Do Animals Have Equal Moral Status? — Sentience, Speciesism, and the Moral Community — Epoche C2
場面設定: 動物倫理の大学院の授業のあとのゼミ室。シンガーの利益への平等な配慮を擁護するアデイェミ教授と、完全な道徳的地位は行為者性・種類・帰属に基礎づけられると考えるキャロウェイ教授が、学生の去った夕刻に聴衆なしにこれを論じはじめる。 導入: ある存在に道徳的配慮が負われるのは何ゆえか。とりわけ動物には何が負われているのか。一方の系譜はシンガーに発し、利益への平等な配慮を原則とし、有感性すなわち苦しむ能力こそ道徳的配慮の唯一の基準であると説く。同等の苦しみを別の種に属するという理由で軽く数えることは種差別であり、その構造は人種主義に等しい。限界事例からの論証はこれを補強する。能力に基づく動物の排除は人間の乳児や重度の認知障害者をも排除するように見えるからである。他方の系譜は、完全な地位を道徳的行為者性に、あるいは種類と関係に基礎づける。動物は道徳的受動者であり人道的な扱いを負われるが権利の共同体の成員ではないとするコーエンの見解、契約主義を説くカラザース、関係論的に人間を捉えるダイアモンドがこれを担う。鍵となる対立軸は、能力か、それとも種類と帰属かである。 あなたがすでに受け入れている原則から始めよう。利益への平等な配慮である。二つの存在が同種の利益を——たとえば苦しまないことへの利益を——持つなら、その利益は誰のものであれ等しく数えられる。そこに、ある存在がそもそも道徳的配慮に値するための唯一の基準を加えよう。知能でも言語でもなく、有感性、すなわち苦しむ能力である。苦しみうる存在は苦しまないことへの利益を持つのだから。この二つから帰結する。豚の痛みと人の痛みは、それが同等の痛みであるなら等しく数えられる、と。人間の痛みを単にそれが人間のものだという理由で重んじることは種差別である。それは人種主義や性差別とまさに同じ構造を持つ偏見であり、道徳的に有意な理由なしに自らの集団を優遇するものだ。そして科学は経験的な問いを閉じた。ケンブリッジ宣言は、哺乳類、鳥類、さらにはタコまでもが意識的経験の神経基盤を備えていることを確証している。彼らは苦しむ。それで誰が数えに入るかは決まる。 それで決まるのは誰が苦しみうるかであって、誰が完全な道徳的地位を持つかではない。あなたはその二つを一緒くたにしている。完全な地位——権利の担い手としての立場——は道徳的行為者たりうる存在に付着する。理由を把握し、義務を秤にかけ、自らの行いに責めを負いうる存在に、である。動物にはそれができない。彼らは道徳的受動者であり、人道的な扱いを負われてはいるが、完全な意味で害しまた害されうる行為者の共同体の成員ではない。そしてここで種差別は人種主義とは決定的に異なる。人種は道徳的に無関係だ。それは道徳とは何かと何の関わりも持たない。道徳的行為者性の能力は無関係ではない。それこそまさに道徳が関わるものなのだ。それを画することは偏見ではない。それは、道徳的たりうる存在とそうでない存在との違いを認めることである。 あなたの行為者性の基準はあまりにも多くを証明しすぎる。そしてそれが破綻するのが限界事例からの論証だ。明らかに道徳的行為者性を欠きながら、あなたが決して完全な地位を剥奪したりしない存在を考えよ。新生児、重度の認知障害者、末期の認知症患者である。誰も義務を把握したり理由を秤にかけたりできない。そして多くは、あなたが挙げたあらゆる能力において、成体のチンパンジーや豚に凌駕されている。だからあなたは岐路に立つ。それらの人間を完全な地位から排除するか——それは怪物的であり、あなたはそうしないだろう——あるいは道徳的行為者性は結局あなたの真の基準ではなかったと認めるか、どちらかだ。そしてそれが失われた途端、あなたが含めたいすべての人間を恣意性なしに含める唯一の線は私が引いたものになる。有感性である。「彼らは人間だから」という以外に第三の選択肢はない。 第三の選択肢はある。そしてそれは恣意的ではない。私たちが障害を持つ乳児に完全な地位を拡げるのは、彼女の現在の諸能力を勘定するからではなく、彼女がある種類——人間という種類——の成員だからである。その種類の正常な成熟形態は理性的な道徳的行為者なのだ。地位は種類を追跡するのであって、瞬間的な個体を追跡するのではない。これは言い逃れではない。道徳的関心が実際に働く仕方なのだ。それは個体の能力を一体ずつ採点するチェックリストではなく、種類と関係を通じて働く。ダイアモンドはその深さを見て取った。人間という存在が私たちにとって何であるかは、心理的諸能力の一覧によっては捉えられず、親縁と応答の網の目によって捉えられる。