を共に握り、脳を治し『かつ』檻を公園に造り変える。最後は『初診票に〈消えたら気づく人がいるか〉を載せよ/部屋こそ機械に見えないデータ/罪でも刑罰でもなく、痛むのをやめる法を学んだ傷で別の法も学べる』へ収束する。 参考文献 Volkow, N. D., Koob, G. F., & McLellan, A. T. (2016). 「Neurobiologic Advances from the Brain Disease Model of Addiction」. New England Journal of Medicine, 374(4), 363-371. Lewis, M. (2015). 『The Biology of Desire: Why Addiction Is Not a Disease』. New York: PublicAffairs. Alexander, B. K., et al. (1981). 「Effect of Early and Later Colony Housing on Oral Ingestion of Morphine in Rats」. Pharmacology Biochemistry and Behavior, 15(4), 571-576. Heyman, G. M. (2009). 『Addiction: A Disorder of Choice』. Cambridge, MA: Harvard University Press. Hari, J. (2015). 『Chasing the Scream: The Fi