「ありがとう」を言わなくなった — Epoche C1
場面設定: リスボン・アルファマ地区の自宅、朝食。30年連れ添った夫婦。妻が、コーヒーを差し出された夫を見ながら、ふと気付いたことを口にする。 ジョアン、今、コーヒーを無言で受け取ったわね。最近気付いたんだけど、あなた「ありがとう」をほとんど言わなくなった。1年前から、もしかしたらもっと前から。 ……そうかな。言ってるつもりだったけど。コーヒーは毎朝のことだから、わざわざ口に出すまでもないって思ってたかもしれない。 「わざわざ」、ね。30年前、新婚の頃は毎朝「ありがとう」って言ってくれてた。「わざわざ」じゃなくて、自然に出てた。あの頃と今、何が違うのかしら。 ……たぶん、慣れたっていうことだと思う。日常になればなるほど、感謝が空気みたいになる。空気に毎朝「ありがとう」って言わないだろう。 ……でもね、ジョアン、それは危ない考え方かもしれない。空気だって、なくなってからありがたみが分かるんだから。日常になっても、口にする努力はいると思う。 ……認めるよ。最近、僕は君に「ありがとう」をほぼ言ってない。逆に、君は僕が洗濯物を干しただけでも「ありがとう」って言ってくれる。差が出てるよね。 ……出てるって自覚はあるんだ。じゃあ、なんでしなかったの? ……正直、言い忘れていた、それだけだ。深い意味はない。けど、言い忘れること自体が、君を軽く扱ってるっていう証拠なんだろうな。 ……今、気付いてくれて嬉しい。これから、毎朝、コーヒーを淹れた時に「ありがとう」って聞きたい。それだけで、私、機嫌よく一日始められるから。 ……マリア、今朝のコーヒー、ありがとう。……ぎこちないな、これ。30年ぶりに練習する感じだ。明日からは、もっと自然に出るようにするよ。 解説: 長年の夫婦の「日常化」を、空気に喩えて指摘する妻。最終ターンで「ぎこちない」と認めながら「ありがとう」を発する夫。再起動の瞬間を、淡々と描く。