その網の中では、重い障害を負った者でさえなお私たちの一人にとどまるのだ。チンパンジーは別の種類の栄えある成員であり、その種類の善を負われている。否定されているのではない。違う位置に置かれているのだ。 だが「あなたの種類はより少なく負われている」というのは、あらゆる偏見が口にしてきたまさにその一文であり、それをリンネ的な分類学で装ってみても神聖化されはしない。「人間という種類」は生物学的なカテゴリーであって、魔力を宿した道徳的本質などではない。試してみよ。理性的な火星人や、知能を高められた類人猿があなたの前に立って哲学を論じたとしても、あなたの種の規範は、不可逆で夢のない昏睡状態にある人間よりもそれを下位に置くだろう。なぜならそれは種の成員性をそれ自体のために追跡するからだ。それこそまさに種差別の定義である。そして代償は抽象的ではない。チンパンジーの苦しみを人間でないという理由で割り引くことを許すのと同じ構造こそ、あらゆる内集団が外集団を割り引いてきた構造なのだ。「我々は彼らを憎む」のではなく、「彼らは我々の種類ではないから彼らの利益は異なる重みを持つ」というわけである。 あなたは「苦しみを割り引く」と言い続けるが、それこそ私が認めない滑りだ。種類に相対的な見解は苦しみをまったく割り引かない。それは二つの異なるものを区別する。苦しみを引き起こさない義務——これを私はあなたと同じく強くチンパンジーに対して負っている——と、権利の共同体の完全な成員としての立場とを、である。私は死者に、未来の世代に、原野に、傑作に義務を負っているが、そのどれをも平等な請求を持つ権利の担い手にすることなしにそうしている。そしてあなたの理性的な火星人は私の見解では数えに入る。それは道徳的行為者だ。種類があろうとなかろうと。一方であなた自身の理論には、あなたが引き受けねばならない代償がある。平等な配慮は、同等の有感性を持つ子供と豚を同格の請求者にする。だから子供を先に救うことは単なる種差別的な選好になってしまう。それを生き抜ける人はほとんどおらず、誰も住むことのできない道徳は疑わしい。 私はその弾を、あなたが予期するよりも真正面から噛む。そしてそれはあなたが恐れるよりも小さい。利益への平等な配慮は同一の扱いではない。利益が同一ではないからだ。人は自らの存在を時間を通じて把握している。彼女には計画があり、愛着があり、思い描き望む未来がある。彼女の死は、豚の持たない密な未来志向の選好の網の目を挫折させる。だから彼女を殺すことは一般により重い不正である。彼女が人間だからではなく、そこに失われうるものがより多くあるからだ。だから私は種について一言も語らずに子供を救うことを説明できる。私が受け入れられないのは、豚の苦しみが、それが生きているあいだ、単にそれが何であるかという理由で軽く数えられることだ。あなたの「平等な地位なき人道的な扱い」とは、まさに工場式畜産を保ちながら自らを慈悲深いと呼ぶための公式そのものなのである。 だが「失われうるものがより多い」が今しがた何をしたかに注意せよ。それは能力を真の通貨としてこっそり連れ戻したのであり、いまやあなたの見解は困難な事例において私のほうへと漂っている。未来志向の選好をまったく持たない人間を取ってみよ。無脳症の乳児、持続的植物状態の患者である。あなた自身の尺度において、彼らは健康で未来を予期する豚よりも失うものが少ない。だからあなたは、豚の生のほうが重要だと言わねばならず、両者が衝突したときには豚を人間の上に重んじねばならない。あなたはそれを呑み込むか——それはほとんど誰をも慄然とさせる——あるいは現在の能力を超えて何か別のものに手を伸ばすか、どちらかだ。すなわち、子供は私たちのものであり、親縁にして成員として保護を負われている、と。それこそまさに私が擁護してきた関係的な基盤である。能力だけでは、あなた自身が保ちたい線を保つことはできない。 では私たちが正直にどこに立っているかを見出させてくれ。それぞれに本物の代償があるのだから。私たちは、動物が有感的でありその苦しみが道徳的に重要であることに一致している。あなたはそれを引き起こさない強い義務を認める。私たちは、能力が死においてどれだけが賭けられているかに関わることに一致している。私たちが分かれるのは立場の基盤だ。私はそれを道徳的に有意な個体的能力に、主として有感性に、ある存在が失いうるものに応じて重みづけられたそれに位置づける。あなたはそれをまた、そして消去しえない仕方で、種類と関係に位置づける。それゆえ私たちの一人であることは、いかなる能力の目録によっても汲み尽くされない立場を帯びる、と。私の恒常的な恐れは、「種類」があらゆる偏見がくぐり抜けてきた扉だということだ。