Is a Vast, Barely-Happy World Better? — Population Ethics and the Repugnant Conclusion — Epoche C2
場面設定: 人口倫理を扱った大学院の授業の後のゼミ室、夕刻。ある世界はそれが含む厚生が多ければ多いほど善いとし、反発結論を呑むフォス博士が、その結論こそ帰謬であり完成主義的善は総和を逃れると説くカステラーノ教授と対峙する。黒板にはなお二つの世界が残っている。百億の開花した生のかたわらに、かろうじて生きるに値するだけの膨大な群衆である。 導入: ある世界を別の世界よりも善いものたらしめるのは何か。総和功利主義は、世界はそれが含む厚生の総和が多ければ多いほど善いと説く。かろうじて生きるに値する生もなお正の価値を持つのだから、そのような生が十分な数だけ集まれば、小さく開花した世界をも上回らざるをえない。パーフィットはこの帰結を反発結論と名づけた。すなわち、いかなる開花した世界についても、かろうじて生きるに値する膨大な数の生からなる「より善い」世界が存在するのである。これに対し批判者は、この結論こそ帰謬であり、質は純然たる量によって溺れさせられはしないと説く。鍵となる概念は、厚生主義的集計、「より善い」の推移性、単なる追加、そして個別の人格に向かう義務を説く人格影響説である。アレニウスの不可能性定理は、いかなる人口価値論もある説得力ある条件を侵さざるをえないことを示す。中心にあるのは、開花した百億の生と、かろうじて生きるに値する一兆の生という二つの世界の対比である。 いずれの世界がより善いかについて、最も単純で最も筋の通った見解は、また最も逃れがたいものでもあります。すなわち、ある世界はそれが含む厚生の総和が多ければ多いほど善い、という見解です。かろうじて生きるに値する生も、なお善が悪を上回る正の差し引きを保っています。それこそが「生きるに値する」という言葉の意味です。ですからそのような生が十分な数だけ足し合わされれば、恍惚たる少数の人口よりも多くの善の総和を含まざるをえません。パーフィットはその帰結を見て取り、それを反発すべきものと呼びました。すばらしい百億の生からなるいかなる世界についても、かろうじて生きるに値する生からなる膨大な数のより善い世界が存在する。彼の言葉を借りれば「ミューザックとじゃがいも」の世界です。それは私たちを深く逆撫でします。しかし不快であることは論証ではありません。私たちの直観は部族のために形づくられたのであって何兆もの存在のためではなく、天文学的な規模では予測どおりのかたちで破綻するのです。 私は算術を認め、結論を否定します。なぜなら反発結論とは帰謬の教科書的な形だからです。すなわちもっともらしい一連の歩みが、正気の人なら誰も従わない地点へと行き着く。妥当な論証が「かろうじて生きるに値するだけの灰色のほぼ悲惨な一兆の生のほうが、開花した百億の生よりも善い」という地点に着地したとき、理性的な応答はそれを呑み下すことではなくいずれの前提が偽かを見いだすことです。そして疑わしい前提はあなたのものです。すなわち、厚生が別個の生を越えて単純に足し合わされ、最大化されるべき量となるがゆえに、質が常に純然たる量によって溺れさせられうる、という前提です。芸術と愛と理解からなる文明は、ゼロをかろうじて超えるだけの満足を備えたはるかに大きな文明と取り替えられることによって改善されるわけではありません。私たちの拒絶を「偏り」と呼ぶことは、理論を体系化するために築かれたまさにその判断を、その理論に覆させてしまうのです。 しかし「偽なる前提を見いだす」ことこそ誰一人なしえなかったことであり、そこにこそ問題の深さがあります。パーフィットは理論Xの探求に幾年も費やしました。すなわち、より悪いものに陥ることなく反発結論を逃れる原理です。だが彼はついに見いだせなかった。なぜそうなのかを、後にアレニウスが不可能性定理によって証明しました。すなわち、あらゆる人口価値論は、わずかな数の説得力ある条件のうち少なくとも一つを侵さざるをえない、というのです。ですからあなたは、ただで結論を斥けることはできません。それを斥ければ、あなたはあなたにとって同じくらい自明な何か別のものを譲り渡さねばならない。すなわち、推移性か、幸福な生を加えても世界を悪くしえないという主張か、サディスティック結論の回避かです。反発結論は私の見解だけが支払う代償ではありません。それはいくつかある弾丸の一つであり、何かが噛まれねばならないのです。 私は不可能性の結果を受け入れます。それは私の最良の味方です。なぜならそれは、いかなる価値論も無傷ではないことを示すからです。つまり反発結論を受け入れることは選択であって強いられた一手ではなく、私たちは最も怪物的でない弾丸を選ぶべきなのです。