A Philosophy of Walking — It Was Never the Legs, but the Tempo and the Attention — Epoche C2
場面設定: 夕暮れの川沿いの遊歩道。市街の灯がともり始め、川面に黄色く滲んでいる。少し前まで、近くの書店で、新刊『歩くことについて』の出版記念の催しがあり、その熱気を、まだ二人とも引きずっている。著者のタリク(三十代、ジャケットの襟に来場者バッジを着けたまま、興奮で身振りが大きい)と、その旧友で都市地理学者のノラ(三十代、十一年前の事故以来、車椅子を使っている。膝の上にショールと、買ったばかりのタリクの本)。道は平らによく舗装され、二人は——一人は歩き、一人は車輪で——並んで、同じ速さで進んでいく。遠くで、川を行く小舟の灯が、ゆっくりと上流へ消えていく。 来てくれて、ありがとう、ノラ。それに、僕と『散歩する』のに付き合ってくれて——その言い回しは、もっと気をつけて使うべきだと、分かってはいるんだけどね。三年だよ。三年かけて、僕はこう論じてきた。歩くことは、最後の人間的な速度だ、思考の歩調だ、と。歩くのをやめた文明は、考えるのをやめたんだ、ってね。今夜、その本をようやく世に出した。そして、君が来てくれた。 ワインに釣られて来て、皮肉に惹かれて居残ったのよ——この私たち二人が、『散歩する』だなんて。たじろがないで。その言い回しは、あなたに使わせておくわ。でもね、タリク、一冊に三年もかけたあなたに、私が切っていた章を、言っておかなくちゃ。歩くことが美徳になる、あの章よ。あなたは、自分の両脚への恋文を書いて、それを哲学と呼んだの。 それは、あんまりだよ——僕は脚を讃えているんじゃない。一つの歩調を讃えているんだ。ここには本物の伝統があって、感傷じゃない。アリストテレスは歩きながら教えた——逍遥学派、足で考えた学派だ。ルソーは『私は歩いているときにしか、思索できない』と言った。ニーチェは『真に偉大な思想はすべて、歩きながら生まれる』と書いた。カントの隣人たちは、彼の散歩で時計を合わせた。彼らは運動のために出かけたんじゃない。動く身体が、動く心の鍵を開ける、と気づいていたんだよ。 そして、あなたが今あげた名前は、ひとり残らず、召使いと暇のある、健常者の男だったわ。それが私の論点で、揚げ足取りじゃない。『歩く哲学者』というのは、余暇と特権の似姿なのよ。ニーチェが八時間歩けたのは、誰か『別の人』が、彼の夕食を作っていたから。人類の歴史の大半で、どこへでも歩くことは、自由なんかじゃなかった。馬を持てないほど貧しい、その印だったの。あなたは、力なき者の『強いられた遅さ』と、恵まれた者の『選んだ遅さ』を取り上げて、同じ高貴な色に、塗ってしまったのよ。 (言葉に詰まり)……それは、こたえるな。遊歩者——ボードレールの暇な散策者、ベンヤミンの『群衆の人』——あれも僕は、半ば祝福してしまった。手当てで暮らす、役立たずの耽美家だったのに。でもノラ、まさか君は、そこに『何も』ない、と言っているわけじゃないだろう——歩くことと考えることの結びつきは、純粋なロマンスにすぎない、と? いいえ。そこが、しゃくに障るところなの。『何か』は、確かにある。そしてあなたは、その一番強い証拠を、詩的じゃないからって、註に埋めてしまった。オッペッツォとシュワルツ、二〇一四年——彼らは、それを実際に検証したのよ。人をルームランナーに乗せ、何もない壁に向かわせた——景色なし、外気なし、あなたのロマンスは一切なし。それでも、創造的な産出は、座っているときより、六割ほど跳ね上がった。草原でも、鳥のさえずりでもなかった。動く身体、それだったの。効果は、本物。あなたはただ、それを間違ったものに、結びつけただけ。 間違ったもの——つまり、運動ではなく、脚に、ということか。 運動ではなく、脚に、よ。あなたは『歩け』と言う本を書いた。でもデータが言っているのは、『動け、ある一定の歩調で、画面から注意を外して』。その二つは、同じ処方箋じゃない。そして、その違いこそが、私の人生のすべてなの。私は十一年、歩いていない。それでも、私の最良の思考は、この椅子の上で、川沿いを長く転がりながら——あなたがそんなにロマンチックに語る、まさにその速さで——してきたのよ。仕事をするのは、足首じゃ、はじめからなかったの。速度と、目がどこを向いているか、それだったのよ。 (静かに)……速度と、目がどこを向いているか。じゃあ、僕が『散歩に行こう』と言うとき、本当に意味しているのは——伝統が本当に見出したのは——『身体と心が、急がず、気を散らさず、ともに動ける、その歩調を見つけよ』、ということなんだ。 今、あなたは、もっと良い本を書いているわ。そして、その捉え直しが、何を救い出すか、見て。あなたのロマン派たちは、近代という条件が思考にとって破局だ、という点では、間違っていなかった——彼らはただ、その治療が脚だ、と思った点で、間違っていたの。本当の病は、速度と画面よ。エンジンと、流れてくる情報の速さで、まるごと営まれる文明——そこでは、歩く者も、転がる者も、誰一人、心が考えるために進化してきた、あの歩調まで、落ちてこない。車は、歩くことの敵じゃない。歩くことの敵は、歩く者のポケットの中の、あの電話なのよ。 それは、僕の本のどこよりも、鋭いよ。僕たちは今、脚を動かしながら、注意はまるきり別のところにある——身体は歩き、心は、六インチ先の画面の中だ。だから、一日じゅう『歩いて』いて、ルソーが意味したような散歩には、ただの一度も、出かけられない。 その通りよ。逍遥学派は、速くもなく、気も散っていなかった——その二つが変数で、私たちの時代は、その両方を、壊してしまった。