過去の恋人の訃報 — Epoche C2
場面設定: リオデジャネイロ・コパカバーナのアパート、夏の夜。ブラジル人音楽家ファビオと日本人妻千夏。SNSで偶然見かけた元恋人ベアトリスの訃報を、ファビオが千夏に伝える。 千夏、夜遅くに恐縮だが、お話ししておきたいことがあって、書斎から戻ってきた次第なんだ。SNSで偶然知ったのだけれど、僕の20代の頃の恋人だったベアトリスが、先週亡くなったらしい。サンパウロでの心臓発作だったとのことだ。 ファビオさん、お知らせいただきありがとうございます。ベアトリスさんのお名前は、結婚前のお話のなかで一度だけ伺っておりました。お話してくださるかと思っておりましたので、お伝えくださって安心いたしました次第でございます。 君が「お話してくださるかと思っておりました」と仰ったのは、僕の表情を踏まえての観察でございましょうね。書斎から戻った僕の顔色は、いつもと違っていたわけでございます。君の察しの早さに、いつも助けられている。 察しと申しますか、10年連れ添ってまいりますと、あなたの沈黙のニュアンスが、不思議と読めるようになるわけでございます。今夜の沈黙は、悲しみと、私への配慮と、ご自身を整理しきれぬ戸惑い、その三つが混ざっておられた、と感じておりました。 三つの感情を一つに分解してくださるとは、君の方が音楽家のような繊細さを持っておられる。僕が30年前に別れた相手の死を、現在の妻に伝えるという行為は、ある種の倫理的な問いを伴うわけでございますね。 倫理的な問い、と申されますと、お伝えする義務とお伝えするご負担、そのいずれを優先するかという問いでございましょうか。私の側で申しますと、お伝えくださることは、10年の信頼関係を踏まえれば、ごく自然な配慮として受け取らせていただきます。 君の側からの「自然な配慮」というご解釈は、僕の側の戸惑いを軽くしてくれる。実を申しますと、ベアトリスとは別れて以来一度も連絡を取っておらず、共通の友人を通じて、彼女が結婚されたことや子供を持たれたことを、断片的に伺うのみでございました。 断片的なお話のなかで、ベアトリスさんがどのような人生を歩まれたかを、想像なさっていらしたのでございますね。30年の歳月を踏まえれば、現実のベアトリスさんと、あなたの想像のなかのベアトリスさんは、別人のように違っていらしたかもしれません。 別人のように、というご指摘は、的確でございます。僕が今、悼んでいるのは、現実のベアトリスではなく、僕の想像のなかのベアトリスでもあるわけでございます。30年前の20代の彼女、その姿が、彼女の物理的な不在によって、初めて完全に過去のものとなった、という感覚でございます。 「初めて完全に過去のものとなる」というご感覚は、リスペクトールが小説で描く「永遠と一瞬の交錯」を思わせます。死は時間の流れを止めるのではなく、過去をようやく過去として固定する儀式なのでございますね。 君がリスペクトールを引いてくださることに、ブラジルに嫁いでくださった君の10年の重みを感じる。さて、僕としては、ベアトリスのご家族にお悔やみの意を表すべきか、それとも沈黙を守るべきか、ご相談したいのでございます。 30年前のお別れの形を踏まえれば、直接のお悔やみよりも、共通のご友人を介した間接的な慰めの伝達の方が、ご家族のお気持ちを尊重する作法かと存じます。あなたが若き日にあの方をどう愛しておられたかは、ご家族にお伝えする内容ではなく、あなたの内側で完結すべき内容でいらっしゃるわけでございます。 君のご助言は、いつもながらの均衡感覚でございます。それでは、今夜は早めに休もうかと思うのだが、君に一つお願いしてもよろしいでしょうか。少しだけ、肩を寄せていただけませんでしょうか。 もちろんでございます。寄せかかってくださいませ。今夜のあなたの沈黙は、私が分け合うべきもので、独りでお抱えになるものではないのでございますから。 ……君にとって、今夜のこの場面は、些か嫉妬を覚えても然るべき場面なのではないだろうか、とも思うのでございますよ。 嫉妬でございますか。死者には嫉妬しないことに決めておるのでございます。勝てる相手じゃ、ございませんから。あなたの想像のなかで、永遠に若いままのベアトリスさんと張り合うほど、私は野暮ではございませんわ。さあ、お寝みなさいませ。 解説: 夫の元恋人の訃報を、最後に「死者には嫉妬しません、勝てる相手じゃないから」という黒い冗談で受け止める言葉遊び・皮肉の落ち。合意形成型に暗示と察しを連鎖させ、嫉妬と包容を独自のユーモアで結晶化させた、日伯混合家庭の成熟した愛の作法。