そして反発結論は最も怪物的でないどころか最悪のものです。あなたが実際に是認するものを考えてみてください。すなわち、ひしめき合い喜びを欠いた群衆——おのおのの生が生きるに値しない水準のわずかに上でちらつくだけの世界——を実現することが正しく、それが、より小さく深く開花した生からなる世界よりも善い、ということです。熟慮のうえでそれを信じる者は誰もいません。これに対し、それを逃れるために私が手放さねばならない条件は技術的なものです。すなわち、いかなる成員も共有しない人口どうしにまたがる「より善い」の推移性や、無害に聞こえる「単なる追加」です。これらは抽象であって、それを否定する代償はじゃがいもの世界を肯定する代償よりもはるかに小さいのです。 しかしあなたが「技術的」と呼ぶ弾丸こそ、あらゆる実践的推論を支える耐力壁であり、それを抜き取れば家は崩れ落ちます。テムキンの説くように「より善い」の推移性を放棄すれば、あなたはもはや「AはBより善く、BはCより善い、ゆえにAはCより善い」と推論できなくなります。これこそ、政策においても医療においても、あなた自身の人生においても、あらゆる帰結の比較が働く仕方です。あなたは、決して直面しない想像上の何兆もの数についての反直観的な判定と引き換えに、比較的推論そのものの崩壊を引き受けたのです。そして非対称性に注意してください。反発結論とは、私たちが決して遭遇しない事例についての奇妙な判定であり、しかもその規模において信頼しないだけの独立の理由がある直観によって裁かれたものです。これに対し非推移性は、私たちが来る日も来る日も用いる推論における欠陥なのです。あなたは怪物を逃れたのではありません。より大きな怪物を機関室へ招き入れたのです。 では推移性は手放しません。手放すのは、剥き出しの厚生の量こそが唯一重要なものだという前提です。そしてこれは抽象などではなく、問題の核心です。総和説は生を厚生単位の容器として扱います。すなわち交換可能で足し合わせ可能なものとして、それゆえ半分満たされた二つの生は満たされた一つの生に等しいとするのです。しかし総和が見ることのできない価値があります。すなわち、一つの生や一つの文明が到達する高み、理解の深さ、愛の深さ、達成の深さ——どう積み上げようとも、かろうじて生きるに値する一兆の生がまったく含みえない完成主義的善です。ある世界は、より多くの満足を抱えることによってではなくより大いなるものを抱えることによって、より善くなりうるのです。それを否定すれば、あなたは論証が始まる前に反発結論を認めてしまっている。それを肯定すれば、反発すべき世界はより善くないことになる。なぜならその世界は、世界を持つに値するものたらしめるまさにその善を欠いているからです。 頂と完成主義的善への訴えは魅惑的ですが、それは弁護しえないエリート主義を密輸入しています。あなたは、天才と聖人からなる小さな世界がありふれた満足からなる膨大な世界に勝ると言う。しかしより大きな世界の人々に尋ねてみてください。おのおのが生きるに値する生を持ち、それを望み、無に勝ると考えている。おのおのが、より小さく「より高い」世界が代わりに立つために自分が消されることに抗議するでしょう。あなたの完成主義は、世界をその頂によって外側から評価し、自分にとって善い生を生きる現実の人々を、その壮麗さが数に入るほど十分でないという理由で切り捨てる用意があります。それを善の理論に組み込むのは不穏なことです。総和説は、その反発すべき性質にもかかわらず、生きるに値する生を生きる人に対して、より優れた標本がその場に立てるよう自分は存在すべきでなかったのだ、とは決して告げません。 その難詰は逆向きに、しかもより鋭く切れます。なぜなら人格を使い捨てにするのは総和説のほうだからです。あなたの説では、いかなる現実の人格も、その生がどれほど豊かであろうと、十分に大きな限界的な生の群れがその人に対して足し合わされうるその瞬間に上回られうるのです。あなたは群れの総和のほうが高くなるという理由で、開花した世界を解体して群れを築くでしょう。私の完成主義はいかなる現存の人格をも切り捨てません。それはただ、質が溺れるまでかろうじて生きるに値する人々を作りつづけることを私たちが要求されている、という主張を否定するだけです。あなたの見解が消し去ってしまう区別があります。すなわち、ある生を存在へともたらさないことと、すでに生きられた生を終わらせたり割り引いたりすることとの区別です。じゃがいもの世界を製造することを拒むのは、誰かに存在すべきでなかったと告げることではありません。それは、いかなる質であろうとより多くの存在こそが、他のすべてがその前に道を譲らねばならない至高の価値だ、という主張を否定することなのです。 