歩く者にとっても、私にとっても、同じだけね。梭羅は、機械が来るより前に、もう言っていたわ。『そぞろ歩き』に何時間も費やさなければ、自分の健康も気力も保てない、と。そして彼は、その言葉に、こだわっていた——半ば冗談に、それは聖地を目指してさまよう者たち、『サント・テール』から来たのだ、と。運動ではない。魂の、ある向きなのよ。椅子の上でも、そぞろ歩きはできる。けれど、通知と一緒には、できないの。 じゃあ、僕の論旨そのものは、生き延びるわけだ——ただし、君に、その脚を切断させてやれば、の話だけど。(と、苦笑して)歩くことは、はじめから要点じゃなかった。それは、ある歩調へと至る、最もありふれた、最も古い、最も手に入りやすい扉だったんだ。大半の人にとって、歴史の大半で、身体を思考の速さまで落とす一番安上がりな手は、手持ちの足を使うことだった。だから伝統は、こぞって徒歩なんだ。足が神聖だからじゃない。足が、そこにあったからだよ。 そして、それが正直な版で、あなたが書いたものより、大きな本なの。だって今度は、それが『みんな』を含むから。走る者がそれを見つけ、漕ぐ者が見つけ、庭の草をむしる女が見つけ、私は曳舟道で見つける——そして、一日じゅう車に乗り、エスカレーターに運ばれ、画面を繰っている、机に縛られた通勤者は、どこにも見つけられない。丈夫な脚を二本、持っていてもね。脚は、はじめから、分かれ目じゃなかったの。分かれ目は、一日に一度、機械の歩調から抜け出して、自分自身の歩調へと戻ってくるか、どうか。それだけよ。 なら、本当は最初の一ページに書くべきで、書かなかったことは、これだ。処方箋は『歩け』じゃない。それは——一日に一度、君の身体が許すどんな手段ででも、注意を世界に向けたまま、思考の速さで動け。そして、それを忘れた文明は、ますます速くなりながら、ますます理解しなくなっていく——だ。君は今、僕の本を一文で書き直して、それを、初めて、真実にしてくれた。 でも、脚の話は、残しておいてね——使えない私たちにとっては、それを読むのは、楽しみなの。空を飛ぶ話を読むのと、同じようにね。ただ、それを教訓には、しないで。(と、水際で速度をゆるめる。光が落ちていく)ねえ、私が本当に羨ましいのは何だか、分かる、タリク? 歩くことじゃない。それを、気にも留めずにいられること。あなたは、この思考の歩調を、選びもせず、息をするみたいに、やってのける。私は、それを毎日、わざわざ、選ばなくちゃならない。それが——だんだんそう思うようになったんだけど——この椅子が私にくれた、唯一の取り柄なの。おかげで私は、気づいてしまった。贈り物だったのは、その遅さのほうで、脚は、ただの包み紙だったって。(ひと呼吸)さあ——あなたの歩調にする? 私の? だって、この時刻、この川辺では、その二つは、たまたま、ぴったり同じなんだもの。遠回りして、行きましょうよ。 解説: 夕暮れの川沿いの遊歩道を舞台にした C2 級・十六ターンの弁証法。設定そのものが主題の実例——一人は歩き、一人は車椅子で、二人は同じ速さで進む。正:歩行礼讃の本を書いた著者タリクの立場——歩くことは最後の人間的な速度であり思考の歩調だ。逍遥学派・ルソー・ニーチェ・カントが示すように、動く身体が動く心の鍵を開ける。反:都市地理学者で車椅子を使うノラの立場——その伝統は健常者の特権・余暇の似姿であり、力なき者の強いられた遅さと恵まれた者の選んだ遅さを同じ高貴な色に塗っている。遊歩者は手当てで暮らす耽美家だった。けれど効果自体は本物で、オッペッツォとシュワルツ(二〇一四)はルームランナー+無地の壁でも創造的産出が約六割増えることを示した——効くのは脚ではなく、動く身体・テンポ・注意なのだ。合:要点は脚ではなく速度と注意であり、歩行はそこへ至る最も古く手に入りやすい扉にすぎない。本当の病は速度と画面で、車ではなく歩く者のポケットの電話こそ敵。梭羅の『そぞろ歩き(サント・テール)』を経て、処方箋は『歩け』ではなく『一日に一度、身体が許す手段で、注意を世界に向け、思考の速さで動け』に書き換えられる。走者・漕ぎ手・庭仕事・車椅子も同じ贈り物を得、分かれ目は機械の歩調から自分の歩調へ戻れるか否か。最後は『遅さが贈り物で、脚は包み紙』へ収束する。 参考文献 Solnit, R. (2000). 『Wanderlust: A History of Walking』. New York: Viking. Gros, F. (2009). 『Marcher, une philosophie(歩くこと——その哲学)』. Paris: Carnets Nord. Thoreau, H. D. (1862). 「Walking」. The Atlantic Monthly, 9(56), 657-674. Oppezzo, M., & Schwartz, D. L. (2014). 「Give Your Ideas Some Legs: The Positive Effect of Walking on Creative Thinking」. Journal of Experimental Psychology: Learning, Memory, and Cognition, 40(4), 1142-1152. Benjamin, W. (1939). 「Über einige Motive bei Baudelaire(ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて)」. Zeitschrift für Sozialforschung.