入江のほとり — 正宗白鳥
一 長兄の栄一が奈良から出した絵葉書は三人の弟と二人の妹の手から手へ渡った。が、勝代のほかには誰も興を寄せて見る者はなかった。 「どこへ行っても枯野で寂しい。二三日大阪で遊んで、十日ごろに帰省するつもりだ」と筆で ぞんざい に書いてある文字を、鉄縁の近眼鏡を掛けた勝代は、目を 凝 ( こ ) らして、判じ読みしながら、 「十日といえば明後日だ。良さんはもう一日二日延して、栄さんに会うてから学校へ行くとええのに」 「会ったって何にもならんさ」良吉はそっけなく言って、「今時分は奈良も寒くってだめだろうな。わしが行った時は暑くって弱ったが、今度は花盛りに一度 大和巡 ( やまとめぐ ) りをしたいな。 初瀬 ( はせ ) [#ルビの「はせ」は底本では「はつせ」] から 多武 ( とう ) の峰へ廻って、それから山越しで吉野へ出て、高野山へも登ってみたいよ。足の丈夫なうちは歩けるだけ方々歩いとかなきゃ損だ」 「勝はどこも見物などしとうない。東京へ行っても寄宿舎の内にじっとしていて、休日にも外へは出まいと思うとるの」勝代はわざと哀れを 籠 ( こ ) めた声音でこう言って、さっきから一言も口を 利 ( き ) かないで、 炬燵 ( こたつ ) に 頬杖 ( ほおづえ ) 突いている辰男に向って、「辰さんは今年の暑中休暇にでも遠方へ旅行してきなさいな。家の者は男は皆な東京や大阪や、名所見物をしとるし、温泉へも行ったりしとるのに、辰さんばかりはちっとも旅行しとらんのじゃから、気の毒に思われる。自分では東京へ行ってみたいとも思わんのかな」 「行けりゃ行ってもいいけど……」辰男は低い 錆 ( さ ) びた声で不明瞭な返事をして、口端を 舐 ( な ) めずった。 「わしが東京にいる間に来りゃよかったのに。下宿屋に泊ってて電車で見物すりゃいくらも金は 入 ( い ) らないんだから」 「勝と辰さんは電車を見たことがないのじゃから、兄弟じゅうで一番時代遅れの田舎者だ。勝は岡山まで汽車に乗ってさえ頭痛がするのに、東京まで何百里も乗ったら 卒倒 ( そっとう ) するかもしれんから、心配でならんがな。その代り東京へ行ったら、三年でも四年でも家へは戻らんつもりだ」 「わしの春休みの間に行くようにすりゃ、連れてってやらあ。そうしたら帰りに大和巡りもできるしちょうど都合がいいんだよ」 「いやいや、勝は一人で行こう。それくらいの 甲斐性 ( かいしょう ) がなければ、自分の目的を 遂 ( と ) げられませんもの」 「口でこそ元気のいいことを言っていても、途中で腹が痛んだり、汽車に酔ったりしたらどうするんだい。自分の村でさえ出歩けない者が、 方角 ( ほうがく ) も分らない東京へ行ってマゴマゴすると思うと心細くなるだろう。東京のいい家では、つい近所へでも若い女一人外へ出しやしないよ。栄さんが帰ってきたらよく聞いてみるとええ」 「死んだってかまわん覚悟をしとるんだもの……」 勝代は負けぬ気でそう言って口を 噤 ( つぐ ) んだが、ふと不安の思いが 萌 ( きざ ) して顔が曇ってきた。良吉も話を外して、小さい弟をあやしなどした。 そこへ晩餐の 報告 ( しらせ ) が 階下 ( した ) から聞えたので、皆なドヤドヤと下りて行ったが、勝代は一人後へ残って、二三度母の呼びたてる声を聞いてから、ようよう炬燵を離れた。机の上の絵葉書帖に兄の絵葉書を挿んだ。そして、目を 顰 ( しか ) めて、夕月の寒そうに 冴 ( さ ) えている空を仰ぎながら、雨戸を 鎖 ( とざ ) して階下へ下りた。