大菩薩峠 道庵と鯔八の巻 — 中里介山
一 下谷の長者町の道庵先生がこの頃、何か気に入らないことがあってプンプン怒っています。 その気に入らないことを、よく尋ねてみるとなるほどと思われることもあります。それは道庵先生のすぐ隣の屋敷地面を買いつぶして、 贅沢 ( ぜいたく ) な 普請 ( ふしん ) をはじめたものがあるのであります。道庵先生ほどのものが、他人の普請を 嫉 ( ねた ) むということはありません。その普請が出来上るまでは、先生は更に頓着をしませんでしたけれども、いよいよ出来上って、その事情が知れた時に、先生が非常に憤慨してしまいました。その普請というのは、そのころ有名な 鰡八大尽 ( ぼらはちだいじん ) というものの妾宅なのであります。 鰡八大尽というのは、その頃の成金の筆頭でありました。みすぼらしい 棒手振 ( ぼてふり ) から仕上げて、今日ではその名を知らないもののないほどの大尽であります。それは国内に聞えた大尽であるのみならず、外国人を相手に手広い商売をしました。糸の取引をしたり、 唐物 ( とうぶつ ) の輸入をしたり、金銀の 口銭 ( こうせん ) を取ったり、その富の力の盛んなことは、外国までも響き渡るほどの大尽でありました。 「おれの隣へ来たのは鰡八の野郎か、それとは知らなかった、 口惜 ( くや ) しい」 道庵先生は、それと知った時に 歯噛 ( はが ) みをしたけれど、もう追附きません。 その妾宅が出来上ると盛んなる披露の式がありました。集まる者、朝野の名流というほどでもなかったけれど、多種多様の人が集まって、万歳の声が湧くようでありました。それを聞いて道庵先生は、火のように怒ってしまいました。その後とても、毎日毎日、鰡八大尽の妾宅へ詰めかける朝野の名流(?)は少ない数ではありませんでした。その門前の賑やかなことは長者町はじまって以来の景気であります。ところが道庵先生の方は、相変らずの十八文でありました。その門を叩く人も十八文に準じた人で、朝野の名流などはあまり集まらないのであります。 今まで十八文で売っていた道庵先生、長者町といえば酔っぱらいの道庵先生と受取られるほどの名物であった先生が、 鰡八大尽 ( ぼらはちだいじん ) の妾宅が出来てからというものは、その名物の株を奪われそうになったのであります。道庵先生が憤慨するのも道理がないわけではありません。鰡八大尽の方とても、ことさらに道庵先生の隣を選んで普請をはじめたわけではなかろうけれど、偶然にそうなったことがおかしなものでありました。ことに門が崩れ、塀が破れ、家が傾いた先生の屋敷の 地境 ( じざかい ) へ持って行って、宮殿を見るような大きな建築が湧き出し、その楼上で朝野の名流だの、絶世の美人だのが豪華を極めるところを、道庵先生が、縁側で薬草などを乾かしながら見上げている心持は、どんなものでありましょう。 「いまに見ていやがれ、鰡八の野郎、ヒデエ目に逢わしてやるから」 道庵先生は、こんなわけで、このごろはプンプン怒っているのでありました。 鰡八大尽の方では、こんなわけで、道庵先生を敵に持ったことはいっこう知りませんでした。大尽がその高楼の上から、先生の屋敷と庭とを一眼に見下ろして、 「汚い家だな、何とかして早く買いつぶしてしまえ」 と言って不快な 面 ( かお ) をしていました。それで三太夫が人を介して、内々買いつぶしの相談に当らせてみようとすると、あれは有名な変人だから、そんな話を持ち込もうものなら、かえって飛んだ 事壊 ( ことこわ ) しになります。まあもう少し時機をお見合せなさいましということであったから、大尽にはそのことを言わないで置いてありましたけれども、ここに鰡八大尽と道庵先生とが、表向いて相争わなければならない事情が出来たのは、ぜひないことと申すより外はありません。 それは鰡八大尽が、ある夜、この妾宅の楼上へ泊り込んだ時に、不意に食あたりに苦しめられて、上を下へと騒がせたことがありました。大尽は非常に苦しみました。いかに大尽の力を以てしても、雇人たちの 追従 ( ついしょう ) を以てしても、病気ばかりは医者の手を借らなければならないのであります。その医者とても、この場合においては、遠くの名医博士よりも、近くの十八文を有難く思わねばならないのでありました。そこで家の子郎党たちは、取るものも取り敢えずに道庵先生の門を叩きました。 この時に、道庵先生の門を叩いた家の子郎党たちが心得のある人であったならば、相手がなにしろ道庵先生だということを腹に置いてかかるのだけれど、不幸にしてその連中は、それだけの心得も腹もない連中が、 狼狽 ( あわて ) て駈けつけたもんだから、鰡八大尽のためにも、道庵先生のためにも、悪い結果を 齎 ( もたら ) すということを夢にも予想はしませんでした。 