ではあなたはこの領域で最も深い火口、すなわち人格影響説へ踏み込んだのであり、それには致命的な非対称性があります。ナーヴソンが標語を与えました。私たちは人々を幸福にすることには賛成するが幸福な人々を作ることには中立だ、と。結構です。しかしそれを一貫して走らせてみてください。単に可能であるにすぎない幸福な人の善がその人を作る理由を私たちに与えないのなら、単に可能であるにすぎない悲惨な人の苦しみもその人を作らない理由を与えないことになる。しかし誰もが、滅びへ定められ苦悶する子を存在へもたらさない決定的な理由を持つことに同意します。ですから生を作ることは価値中立ではありえない。悪しき生は不利に数えられ、それはすなわち善き生も有利に数えられねばならないということであり、ひとたび善き生が少しでも数えられれば足し合わせは再開し、反発結論は再び戸口に立つのです。人格影響説による逃れは、悲惨を繁殖させることを許容してはじめてあなたを群れから救うのであり、それを受け入れる者は誰もいません。 あなたが致命的と呼ぶ非対称性は、実は私たちの多くが現に抱くものであり、しかも足し合わせを再開させることなく弁護可能です。私たちはたしかに、滅びへ定められた子を作らない決定的な理由を持ち、幸福な子を作る同等の理由は持ちません。そしてその説明は、善き生と悪しき生が一つの目盛りに乗るからではなく、道徳とは突き詰めれば不正をなさないこと危害をなさないことについてのものだからです。苦しみを作ることは危害をなすことです。至福を作らずにおくことは誰をも不当に扱いません。なぜなら、決して存在しないことによって奪われる者は誰もいないのに対し、苦悶のうちに生まれることによって危害を被る者は存在するからです。これは不整合ではありません。それは、義務は人格に向かって走るのであり、単に可能であるにすぎない幸福な人とは私たちが存在を負ういかなる相手でもない、という認識なのです。足し合わせは再開しません。なぜなら台帳など初めからなかったからです。あるのはただ、不当に扱われあるいは免れうる人々——現実の、そして潜在的な人々だけなのです。 しかし「決して存在しないことによって奪われる者はいない」は証明しすぎており、あなた自身それに従って生きてはいません。善き生の不在が誰をも不当に扱わずそれゆえ無価値であるのなら、明日すべての幸福な生を苦痛なく終わらせる世界——奪われる者は誰一人残らない——は、放棄されたあらゆる栄えある生という点において、百万年にわたって開花する世界よりも悪くはないことになります。あなたはそれを信じられません。私たちはたしかに、生まれざる者が特定の誰でもないとはいえ、人類の開花が止むことは膨大な喪失だと考えます。そして放棄された善き生が現実の喪失だとひとたび認めれば、あなたは可能な幸福を再び秤に乗せたことになり、総和説の論理が反発すべき尻尾もろともその後ろからついてくるのです。あなたの見解は、それが逃れた判定よりもいっそう信じがたい絶滅についての判定によって、群れからの逃れを購っているのです。 私は絶滅の事例の重みを感じます。それは純粋な形の人格影響説があまりに禁欲的であることを示しています。ですから私が実際に立つ場所を述べさせてください。それはそこではありません。私は多元論的見解を抱きます。すなわち、厚生は重要でありその分配もまた重要であり完成主義的な高みもまた重要であって、これらのいずれも単一の足し合わせ可能な量へと還元されはしない、と。あらゆる開花の終焉が破局であるのは、私たちが生まれざる者に存在を負うからではなく、開花そのもの——理解、愛、美、達成——が非人称的に善く宇宙のうちに在るに値するからです。これに対し剥き出しの満足した存在は同じ善を単に掛け合わせたものではありません。ですから私は絶滅を嘆きつつなお群れを拒むことができます。絶滅において失われるのは高みであり、群れに欠けているのもまさに高みなのです。一つの価値が両方の判断を説明し、しかもそれは厚生の総和ではないのです。 では私たちが誠実にどこに立っているかを突きとめさせてください。なぜなら不可能性の結果は私たち双方を縛り、おのおのが一つの弾丸を選んだのですから。私たちは、いかなる人口価値論も私たちが説得力を感じるすべての条件を満たさないこと——何か反直観的なものが受け入れられねばならないこと——に同意しています。開花の絶滅が現実の喪失であり、滅びへ定められた子は作られるべきでないことにも同意しています。私たちが分かれるのはいずれの弾丸を噛むかです。私は反発結論を受け入れます。すなわち、厚生は足し合わされ、かろうじて生きるに値する生もなお正の価値を持つ生であり、私たちのたじろぎは思い描けない数を前にした規模非感応性だと考えるのです。あなたはそれを斥けます。すなわち、総和が捉えそこなう