釣ランプを取囲んで、老幼取まぜて十人もの家族が 騒々 ( そうぞう ) しく食事をしていた。勝代は空いた席へ割りこんで、独り生冷たい煮返しに柔かい菜浸しを添えて、まずい思いをして 箸 ( はし ) を 執 ( と ) った。 ほかの者の 膳 ( ぜん ) には 酢味噌 ( すみそ ) の 飯蛸 ( いいだこ ) や 海鼠 ( なまこ ) などがつけられていて、大きな 飯櫃 ( めしびつ ) の山がみるみる 崩 ( くず ) されていた。 隣村まで来ている電灯が、いよいよ月末にはこの村へも引かれることに極ったという 噂 ( うわさ ) が誰かの口から出て、一村の使用数や石油との経費の相違などが話の種になっていた。電灯を見たことのない子供たちは、いろいろに想像しては喜んでいた。良吉はメートルとかスヰッチとかタングステンとか洋語を持ちだして電灯の講釈をしだした。 「僕は東京の下宿にいた時には、 五燭 ( ごしょく ) の球を 外 ( はず ) して、二十五燭のを使ってたよ。そうすると昼のように明るかった。こっちでもそうするといい。一つで家じゅう明るくならあ。そして長い 紐 ( ひも ) で八方へ引張るさ」 「そんなことができるんかい。電灯も村へ来りゃまるで断るわけにゃ行くまいから、まあ義理に一つだけはつけることにしようが、 畢竟 ( ひっきょう ) 無用の事じゃ」と、老父は言った。 「しかし、皆な電灯にすると、手数が掛らんし、火事の危険も少うなってようございますぜ」と次男の才次はそう言って、少くも二つは引かなきゃなるまいと言張った。そして、博覧会見物に行った際に見た東京のイルミネーションの美しさを語った。良吉もそれに 相槌 ( あいづち ) 打った。 「夜も昼のようだ」 平凡で簡単なこの言葉ほど、都会を知らぬ者の心に都会の美しい光景を 活々 ( いきいき ) と描かす言葉はなかった。 が、辰男はこんな話にすこしも心を 唆 ( そそ ) られないで、例のとおり黙々としていたが、ただひそかにイルミネーションという洋語の 綴 ( つづ ) りや訳語を考えこんだ。そして、食事が終ると、すぐに二階へ上って、自分のテーブルに寄って、しきりに英和辞書の 頁 ( ページ ) をめくった。かの字を 索 ( さぐ ) り当てるまでにはよほどの時間を費した。 「ああこれか」と独言を言って、捜し当てた英字の綴りを記憶に深く刻んだ。ついでにスヰッチとかタングステンとかいう文字を捜したが、それはついに見つからなかった。 広い机の上には、小学校の教師用の教科書が二三冊あって、その他には「英語世界」や英文の世界歴史や、英文典など、英語研究の書籍が乱雑に置かれている。洋紙のノートブックも手許に備えられている。彼れは夕方学校から帰ると、夜の 更 ( ふ ) けるまで、めったに机のそばを離れないで、英語の独学に 耽 ( ふけ ) るか、考えごとに沈んで、四年五年の月日を送ってきた。手足が冷えると二階か階下かの 炬燵 ( こたつ ) の空いた座を見つけて、そっと 温 ( あたた ) まりに行くが、かつて家族に向って話をしかけたことがなかった。すぐ下の弟の良吉とは、一時隣国の山間の小学校でいっしょに 教鞭 ( きょうべん ) を執ったことがあったので、多少打融けた話もしていたのだったが、それさえ年を経るとともに、隔たりが増して、この冬の休暇には親身な話はただ一度もしないで過した。 でも、良吉が傍で洗濯物や乾魚を小さい 行李 ( こうり ) に収めて明日の出立の用意をしかけると、辰男も書物を 措 ( お ) いてしばしばその方を 顧 ( かえり ) みた。 