「今晩は、今晩は」 大尽の家の子郎党は、傾きかかった道庵先生の家の門を、荒々しく叩きました。 「国公、起きて見ろ、いやに荒っぽく門を叩く奴がある、こちとらの門なんぞは、 下手 ( へた ) に叩かれたんではひっくり返ってしまわあな」 道庵先生はその音を聞きつけて、寝床の中から薬箱持ちの国公に差図しました。 国公は、慣れたものだから、直ぐに起きて案内に出ました。 「どーれ」 国公が応対に出たけれども、道庵先生の寝ているところと玄関とは、いくらも隔たっていないのだから、先生はその応対の模様を、いつも寝ながらにして聞いていて、それによって病気の模様を察し、急いで駈けつけるべき必要があると認めた時は急いで駈けつけ、 悠々 ( ゆるゆる ) していた方が病人のためになると思った時は、わざと悠々したりなどするのが例でありました。 「今、 御前 ( ごぜん ) が御急病でいらっしゃる、先生に大急ぎで出かけていただきたい、御前はお気が短くていらっしゃるから、愚図愚図しているとお為めになりません、寝巻のままで決して御遠慮なさるには及びませんから、こういう場合でございますから、失礼は私共からあとで幾重にもとりなして差上げますから、どうか御一緒に願いたいもので」 国公が玄関の戸をあけるを待ち兼ねて、外からこういう挨拶でありました。寝ながら聞いていた道庵先生は、どうも 解 ( げ ) せない挨拶だと思いました。第一、御急病でいらっしゃる御前というのは、何者であるかということも解せないのでありました。それに気が短くていらっしゃるから、愚図愚図していると為めにならないという言い分は、考えてみるとおかしな言い分でありました。お気が短くていらっしゃろうと、お気が長くていらっしゃろうと、こっちの知ったことではないのであります。寝巻のままで御遠慮をなさるには及ばないから出て来いという言い草も、ずいぶん変った言い草であります。失礼はあとでとりなして上げるというのは、いったい誰に向って言ったのだろうと、道庵先生も少しく面喰って、世には 粗忽 ( そそっ ) かしい奴もあるものだ、頼まれる方へ向ってすべき挨拶を、頼む方からしてしまっている、急病で気が 顛倒 ( てんとう ) しているとは言いながら、おかしな奴等だと道庵先生は、腹の中でおかしがっていました。 道庵先生にも解せなかったように、取次の国公にも解せなかったから、眼をパチパチして、 「いったい、どちらからおいでなすったんでございます」 「どちらから? そうそう、それそれ、このお隣の大尽から参りました、大尽がただいま御急病でいらっしゃるから、それでお使に」 使の者がこう言った時に、 「馬鹿野郎!」 道庵先生がバネのように起き上りました。 「何でえ、何でえ」 道庵先生がムックリと 跳 ( は ) ね起きて、寝巻の帯を締め直す 隙 ( ひま ) もなく、枕許にあった 薬研 ( やげん ) を抱えて玄関へ飛び出しました。 もし先生が心得のある武士であったなら、薬研を持ち出すようなことはなかったでありましょうけれど、先生の枕許には、別段に武器の 類 ( たぐい ) を備えてありませんでしたから、先生はあり合せの薬研を抱えて飛び出したものであります。そうして玄関へ飛び出した先生の挙動は、確かに 鰡八大尽 ( ぼらはちだいじん ) の使者を驚かすに足るものでありました。挙動だけが使者を驚かすのみでなく、その言葉も彼等の 度胆 ( どぎも ) を抜くに充分なものでありました。 「さあ承知ができねエ、もう一ぺん言ってみろ、 手前 ( てめえ ) たちはどこから、誰に頼まれて来たのか、もう一ぺん言ってみろ」 先生は薬研を眼よりも高く差し上げて、鰡八大尽の使者を 睨 ( にら ) みつけたところは、かなり 凄 ( すご ) いものでありました。 「私共は、お隣の鰡八大尽の邸から上りました……」 「鰡八がどうした、その鰡八がどうしたと言うんだ」 「鰡八の御前が急に御大病におなりなさいましたから、先生に 診 ( み ) ていただきたいと思って上りました」 「それからどうした」 「もともと鰡八の御前は、 滅多 ( めった ) なお医者様にはおかかりにならないお方でございます、立派なお医者様をお抱え同様にしてあるのでございますが、なにぶん今晩のところは、急の御病気だものでございますから、よんどころなく先生のところへ上ったわけなのでございます」 「そうか、よんどころなく俺のところへ頼みに来たのか、よく来てくれた」 「何が御縁になるか知れたものではございません、これからこちらの先生も、大尽へお出入りが 叶 ( かな ) うようになるかも知れません、もしこれが御縁で大尽のお気に入りにでもなって、お出入りが叶うようになりますれば、使に立った私共までが面目でございます」 「この馬鹿野郎!」 