あなたの恒常的な恐れは、「能力」が傷つきやすい人間に負う特別な関心を溶解させ、そもそも下すべきでない比較を強いるということだ。 そこが継ぎ目だ。そして私は自らの側を保ちつつ、あなたの側にその力を認めよう。そうだ、「種類」は怪物的に濫用されてきた。だが治療法は、種類に基づく関係的な関心を廃絶することではない。それはまた、私たちの最も深く最も交渉の余地のない義務をも基礎づけるのだから。乳児への、親縁への、決して返報しえない障害者への義務を、である。治療法は、その種類が道徳的に有意なものであることを主張することだ。生のままの生物学としての「人間」ではなく、その成員が正常に発達すれば相互義務に結ばれた道徳的行為者となるような種類の存在として、である。だからこそあなたの火星人は数えに入り、昏睡は数えに入る種類の損なわれた成員なのだ。あなたが迫る危険を私は引き受けよう。「種類」が外部の者を割り引く許可証になるという危険を、である。それを律する規律こそまさにあなたの原則だ。苦しみは、誰が苦しむのであれ完全に数えられる、というそれである。 ではその規律を受け入れ、そこからどれほど多くが帰結するかを見よ。ここでこそ私たちの一致は本物の働きをするのだから。苦しみが、誰が苦しむのであれ完全に数えられるなら——そしてあなたは今しがたそれを認めた——基礎的な地位について何を結論しようとも、私たちが動物を扱う仕方の建造物のほとんど全体が崩れ落ちる。工場式畜産は、あなたが完全に苦しみうると認める存在に、より安価な肉という些細な利益のために甚大な苦しみを与えるのだから、私の前提においてと同じく確実にあなたの前提においても断罪される。代替されうるのに行われる苦痛を伴う実験のほとんども、私たちの食料体系の何気ない残虐さも同様だ。地位の問いは私たちを分かつが、緊急の不正が宿るのはそこではない。緊急の不正は、私たちがともに実在と呼びともに重大と呼ぶ苦しみのうちに宿る。それを率直に名指せば、私たちのどちらも擁護しえない規模で日常的に引き起こされている苦しみのうちに、である。 それについて私は言葉を濁さない。あなたは正しく、それはより差し迫った真実だ。地位の形而上学がどうあれ、これらの存在のように苦しみうる存在が私たちの便宜のために何十億という規模で苦しめられることは、私の見解が留保なく断罪する不正である。関係的な関心は、関係の外にある者に残酷であってよいという許可では決してなかった。それは、関係の内にある者に何を負っているかのより充実した説明にすぎない。だから実践的な収束を潔く認めよう。私の立場は工場式畜産が行うことを何一つ許認可しない。私がなおあなたと分かれるのは理論的な点であり、それはより困難な事例にとって重要だ。救命ボート、医療試験、何かが選ばれねばならない衝突である。そこでは成員性が正当に重みを持つと私は言い、能力だけが許されるとあなたは言う。だが日常の膨大な残虐については、私たちは味方だ。そしてそれを和らげるために地位の区別の陰に隠れたりはしない。 では残された隔たりを正確に述べさせてくれ。私たちはその周りをこれほど多く片づけたのだから。私たちはともに苦しみを割り引くことを拒む。私たちはともに自らの傷つきやすい者に特別な義務を負う。私たちはともに日常の残虐を断罪する。残された純粋な問いはこれだ。利益が真に衝突し、種または種類のほかに引き分けを破るものが何もないとき——救命ボートの最後の一席、ただ一つの治療、下されねばならない選択において——私たちは人間を、それが正しいから優遇するのか、それとも私たちだから優遇するのか。あなたは、成員性はそれ自体が地位を授ける理由であり単なる偏愛ではない実在の道徳的事実だと言う。私は、それは私たちが感じおそらくは行動の根拠としうる偏愛だが、同じ苦しみをより少なく数えるものとしては正当化しえないと言う。それは狭い戦場だ。だがそこは、「それが私たちのものだから」が理由であるか否か、唯一それが問われる場所であり、そこで私たちはなお分かれて立っている。 そして成員性が単なる偏愛ではなく理由だと私が考える理由を名指そう。その立証の責任は当然だからだ。道徳はどこからでもない眺めから降りてきたのではない。それは関係のうちに立つ存在たちのあいだに育った。誰かの子であり、誰かの隣人であり、請求を立ててそれを尊ぶ共同体の成員である存在たちのあいだに、である。その相互義務の網の目に参与していることは、道徳の上に被せられた偏りではない。それは道徳とは何であるかの一部なのだ。だから引き分けが破られねばならないとき、成員を優遇することは同種の痛みを異なって数える偏見ではない。それは、義務という観念そのものにその握力を与える関係を尊ぶことである。これが痛みにおける差異として換金されえないことは認めよう。それは苦しむ者の立場における差異であり、その紐帯こそが立場にいかなる意味であれ意