七八年前の冬休みに、 兎 ( うさぎ ) を一匹 需 ( もと ) めて、弟と 交互 ( かたみ ) に 担 ( かつ ) いで、勤先から帰省したことが、ふと彼れの心に浮んだ。 二 階下では、老父母も才次夫婦も子供たちも、あちこちの部屋に早くから眠りについて、階子段の下の 行灯 ( あんどん ) が、深い闇の中に 微 ( かす ) かな光を放っていた。二階では良吉と勝代とが炬燵に当って、ひとしきり東京話を聞いたり 訊 ( き ) かれたりしていたが、やがて別々の部屋に別れて 寝支度 ( ねじたく ) をした。 「良さんには当分会えんかもしれんな。来年高等学校を卒業したら、なるべくなら東京の大学に入れるような方法を取りなさいよ」と、勝代は兄の寝床を延べながら言った。そして、自分は寒さに傷まぬようにと、 懐炉 ( かいろ ) を腹に当てて眠った。 弟と妹の安らかな寝息を耳に留めながら、辰男はまだ椅子に腰を掛けて、雑誌に出ている和文英訳の宿題をいろいろに 工夫 ( くふう ) していた。アルハベットの読方から、満足に教師によって手ほどきされたのではないので、まったくの 独稽古 ( ひとりげいこ ) を積んできたのだから、発音も意味の取り方も自己流で世間には通用しそうでない。二年間東京の英語学校で正則に仕上げてきた良吉にしばしば「田舎で語学を勉強したって 骨折損 ( ほねおりぞん ) だ、それより早く正教員の試験を受けた方がいいぜ」と忠告されて、父や兄からもそれを最も賢い方法として 説勧 ( ときすす ) められたが、彼れは馬の耳に風で聞流して、否か応かの返事をさえしなかった。で、家の者は彼れの心を 量 ( はか ) りかねて、涼み台や炬燵の側での茶呑み話のおりおり、まじめの問題として持ちだされたことは二度や三度ではなかった。 「最初ヴァヰオリンを習って音楽家になりたいと言ったのを聞いてやらないんだから、それであんな風になったのじゃないかと思う」と、ある時父が思当ったように言った。 「そればかりじゃない。鼻がまだ直りきらんのでしょう。ちょっと見ると 拗 ( す ) ねているようじゃが、五年も六年も拗ね通されるものじゃない。身体に 故障 ( こしょう ) があるからでさあ」と、才次は言った。 「あれじゃ 商人 ( あきんど ) にもなれんし、百姓にもなれまいし、まあ 粥 ( かゆ ) でも 啜 ( すす ) れるくらいの田地を分けてやるつもりで、 抛 ( ほう ) っておくか」 とどのつまり、こう解決をつけて、もはや彼れの身の上を誰も問題にはしなくなった。見馴れた目には、彼れの行為もさして不思議には映らなくなった。 十一時が鳴ると、辰男は椅子を離れて押入から夜具を取りだした。そして、便所へ行った帰りに、階下の炬燵の残り火をかき起して、半身をずりこませて、気ままに温まった。おのずから [#「おのずから」は底本では「みずから」] 睡気の差すまで、こうして過している二三十分間が、彼れには一日じゅうの最も楽しい時間であった……今日 新 ( あらた ) に習い覚えた英語を口の中で繰返していたが、ふと弟の明日の出立が思いだされて、自分が眠っている間に出かけられては残念な気がしたので、 例 ( いつも ) よりも早目に炬燵を出た。 閾 ( しきい ) で仕切られているだけで、かつて 襖 ( ふすま ) の立てられたことのない自分の居間で、短い 敷蒲団 ( しきぶとん ) に足を縮めて横になって目を閉じた。