道庵先生はこの時に、眼より高く差し上げていた薬研を、力を極めて玄関先へ投げつけました、薬研は 凄 ( すさま ) じい音をして、鰡八大尽の使者の足許へ落ちました。それと共に爆裂弾の破裂するような道庵先生の大音で、 「ざまあ見やがれ!」 使者の連中は、この人並ならぬ道庵先生の挙動と、足許で破裂した薬研の響きで、腰を抜かすほどに驚きました。 物を知らないというのは 怖 ( おそ ) ろしいものであります。使者の連中も、最初から道庵先生と心得てかかれば、これほどのことはなかったであろうに、惜しいことに、その辺の注意が行届かなかったから、こういうことになったのは返す返すも残念でありました。 「こりゃ 気狂 ( きちが ) いだ」 長居をしてはどういう目に逢うか知れないと思って、あわてふためいて 這々 ( ほうほう ) の 体 ( てい ) で、使者の連中は逃げ帰ってしまいました。 こうして彼等を追い返したけれども、道庵先生の余憤はまだ冷めないのであります。寝巻のままで庭へ飛び下りました。庭へ飛び下りて 用心梯子 ( ようじんばしご ) まで来ると、それへ足をかけて、みるみる屋根の上へ登ってしまいました。雇人の国公は、先生として 斯様 ( かよう ) な挙動はありがちのことだから、別段に驚きもしないし、いま物狂わしく屋根の上へ登って行く道庵先生を見ても、それを抱き留めようともなんともしないのであります。 それよりもいま、道庵先生が投げた薬研を、玄関の 鋪石 ( しきいし ) のところから拾い上げて、 転 ( ころ ) んだ子供をいたわるように 撫 ( な ) でていましたが、それが鋪石に当って、多少の凹みが出来たことを惜しいものだと思っています。先生がムキになって何かを 抛 ( ほう ) り出して大切の物を 創 ( きず ) にするのは、今に始まったことではありませんでした。 この夜中に屋根の上へ登った道庵先生は、それでも 辷 ( すべ ) り落ちもしないで、やがて屋の 棟 ( むね ) の上へスックと立ちました。 ここから見上げると、鰡八大尽の 大厦高楼 ( たいかこうろう ) は眼の前に 聳 ( そび ) えているのであります。道庵先生はそれを睨みつけながら、 「鰡八、鰡八」 と 突拍子 ( とっぴょうし ) もなく大きな声で怒鳴りました。近所の人はその声に夢を破られたのもあったけれど、すぐにまた例の道庵先生かと思って、わざわざ起きて様子を見届けようとするものもありませんでした。けれども当の鰡八大尽の家では、その大きな声で驚かされないわけにはゆきませんでした。殊に時めく大尽に向って、鰡八、鰡八、と言って 横柄 ( おうへい ) に頭から呼びかけるような人は、滅多にないはずなのであります。 ちょうどその高楼の二階の一間で、急病に苦しんでいた鰡八大尽は、いま少しばかりその苦しみが 退 ( ひ ) いたので、附添のものもホッと息をついているところへ、外の闇の中から、いずこともなくこの突拍子もない大音で、 「鰡八、鰡八」 と呼びかけたのが耳に入りました。 「あれは誰だ」 と、それが大尽の耳ざわりになったのは、道庵先生にとっては 誂向 ( あつらえむ ) きであったけれど、並んでいた人たちにとっては、身体を固くするほどの恐縮なのであります。何かにつけてごまかそうとしている時に、またしても、 「鰡八、鰡八」 と 破鐘 ( われがね ) のような大きな声で、続けざまに呼び立てる声がします。 「あれは誰だ」 急病は一時は落着いたけれど、この声で大尽の落着きが乱れて来るようであります。鰡八、鰡八と、事もなげに自分を呼び捨てる怪物が外にあると思えば、よい心持はしないらしくあります。それが怪物であるならば、まだよいけれど、人間であるとしてみれば、打捨ててはおかれないのであります。大尽はその声のする方を睨めていると、 「 気狂 ( きちが ) いでございます」 さきに道庵先生のところへ使者に行って逃げ帰ったのが、恐る恐る大尽に向ってこう言いました。 「隣の屋根の上あたりでする声のようだ、隣はいったい何者が住んでいるのだ」 大尽は耳をすまして、なおその声を聞こうとしながら附添の者にたずねると、 「貧乏医者でございます、貧乏な上に気違い同様な奴でございます」 「 怪 ( け ) しからん、ナゼ早く買いつぶして立退かせないのだ」 「それがどうも……」 大尽の御機嫌が斜めになるのを、附添の者はハラハラしていると、 「鰡八、病気はどんな 塩梅 ( あんばい ) だ、ちっとは落着いたかい」 屋根の上でこういう大きな声がしました。 「怪しからん」 「鰡公」 「憎い奴だ」 「鰡公よく聞け、手前は貧乏人から