いつもならば、目を閉じるとすぐに睡眠に落ちるのだが、今夜は慣例を破って、まだ睡気の 催 ( もよお ) さぬ前に炬燵を離れたためか、頭が冴えて眼つきが悪かった。 どこかの 障子 ( しょうじ ) を破っている猫の爪音が 煩 ( うる ) さく耳についた。辰男は「シッシッ」と言いながら 畳 ( たたみ ) をパタパタと叩いたが、やがてランプを 点 ( つ ) けて音のする方へ行ってみると、猫はもはや障子の破れ目から縁側へ飛下りて啼声を立てていた。雨戸を少し開けて猫を屋根の方へ追いだしながら、辰男は久しぶりに自分の村の夜景色を眺めた。十数町を隔てた小学校へ往来するほかには、春にも秋にもほとんど一歩も門を出たことがないのみか、家の周囲にどんな騒ぎがしていようとも、めったに窓の外へ顔出したことがなかったので、 平生 ( ふだん ) 雨戸一枚隔てた外の景色とは 馴染 ( なじみ ) が薄いのだった。 夕月がすでに落ちて、幾百もの 松明 ( たいまつ ) が入江の一方に絵のように光っている。耳をすますと 小波 ( さざなみ ) の音が 幽 ( かす ) かに聞えたが、空も海も死んだように 鎮 ( しず ) まっている。宮を囲んだ老松は陰気な影を映している。彼れは他郷から帰省した者のように、今夜は少年時代の自分の姿を闇の中のあちこちに見詰めた。……もっと快活で元気のよかった昔の事が 未生前 ( みしょうぜん ) [#ルビの「みしょうぜん」は底本では「みせいぜん」] の時代のように心に浮んだ。 冬でも 藺 ( い ) の笠を 被 ( かぶ ) って浜へ出て、 餌 ( えさ ) を拾って、 埠頭場 ( はとば ) に立ったり 幸神潟 ( こうじんがた ) の岩から岩を伝ったりして、一人ぼっちでよく釣魚をしていた。釣れても釣れなくても、兄弟や近所の友だちと遊ぶよりはおもしろかった。潮が満ちて潟が隠れると衣服を胸までまくし 揚 ( あ ) げて、陸へ上るので、衣服はいつも潮臭かった。あの時分は川尻に 蘆 ( よし ) [#ルビの「よし」は底本では「あし」] が生えていた。潟からは 浅蜊 ( あさり ) や 蜆 ( しじみ ) や 蛤 ( はまぐり ) がよく獲れて、 綺麗 ( きれい ) な模様をした貝殻も多かった。が、今は入江の魚が減って、岩のあたりで釣魚をしたって、 雑魚 ( ざこ ) 一匹針にかかってこないらしい。山や海の景色もあの時分は今よりもよほど美しかったように思われる。向いの小島へ落ちる夕日は極楽の光のように空を染めていた。漁夫の身体つきからして昔は 巌 ( いわ ) [#ルビの「いわ」は底本では「いわお」] のようだったり枯木のようだったりしておもしろかった。 お宮の松には 梟 ( ふくろう ) が 棲 ( す ) んでいたのじゃがと、その 不気味 ( ぶきみ ) な鳴声を思いだしながら、暗い 梢 ( こずえ ) を見上げていると、その木蔭から一羽の鳥が 羽叩 ( はばた ) きして空を横切っているような気がした。 辰男は雨戸を閉めて寝間へ戻ってからも、何となくもの哀れな気持がした。側の壁に懸けておきながら日ごろ忘れはてていたヴァヰオリンに目がついて、久しぶりで弾いてみたくなった。楽器を包んだ黄ろい袋は夜目にも目立つほど汚れていた。 山間の寂しい小学校にいた間、俸給の 余剰 ( あまり ) を積んで 購 ( あがな ) って、 独稽古 ( ひとりげいこ ) で勝手な音を出して、夜ごとにこれを 弄 ( もてあそ ) んでいたことが、涙ぐまるるよう